「俺が、ですか?」
予想もしていなかった言葉に、唇に紅茶のカップを運ぼうとしていた浮竹の手が止まる。
白磁のカップの中では、琥珀色の液体が陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
「そうじゃ。お主が適任だと、わしは確信しておる」
困惑した表情の浮竹とは対称的に、山本の言葉は揺ぎ無い。
驚きに言葉を失った浮竹は、回らない頭で山本の言葉の意味を理解しようとしながら、無意識の内に紅茶を一口啜っていた。
苦い味が舌に広がる。
そこで初めて砂糖を入れ忘れたことに気が付いた。
月下美人の咲く頃に 1
S大学哲学科の教授で形而上学の専門家である山本元柳斎は、浮竹の大学時代の恩師だった。
当時、初めて触れる西洋の偉人達の思想に夢中だった浮竹は、それこそ寝る間も惜しんで文献を読み漁り、知識を吸収することに毎日を費やしていた。
山本は、そんな浮竹の哲学に対する情熱を高く評価してくれたのか、講義外の時間でさえ暇さえあれば浮竹の拙い議論に耳を貸し、時には賞賛を、時には的確な批判を惜しみなく与えてくれたのだった。
浮竹は、山本から思索することの楽しさを教わったのである。
しかし、卒業以来仕事に忙殺されていた浮竹は、いつの間にか哲学書を読むことも止め、気が付くと山本とも疎遠になっていた。
だからこそ、日曜日の朝、突然電話で山本が近くまで来たから是非会いたいと言ってきた時、正直言って少し驚いた。
何しろ、手紙の遣り取りはあったとは言え、浮竹が最後に山本と直接会って話をしたのは実に5年以上も前のことなのだ。
しかし、驚きは直ぐに懐かしさと恩師に会える喜びに取って代わり、浮竹は快く駅前の喫茶店で山本と待ち合わせる約束をしたのだった。
久し振りに会った山本は、随分と髪が薄くなり、歩行が困難なのか杖を突くようになっていた。
かつての師の老いた姿を目の当たりにして、どうしてもっと早くに自分から連絡しなかったのだろうかと小さな後悔の念が浮竹の胸を刺した。
しかし、老いた肉体とは対称的に山本の頭脳は今でも鋭く冴え渡り衰えを知らぬことは、一度会話を始めれば明白であった。
まるで大学時代に戻ったような気分になりながら、浮竹はしばらく紅茶を飲みながら山本との他愛無い世間話に花を咲かせていた。
そんな時、不意に山本が真面目な顔でイギリスに留学してみないかと切り出したのである。
*
「でも、先生・・・留学なんて、俺には・・・」
確かに浮竹は常に哲学科の首席であり、周囲も浮竹自身も浮竹がこのまま大学院に進み、将来は研究者となることを望んでいた。
しかし、卒業間近になって突然浮竹の父親が脳梗塞で倒れてしまい療養生活を余儀無くされたのである。稼ぎ手を失った浮竹家の生活は、長男である十四郎の肩にかかっていた。
こうして、両親と7人の弟妹達を養うため、浮竹は大学院へ進むことを諦め、父親の知人に紹介してもらった小さな出版社で働くことになったのである。
哲学の道をとっくの昔に諦めていた浮竹にとって、山本の話は正に青天の霹靂であった。
「先生、折角のお話ですが、留学なんて俺には無理です…仕事があるし、それに…」
「分かっておる。お主の家族のことじゃろう」
山本の視線を避けるように俯いたまま、浮竹は小さく頷く。
母親は今もリハビリを続ける父親の介護で手一杯で、幼い弟妹達の世話をするのはどうしても浮竹の役目になってしまう。歳の離れた弟妹達にとって、浮竹は親代わりも同然だった。
だからこそ、家族を置いてイギリスへ行くなどと、とても考えられなかった。
せめて一番下の妹が成人するまでは自分が一家を支えなければと、浮竹は決心していたのである。
弟妹達が皆成人して家を出るのを見届けるためになら、自分を犠牲にする覚悟があった。
そんな浮竹の心中を山本も知っているはずだった。
それなのに、どうして今更山本はこんな話をするのだろうか。
「十四郎。お主はわしが今まで見て来た中で、最も優秀な生徒じゃ。十分に資格はある」
そんな浮竹の心中を知ってか知らずか、一つ一つ区切るようにして山本は言葉を続けていく。
尊敬する師からの称賛の言葉も、今は胸を貫く刃だった。
遠い昔に諦めてしまった夢は、もう決して叶うことは無い。
将来への希望に溢れていたあの頃の自分を思い出して、浮竹はふと泣きたくなった。
「のう、十四郎」
不意に山本の声音が変わって、浮竹は思わず顔を上げる。
目の前には、慈愛に満ちた眼差しで浮竹を見詰める師がいた。
「お主はもう十分頑張った。そろそろ、自分のために生きても良いのではないか?」
―――自分のために、生きる。
それは、今の浮竹からはとても遠い言葉だった。
父親が倒れた瞬間から、浮竹の人生は只家族のためだけにあった。
両親を支え、弟妹達を育てることが浮竹の全てだった。
浮竹自身の望みなど、家族の幸せと引き換えならば惜しくは無かった。
否、家族の幸せこそが自分の幸せなのだ。
そう、自分に言い聞かせていた。
「こんな機会は二度と無いやも知れぬ。イギリスでPhDを取得すれば箔が付く。わしが定年退職する頃には、大学に戻ってこられるかも知れんのじゃぞ?」
大学に戻って研究に従事出来るかもしれない。
そのヴィジョンにほんの少し心が動かされるが、すぐに黒い疑念が頭をもたげる。
今更大学に戻って何になるのかと、自問せずにはいられなかった。
「・・・・・・少し、考えさせてください」
それだけ言うのが精一杯だった。
浮竹の反応をある程度予想していたのか、山本はわかったと肯くだけで何も言わなかった。
*
「まだ留学者の決定まで半年ほど時間がある。後悔しないようにじっくりと考えて結論を出すが良い」と言い残して山本は喫茶店を後にした。
杖を突いて歩く恩師の老いた後姿を、浮竹は複雑な思いで見送る。
その弱々しい姿は浮竹の覚えている「実在論」と「唯名論」について情熱的に語ってくれた山本とはあまりにも変わり果てていて、どうしようもなく胸が締め付けられた。
あれから長い月日が経ってしまったのだと、今更ながらに時の流れの残酷さを突き付けられた気がした。
***
喫茶店を出ても、浮竹はそのまま家に帰る気分にはなれなかった。
胸の内に巣食うもやもやとしたものを抱えたままでは、とてもいつものように弟妹達の前で「優しいお兄ちゃん」を演じることなど出来ないと分かっていたのだ。
それに、何よりも一人になって考える時間が欲しかった。
知らず知らずの内に足は家とは逆の方向に向かっていて、気が付くと駅前の道をあてもなく歩いていたのだった。
日曜日の午後の街は買い物客で賑わっている。しかし、人込みの中にいながらも浮竹は孤独だった。まるでこの場所で自分だけが異質な存在であるかのような錯覚に浮竹は一人自嘲的な笑みを零すのだった。
浮竹が山本の提案に直ぐに返事をすることが出来なかったのは、何も家族のことがあるからだけではない。迷っているのは、浮竹の中に哲学に対する蟠りがあるからだ。
大学を出て働き始めてから、浮竹は哲学とは無縁の生活を送っていた。
毎日仕事と弟妹たちの世話に追われて忙しく、とても一人でゆっくりと何かについて考える暇などなかった。
そして、いつしか日常生活を営む上で思考は邪魔なものでしかなく、「何故」「どうして」と問うことは不必要なのだと、幻滅にも似た思いが浮竹の中に生まれていた。
大学生だった浮竹があれ程夢中になった哲学は、社会に出てみると何の役にも立たないことがわかったのだ。
今更哲学など勉強して何が得られるのか。
一体自分は哲学に何を見出したのか。
何を求めていたのか。
あの頃の自分がどんな思いでデカルトの「方法叙説」の頁を捲ったのか、浮竹にはもう思い出せない。
自分のしたいこととは何だろう。
自分は何をするべきなのだろう。
そんな答えのない問いを繰り返しながら、浮竹は夢遊病者のように砂漠のような街を彷徨っていた。
そんな時、浮竹の眼に「Gallery Urahara」と書かれた画廊が目に入った。
ビルの一階にあるそのアートギャラリーは、この街で生まれ育った浮竹が初めて見るものであった。しかし外観を見る限りではつい最近出来た訳ではないらしい。
どうやら浮竹が今まで気が付かなかっただけで、数年前からオープンしているらしかった。
だが浮竹がこの画廊の存在に気が付かなかったのもある意味では当然かもしれない。
はっきり言って浮竹は芸術に疎かった。流石にピカソやゴッホなどの有名な画家の名前くらいは知っているが、知っているだけで特に興味も無かったのである。
自分の興味の範疇外にあるものは目に入らない傾向がある浮竹が、この画廊を知らなかったのも無理は無かった。
ガラス張りのウィンドウから窺い知れるGallery Uraharaの内装は落ち着いたアイボリーホワイトで統一され、静かで穏やかな雰囲気を作り出している。
それは、堂々巡りする思考にも自分を取り巻く環境にも嫌気が差していた浮竹にはひどく魅力的な避難所のように見えた。
少し迷ってから、キィ、と音を立ててドアを開けると、浮竹は恐る恐るギャラリーの中に足を踏み入れた。
Gallery Uraharaは中に入ってみると意外なほど広く、絵画だけでなく彫刻や陶芸品も扱っているようだった。
こういった場所に入るのは初めてなため、浮竹はどう振舞えば良いのか分からない。
取り合えず他の客と同じように展示品を一つ一つ鑑賞する振りをしながら、戸惑いがちに歩みを進めた。
勿論芸術に関して全く無知である浮竹は美術作品を正しく鑑賞する見識など持ち合わせてはいない。
何となくこの絵は好きかもしれないといった「好き嫌い」の感覚で見ているだけだった。
学問の世界しか知らなかった浮竹にとって初めて触れる芸術作品はどれも物珍しく、
(一体どういうタイプの人間が芸術家なんてものになるんだろうか)
と、会ったことも無い芸術家という人種に対して畏怖にも似た気持ちを抱いてしまう。
そんな風にとりとめ無く壁に掲げられた絵画を見物しているうちに、ふと浮竹は一枚の絵の前で足を止めた。
そして、そのまま吸い込まれるように見入ってしまう。
浮竹の目を惹いたのは、大地を激しく打つ雨を描いた小さな絵だった。
灰白色の雨空と赤茶けた地面を繋ぐ驟雨が、力強い―だが、逆説的なことに同時にひどく繊細な―筆致で描かれていた。
ただそれだけのシンプルな絵にもかかわらず、浮竹はその絵に激しく惹き付けられた。
何故その絵がこんなにも心を打つのかは浮竹にも説明出来ない。
ただ、その絵を見た瞬間、強烈な感情が浮竹の身体中を電流のように駆け抜けたのだ。
その絵の前でどれくらい立ち尽くしていたのか分からない。
突然肩に置かれた手に現実に引き戻された。
「ねえ、君」
「え?」
そこにいたのは、ウェーブのかかった黒髪に浅黒い肌をした、浮竹と同い年位の男だった。
「な、何か用ですか?」
何故か切羽詰ったような表情をしている男に、思わず身構えてしまう。
買う気も無いのにここにいることを咎められるのではないかと焦る浮竹だったが、しかし次の瞬間耳に飛び込んできたのは意外な言葉だった。
「君、僕の絵のモデルになってくれないかな?」
「…………モ、モデル?」
「そう。どうしても君をモデルにした絵が描きたいんだ」
「で、でも、何で俺?それに君は一体…」
まさか新手の勧誘だろうかと急に怖くなる。目の前の男はどう見ても堅気の人間ではない。
これは適当に話を終わらせて早々にこの場を立ち去った方が良さそうだと思い始めた浮竹に向かって、その男は更に衝撃的な台詞を発した。
「僕は京楽春水。君がさっきから熱心に見ている絵の作者だよ」
03.12.09
パラレルに初挑戦です。
浮竹さんは当初イギリス文学を研究してる設定でしたが話の都合上哲学を勉強していたことになりました。
今までに書いたことの無いキャラを出演させたいなあと思ってます。