目元を覆った布が鬱陶しくて、思わず顔に手を伸ばす。
しかしその手をやんわりと摑まれて、浮竹は不機嫌な声を上げた。
「なあ春水、一体いつまでこうしていればいいんだ?」
「もうちょっと我慢してよ。後少しで0時になるから」
そう言った京楽の声はひどく楽しそうだ。
今は目隠しをされているから見えないが、きっとその顔には嬉々とした表情が浮かんでいるに違いないと浮竹は思う。
何時になくうきうきとした様子の恋人は、一体何を企んでいるのかという浮竹の質問に答えてはくれない。
じれったさのあまり目隠しを外そうとした手は、今も京楽の一回り大きな手に包まれたままだ。
これは日付が変わるまで待つしか無さそうだと諦めて溜息をつく。
しかし、呆れた振りをして見せてはいるが、浮竹の口元には微笑が浮かんでいた。
繋いだ手から伝わる体温が心地良い。
馴染んだ京楽の霊圧を隣に感じながら、浮竹はもう少しこうしていても良いかもしれないとこっそり胸の内で呟いた。
奇跡の海
今年の君の誕生日は休みを取っておいてくれないかい、と京楽に言われたのは一月も前のこと。
その時は、どうして今年に限ってそんなことを言い出すのかと不思議に思ったが、京楽の真剣な表情に何となく気圧されてしまい、開きかけた口を閉じると黙って頷いた。
二千年以上もの長い年月を生きていれば、次第に「誕生日」なんてものの有り難味が薄れてくるのは仕方の無いことで。
浮竹も京楽も、今更自分の誕生日など気に留めることは無い。
にも拘らず、毎年飽きもせずに互いの誕生日を祝うのは、やはり二人とも愛しい恋人が生まれた日は特別だと密かに思っていたからである。
だから、任務で余程のことが無い限り、京楽は浮竹の誕生日の前日には雨乾堂に泊まり、日付が変わるのと同時に、誰よりも先に浮竹に祝いの言葉を告げプレゼントを渡す。
そして、誕生日当日の夜は、静かに酒を酌み交わしながら二人で穏やかな時間を過ごすのだ。
実際、いくら本人は気にしていないとは言っても、誰からも好かれる浮竹には誕生日を祝ってくれる者は多い。
毎年十三番隊総出で催される盛大なパーティは、最早護廷隊の中での恒例行事であった。部下思いの浮竹は、皆の気持ちに応えようとそういった催し物には出来る限り参加する。
だから夜ぐらいしか京楽と過ごす時間が無いというのが本当の所であった。
それでも、浮竹は絶対に京楽と二人だけで過ごすための時間を作る。
それは、普段は他人を優先してしまう浮竹が、自分への誕生日プレゼントとして許す小さな我儘だった。
きっと、今年もそんな風に12月21日を過ごすのだと浮竹は思っていた。
*
だから、京楽の思わせ振りな言葉に、浮竹の胸が期待に膨らんだのも無理は無い。
もしかしたら今年は何か特別なものを用意しているのかもしれないと子供のように心躍らせながら、12月21日が来るのを待ち侘びたのだった。
そして、20日の夜。
夕食の後、散歩に出ようという京楽に誘われるまま夜の瀞霊廷を歩いていた浮竹は、気が付くと穿界門の前に辿り着いていた。
まさか京楽にこちらの方角に歩いてくるように誘導されていたなんて気が付かなかった浮竹は、穿界門の門番に京楽が話しかけるのを目にしても、京楽が隊の者に声を掛けているのだろう位にしか思わなかったのだ。
だが、ふわふわと飛んで来た地獄蝶を京楽がそっと指で捕まえるのを見て、初めて京楽の意図を理解した。
*
現世に着く直前に京楽に目隠しをされてしまったから、今自分達が現世のどの辺りにいるのか浮竹には分からない。
それでも、微かに鼻腔をくすぐる潮の香りから海が近いのだろうと推測出来た。
一体どの位こうしているのだろうか。
視界を奪われているからか、時間の感覚が上手く掴めない。
京楽は、日付が変わるのと同時に何かを自分に見せたいのだろうとは浮竹にも分かったが、それが一体何なのか全く予想できなかった。
二千年以上を共に過ごした今でも、京楽は浮竹を驚かせることにかけては超一流なのだ。
「ねえ、十四郎」
不意に背後に京楽の体温を感じる。
同時に、目隠しをしていた布が取り去られるのが分かった。
代わりに京楽の少し乾いた掌が浮竹の閉じられた瞼に触れる。
京楽の片手は浮竹の手を握り、もう一方の手は目元を覆い浮竹の視界を遮っていた。
二人の距離は変わらない筈なのに、それは背後から抱き締められるよりもずっと倒錯的な仕種だった。
ぴたりと密着した背中から、京楽の体温が伝わってくる。
触れ合った部分から京楽の熱が浮竹を満たし、二人の身体が溶け合う錯覚を起こさせる。
耳の奥で響くとくとくと脈打つ鼓動は、もうどちらのものなのか浮竹には分からない。
「僕のこと、信じてる?」
耳元で感じる吐息に、浮竹の背筋がふるりと震えた。
「…ああ、信じてる」
掠れた声でそう答えるのがやっとだった。
「じゃあ、ゆっくり目を開けてみて」
瞼を覆っていた心地良い熱は消え、「誕生日おめでとう」と優しく囁く声が浮竹の耳に届く。
今年も一番に京楽が誕生日を祝ってくれたのだと気付いた浮竹は、くすぐったい気持ちに頬を染めながら、京楽に言われた通りゆっくりと瞼を上げた。
「これは……」
浮竹の視界に飛び込んできたのは、冴え渡るように透明な碧。
呼吸(いき)をするのを忘れるほどに深い蒼は、まるで碧玉を溶かしたように神秘的な輝きを放っていた。
「俺達、海中にいるのか…?!」
足元を見遣れば、鮮やかな緑の珊瑚礁が広がっている。
浮竹がよく目を凝らして辺りを見回してみると、白金色に淡く光る大きな泡のような球形の結界が二人を守っているのが見て取れた。
どこまでも果てしなく続く海の中、京楽と浮竹を包む結界は、珊瑚の森に隠された大粒の真珠のようにひっそりと淡く光っている。
「これは特別な結界でね。随分前から阿近くんに開発を協力してもらってたんだよ。深海の水圧に耐えるだけの強度を持つ結界を作るのは簡単だけど、海水中の霊子を常に結界内に取り込んで、
その結果長時間呼吸を可能にさせるのには苦労したけどね」
呆然としている浮竹の手を取ると、京楽は懐から何かを取り出す。
シャラン、と鈴の鳴るような音共に浮竹の手の上に置かれたのは、銀の鎖に繋がれた瑠璃色の石だった。
石の中では青白い炎がちらちらと燃えている。
「僕も仕組みは良く分からないんだけどね、その石に籠められた霊圧と共鳴するように術を発動するとこの結界が張れるんだってさ」
慣れるまでに少し練習が必要だけど、十四郎ならすぐに出来るようになるよ。
そう言うと、石を握らせるように京楽は両手で浮竹の手を包み込んだ。
「これが、今年の僕からの誕生日プレゼント」
真っ直ぐに浮竹を見詰める京楽の瞳は、海の青を反射して浮竹が見たことも無い不思議な色合いをしていた。
「でも…どうして…?」
まるで、二つのガラス玉の中に宇宙を閉じ込めたみたいだとぼんやり思いながら浮竹は問う。
京楽の宇宙に映し出される自分の姿があまりに鮮やかで、浮竹は自分と京楽を隔てる境界が霞み、京楽の中に吸い込まれていくような気がした。
「君は、水の中に潜るのが好きではないよね。水の中では呼吸が出来ないから」
だから、怖いんだよね。
そう呟くと、京楽はそっと両手を浮竹の頬に添える。
京楽の言う通り、浮竹は水に顔を浸けることを極力避けていた。
水中で息を止める度に、もしかしたらこのまま呼吸困難に陥るかもしれないという不安に襲われるからだ。
息の出来ない苦しさを経験するのは、持病の発作だけで十分だった。
「だから、君は海の中を見たことが無い。勿論一緒に水族館に行ったことはあるけど、あんなのは所詮作り物の海だ。
僕はね、君に本物の海を見せたかった」
海の中はとても静かで、それだけに僅かな音でさえも鼓膜を大きく震わせる。
耳に響くいつもより少しだけ低い京楽の声に、浮竹はふと、世界に自分達二人しかいないような錯覚をした。
「ねえ、十四郎」
「……春、水……」
「僕はね、君に出会うまでこの世界に愛着なんて少しも感じなかった。自分の生き死にも、世界の行く末にも、興味が無かったんだよ」
初めて出会った頃の、全てを諦めたような目をした京楽を思い出して浮竹はこくりと頷く。
「でもね、君と出会って、僕は初めて世界が美しいことを知った。
君が生きているから、この世界を愛することが出来た」
それは違うと口を開きかけた浮竹を、笑って首を振ることで京楽は制止する。
琥珀色の優しい眼差しに、浮竹の胸はどうしようもなく締め付けられた。
「だから、君の生きるこの世界の全てを、君と分かち合いたいんだ。
君と同じ風景を見て、君と同じ道を歩みたい。
僕は、君と同じ世界を生きて行きたい」
―――二人で同じ世界を見たいから。
京楽が自分をここに連れてきた理由を理解して浮竹の胸が一杯になる。
互いを見詰めあい、想いを語り合うだけが愛じゃない。
一緒に同じ方向を見詰め、手を繋いで同じ道を歩む。
そんな愛のカタチもあるのだ。
京楽が浮竹に海を見せたいと願ったのは、浮竹と同じ景色を共有したかったから。
そして、この世界で共に生きて行こうと、浮竹に約束したかったから。
それが、京楽の浮竹への愛のカタチなのだ。
「ありがとう、春水」
手の中でゆらゆらと光る石を固く握り締めながら、浮竹は京楽の首に手を回してその厚い身体を引き寄せる。
互いの息がかかる距離まで近付くと、京楽の逞しい腕が浮竹の背中に回された。
「どうしてお前は俺を喜ばせるのが上手いんだろうな」
京楽が与えてくれるなら、どんなものだって嬉しいのに。
戯れに自分の名前を呼ぶ声や、ちょっとした拍子に向けられる視線、笑顔。
それだけで、浮竹の心は満たされる。
それなのに、京楽は二千年経った今でも浮竹のために、こんなに素晴らしい贈り物を用意してくれるのだ。
海よりも深い愛情を自分だけに注いでくれるこの男が、愛しくて愛しくてたまらない。
「そりゃあやっぱり、愛でしょ、愛」
いたずらっぽく片目を瞑って見せた京楽に、たまらず浮竹は吹き出した。
*
少しの間見詰め合った後、浮竹に促された京楽がシャラン、と軽やかな音をさせて銀の鎖を浮竹の白い首筋に飾る。
そして、どちらからとも無く手を繋ぐと、二人が生きるこの美しい世界を心に焼き付けるため、水底の世界に視線を移した。
波が織り成す光の網に照らされたそこは、水中の楽園だった。
大小様々の魚が、珊瑚の木々の間を優雅に泳ぐ。ターコイズブルーやレモンイエロー、ビビッドピンクの彩り鮮やかな魚達は、正に生きる宝石だった。
咲き誇る水中花のようなイソギンチャクの奥からは、見たことも無い不思議な姿をした生き物が顔を覗かせる。銀の鱗をきらきら光らせて目の前を横切る魚の群れに、浮竹は思わず感嘆の声を上げた。
眼前に広がる夢のように美しい光景に京楽と浮竹が夢中になっていると、突然黒い影が頭上をよぎる。
驚いて二人が顔を上げると、そこには海面近くを滑るように泳ぐイルカの群れがいた。
幾つもの滑らかなフォルムが、華麗に水の天井を移動していく。
イルカ達の戯れるような軽やかな泳ぎに、京楽も浮竹も暫し我を忘れて見入るのだった。
ふと、魅せられたように海面を見上げたままだった浮竹が、ぽつりと「春水、あれを見てくれ」と漏らした。
「あそこに見える、炎のような光は…あれは、月なのか?」
京楽が浮竹の視線の先を追うと、そこでは白銀の月が波に揺られて金剛石の欠片のように煌いていた。
月光が差し込み、蒼い水の中に真っ直ぐな光の柱がそびえ立つ。
「そうだよ。いつの間にか月が中天にかかっていたんだね」
「すごいな……水の中から見上げる月がこんなに美しいなんて……」
海の中から見る月は、手を伸ばせば届きそうだと浮竹は思う。
青い水に溶けた月は、粉々に砕けて波に漂う白い光の結晶のようだった。
「僕は、月を見るといつも君を思い出す」
「俺を?」
「君は僕にとっての月だからね」
「俺が月なのか?」
くすくすと笑いながら浮竹は「それじゃあお前は何だろうな」と冗談交じりに問いかける。
しかし京楽は少し自嘲的に目を伏せて苦笑いを零す。
「そうだねぇ……君が月なら、僕は深海魚かな。光の射さない真っ暗な海の底で、重い重い水圧に押し潰されそうになりながら、見たことも無い空に浮かぶ月に恋焦がれる醜い深海魚だよ」
そう言って微笑んで見せた京楽に浮竹の胸はつきりと痛む。
そんなことはないと京楽の言葉を否定したかったけれど、思い浮かぶ言葉はどれも陳腐で、浮竹の気持ちを伝えることは出来ない気がした。
だから、代わりに浮竹は京楽の手を握る力を強くする。そうすることで声に出せない自分の想いが伝わるように。
イルカの群れが、まるでその美しさを讃えるかのように白銀の月の周りを何度も何度も円を描くように泳いでいた。
「……綺麗だな……」
「……そうだね……」
京楽と浮竹が見惚れている間も、イルカ達は月を囲んで踊り続ける。
イルカ達の動きによって乱された海面が月の光を乱反射して、小さな光の粉を降らせた。
「え……?」
だが視覚のいたずらだとおもったそれは、驚いて目を見張る京楽と浮竹の元へゆっくりと舞い降りてきたのである。
「これは…」
「雪だ……海の中なのに雪が降っている…」
淡く白い光を放つ粒子が、海底世界に音も無く降り注ぐ。
それは、海に降る雪だった。
「…マリンスノーだ」
「マリンスノー?」
「ああ。有機物の破片や死骸が集まって出来た粒子だ。確か深海に棲む生き物の餌になると聞いたことがある」
「へえ…」
みるみるうちにマリンスノーが珊瑚の森を白く染め上げていく。
海中の雪景色という幻想的な光景に、二人は言葉を失った。
マリンスノーは死んでしまった海の命が集まって出来ている。
それらの命の粒を食べて、海の住人達は生きているのだ。
しかし、マリンスノーの恵みは浅い海に住む生物だけに与えられるのではない。
マリンスノーは広い海を浮遊しながら海中に沈んで行き、やがては海底に積もる。
太陽の光さえ届かない深海に棲む生き物達は、マリンスノーを食べることで生き長らえることが出来る。
マリンスノーとは、海の生き物全てに等しく降り注ぐ、命の雪なのだ。
「なあ、春水…」
海の雪に見入っていた浮竹が京楽の方へと向きを変える。
そして、そっと両手で京楽の手を包むと、自分の胸へと押し当てた。
「十四郎?」
「お前は、自分のことを深海魚だと言った。そして俺は月だと」
浮竹は京楽から視線を逸らせるように俯いたまま言葉を紡ぐ。
京楽は黙ったまま浮竹の長い睫が震える様を見詰めた。
「でも、もしお前が深海魚なら、俺は月ではなく、マリンスノーになりたい」
浮竹の凛とした声が、静かな海底に響く。
蒼く透き通った海に、真珠色の月光が幾つもの虹を架ける。
浮竹は顔を上げ、真っ直ぐ京楽を見据えた。
月光を溶かした翡翠の海に漂うのは、京楽只一人。
「俺は遠くでお前に恋焦がれられるものではなく、近くでお前を生かす存在でありたい。たとえ、そのために陽の射さない暗闇に堕ちなければならなくとも、俺はお前の命の糧でありたい」
京楽が生きていることが、浮竹の喜びなのだ。
京楽が生きている世界を、浮竹も愛しいと思う。
京楽が生きているからこそ、浮竹は生きたていたいと思う。
京楽の命が、浮竹の命そのものなのだ。
だから、浮竹は京楽と共に生きて行きたい。
「十四郎…」
真摯な浮竹の告白に、京楽は一瞬泣き出しそうに顔を歪ませると、力の限り浮竹をその腕に掻き抱いたのだった。
「生まれてきてくれてありがとう」
マリンスノーの降りしきる中、どちらからともなく顔を近付けると、そっと唇が重ねられる。
京楽の甘い口付けは、浮竹に生まれてきた喜びを教えてくれる最高の誕生日プレゼントだった。
白い雪が海の中を静かに舞い落ちる。
それは、海に生きる全てのものに降り注ぐ祝福の白い光だった。