登校拒否・不登校に関して、さまざまな研究があることを俯瞰して、自分自身の関心を言葉にすることを目標とする。それぞれの先行研究は、何を問い、何を問題にしているのかを意識する。
朝倉景樹『登校拒否のエスノグラフィー』を追加
子供のアイデンティティと登校拒否
問題提起
登校拒否をすることに対して当事者や周囲の人々はどう感じ、登校拒否とどのようにつきあっていくのだろうか。
基礎概念
<登校拒否>
恐怖症とか拒否といった要因推測の用語を嫌い、よりニュートラルで単なる現象記述
<不登校>
非行による怠学や学校無気力症候群のようなものまで包容する危険性
<東京シューレ>
登校拒否をしている子供たちが通う「学校外の居場所」
1985年6月に主宰の奥地圭子によって東京都北区東十条に開かれる。
1991年3月に北区王子に移転。
東京シューレの目的は「学校外の学びの場所を作りだし、子供が自由に通ってくる場所」をつくること、
管理や競争などに「追い立てられずにのびのびと、自分の意志と感性を大事にしあいながら、自分の成長力を発揮していけるような場を実際上つくりだす」こと
主な著者
朝倉 景樹(あさくら かげき)
逸脱・社会問題論、都市社会学専攻
現在、大学院博士課程に在籍するかたわら、東京シューレという「学校外の居場所」に週3日通っている。
貴戸 理恵(きど りえ)
慶応義塾大学総合政策学部卒。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
現在、同大学院博士課程在籍
基礎的データ
登校拒否に対する大人の意見
なかなかいじめという悩みを抱えていても登校拒否という問題行動に表せない子供がいる。
「転校や不登校も死ぬよりはましーそんな世界に子どもは置かれている」
カウンセラーの主張
学校はそもそも行っても行かなくてもよいところなのだからいじめで死ぬことを選ぶほど辛い思いをしているなら学校は行かなくても良い
ルポライターの主張
学校なんかいくらでもやり直せる
自殺という「最悪の事態」よりはましだが、登校拒否は問題行動である。
学校に行くということが前提
→登校拒否についての考えは決して単一ではないが、根底には「登校拒否は治す対象」であるという考えがある
山本雄二の意見
自分の生命を守ることは義務である。これはいわきいじめ訴訟で自殺した生徒自身にその責任が三割あるとした事例に基づいての考え方。
自分の生命を守ることが義務であるなら、自分の命を守るために登校拒否をすることも義務である。
子どもたち(当事者)の意見
登校拒否をどう治すかなどということを問うているのではなく、学校との付き合い方を当事者である自分たちが決めることを認めるべき
登校拒否に対する意見は一人ひとり違う。学校へ行っていないことに対して罪悪感をかかえていたり、うしろめたさや、将来に対する不安を抱いている人もいれば、東京シューレのような学校外の場所で居場所を見つけ、その暮らしに満足している人もいる。
学校に行かなくなったら、外に出にくくなった。「このまま学校に通っていたら自分が自分じゃなくなる気がした」
東京シューレに通う子供の意見
学校は、教師が「偉そう」なのが嫌であるとか、教師が生徒を「見下し」ているなどと、生徒に対する教師に権威的なものがある。
東京シューレには上下関係がない、強制がない、やりたいことがやれる、自分の意見を言えば、通る
子供でも規則を変えられる
学校はみんな先生にやれと言われたことをみんな同じようにやる、自分の意見が通らない、強制(教師、両親、学校という存在から)
学校が行かないことが悪いことだとおもっていたのでは東京シューレに通うこともつらくなるし、何も手につかないことになる。
「学校に行かないことは悪いことではない」というように<登校拒否>についての考え方が自分の中で整理されてきて初めて、東京シューレに通いたいと思う
つまり、「学校に行かないことは悪いことだ」というようにかんがえていたのでは、その罪悪感から学校外の居場所へ行くことは難しい。したがって東京シューレには「学校に行かないことは悪いことではない」と考える子が通っているのだ。
→「学校に行かないことは悪いことではない」「学校に行かないことで差別しないでほしい」「登校拒否っていうのは、いい、悪いじゃなくて親との闘いだよ」
親の意見
子供は登校すべき
学校に行かないことで、子供の将来が心配
「少なくとも高校卒業の資格がないと今の社会ではやっていけない」
朝倉茂樹の意見
学齢期の子供に対しては、学校や家庭ばかりではなく社会のさまざまな場所が学校中心に動いている。
現在の日本社会では<登校拒否>は本来あるべき姿ではない、本来学校は行くべきところだという論調が強い。
その中で、東京シューレは「登校拒否は病気じゃない」という立場を鮮明にだし「学校は行っても行かなくてもどちらでもいい」という考えの下、活動している。
学校に行かなくなったこどもは、居場所がなかなか見つからず、苦しんでいる。学校に行かなくなることで、同時に居場所を失う。
「学校に行くのが当たり前」と思っていて学校にいけない自分という現実があるときに、学校にいけない自分が家族に受け入られないことがいかにつらく、また家の居心地が悪いか
→学校に囲い込まれる子供たち(学校中心の社会構造
現在の日本社会では、家庭にいる子供も、ただ「子ども」として存在するのではなく「学校に行くべき子供」として存在している。学齢期にある子供たちにとって学校の規範が及んでくるのは学校と家庭だけではない。立ち読みをしている本屋で。商店街の路上で、同級生が通るかもしれない公園で他者の視線にさらされていると感じるとき、学校に行っていない子は学校と家庭の外の世界からも扉を閉ざされたかのように感じるのである。
学校では、「今」ではなく「将来」のためにあるのである。学校の時間は線形的に規則正しく、確実に未来に向けて流れる。しかし、登校拒否をしている子供たちの時間は直線的ではない。「今」を大切にすることが結果として将来を豊かにするという考えの子が多い。
文部省が学校外の居場所等「民間施設」に対する扱いを変化させたことによって、かえって<登校拒否>をしている子供が家に居づらくなってしまった。これまで「無理に学校に行かせないほうがいい」という<登校拒否>をしている子への接し方が知られてきたことで家庭にいやすくなった<登校拒否>している子たちは「学校に行かないのなら、民間施設に行きなさい
という新たな圧力を受けるようになった。その結果、<登校拒否>に対する考えが自分の中で整理がつかず不安定な状態のままで親に押し出されるような形で東京シューレにくる子供が増えてきた。
<登校拒否>をしているものとしての自己定義は学校外の居場所での生活の中で、多くは変わりゆくものである。「学校にいけないもの」から「今は学校に行っていないもの」へ、さらに「学校に行かないことを選んだもの」としての自己定義する傾向があった。
理論
登校拒否をすることに対して、当事者である子供と、子供の周囲の大人とで、考え方が違う。そのため両者が対立し、登校拒否の問題を難しくしているのではと考えた。
まず、不登校、登校拒否に対する、周囲の大人の考えを整理していく。
朝倉茂樹著の登校拒否のエスノソロジーではこのように述べられている。
・学校なんかいくらでもやり直せる
・自殺という「最悪の事態」よりは、ましだが、登校拒否は問題行動である。
・学校はそもそも行っても行かなくてもよいところなのだから、いじめで死ぬことを選ぶほど辛い思いをしているなら学校は行かなくても良い
・子供は登校すべき
・学校に行かないことで、子供の将来が心配
「少なくとも高校卒業の資格がないと今の社会ではやっていけない」
→登校拒否についての考えは決して単一ではないが、根底には「登校拒否は治す対象」であるという考えがある。また、いずれは学校に戻るべきだという考え方である。
次に当事者の両親の不登校、登校拒否に対する考え方である。
両親は当事者が不登校になった当初は、中には理解のある両親もいるがほとんどは無理やりにでも学校へ行かせようとする。それは、今までの平和な生活が一気に崩れ落ちる恐怖感とわが子が分からないという気持ち、周りの目などからなんとか元の生活に戻そうとするからである。
多くの親にとって「学校には行かなくてもいい」といったとしても「学校信仰」を拭い去ることは難しく、「学校信仰に縛られた状態」と「解き放たれた状態」の間で揺れや迷いを抱えている。
しかし、そんな多くの親がある一定のラインを経験するのだそうだ。
それを貴戸さんはそのラインを「淵」と呼び、その経験を「翻身」と呼んでこのように述べている。
あらゆる手を尽くして子供を学校へ行かせようとし、「淵」のぎりぎりまで子供を追い詰め、奈落をみてはっときずき、踵を返す。
親にとって翻身とはそうした経験である。
学校をめぐる価値について「不登校の否定」から「肯定」へと移行する意味での転換ではなく、学校をめぐる価値から目の前の子供をめぐる価値へと、思慮の対象そのものを転換させることによって起こっている。そこのあるのは「不登校は悪くない」とおいうより「うちの子は悪くない」という転換である。
家族に深い混沌をもたらすがそれが極限まで行き着いたとき「分岐点」が訪れ「生の根源的受容」が始まる。
この淵を経験した親の声が以下である。
・「命の大切さに気付かされた」
・「ありのままのわが子でいい」
・「学校へ行かなくても大きくなるの。元気でいるのが一番。死ななければ大きくなれる。生きているだけでいいじゃない?ほんと、生きていればいいって思っているだけよ。自分の子供って大切だから。なくなったら立ち上がれなくなるでしょう
「学校よりわが子が大事」として、登校強制から家庭における不登校生活の承認へと文字どおり身をひるがえす「翻身」は「生の根源的受容」を経た親たちのリアクションなのだ。
この経験をすると両親は当事者の味方になることができ、当事者は家に居場所ができるのだ。
⇒両親は不登校に対して、最初は理解しがたく、また自分の問題ととらえるために、何とか学校へ行かせようと当事者を追い込んでしまう傾向がある。しかし当事者と対立し、わが子をぎりぎりまで追い詰めるうちに「学校信仰」はわが子をそこまで追い込んでまで守ることであるのかとはっとすることで当事者に理解を示すようになるのだ。
次に、当事者である子供たちはどうだろうか。
・登校拒否をどう治すかなどということを問うているのではなく、学校との付き合い方を当事者である自分たちが決めることを認めるべき
・学校に行かなくなったら、外に出にくくなった。
・「このまま学校に通っていたら自分が自分じゃなくなる気がした」
→こちらも考えは単一ではないが、登校拒否を治す、治さないでは考えていない。自分でこれからの生き方を決めたい、学校へいくことを義務としてではなく選択肢の一つと考えている。
ただし、これは登校拒否が長期にわたっている子供であり、登校拒否をして間もないころでは、学校へいけない自分が悪いと考える子供も少なくない。
学校外での居場所として機能している東京シューレに通っている子供たちは以下のように語っている。
・学校は、教師が「偉そう」なのが嫌であるとか、教師が生徒を「見下し」ているなどと、生徒に対する教師に権威的なものがある。
・東京シューレには上下関係がない、強制がない、やりたいことがやれる、自分の意見を言えば、通る。子供でも規則を変えられる。
・学校はみんな先生にやれと言われたことをみんな同じようにやる、自分の意見が通らない、強制(教師、両親、学校という存在から)
・「学校に行かないことは悪いことではない」
・「学校に行かないことで差別しないでほしい」
・「登校拒否っていうのは、いい、悪いじゃなくて親との闘いだよ」
→学校が行かないことが悪いことだとおもっていたのでは東京シューレに通うこともつらくなるし、何も手につかないことになる。
「学校に行かないことは悪いことではない」というように<登校拒否>についての考え方が自分の中で整理されてきて初めて、東京シューレに通いたいと思う
つまり、「学校に行かないことは悪いことだ」というようにかんがえていたのでは、その罪悪感から学校外の居場所へ行くことは難しい。したがって東京シューレには「学校に行かないことは悪いことではない」と考える子が通っているのだ。
以下は貴戸理恵さん著の『不登校は終わらない』に書かれた当事者の声である。
・先生が怖い
・恐怖感
・前日の夜は行くつもりなのに朝になるといけない
・学校に行きたいのにいけない
・選択肢として不登校を選ぶほど余裕はない。自分にとって止むにやまれぬ状況で不登校に突っ込んでいった。
・「今・ここ」がつらいんだ。きっと大丈夫と言われても腹が立つ。
当事者によって考え方はさまざまだが、学校に対して何らかの違和感、または恐怖を抱いて学校に行かなくなるようだ。最初のうちは学校へ行けない罪悪感をもったり、学校へ行けない自分に対しての自己嫌悪、行きたいのに行けない葛藤などを抱える人が多いようだ。周りの人に今はだめでもきっといつかは・・といわれても、当事者は「今・ここ」がつらいのであって自分ではどうしようもない状態で先が見えないから不登校になっているのだと考えるのだ。
しかし、不登校が長期にわたると、次第に彼らの考え方は「学校へ行けない」という考えから「学校へ行かない選択をした」と学校へ行くことを選択肢として考えるようになる。
それは、学校へ行かない自分を守るためでもあるが、フリースクールへ通ったりすることで前向きな考え方になったともいえる。
フリースクールの代表である東京シューレでは
「不登校は病理・逸脱ではなく一つの選択である」という考えである。
不登校に不寛容な社会では、学校に行くことができなくなった子供は罪悪感や不安感などの自己否定感に苛まれ、心身の不調を訴えることもしばしばである。
しかし、「自ら選んで学校に行かない」と思い直すことによって子供の苦しみは緩和される。としている。
このようなフリースクール的考えに変わってくるのだ。
さらに、当事者たちはこんな風にも語っている。
・学校を卒業してもその当時のことは思い出したくない
・元登校拒否児の中でまともな社会人になっている人が、一体どれくらいいるっていうんだろう。ひきこもり、病気、暴力といった「ハッピーエンド」とは程遠い状態にある人も少なくないはずだ。こういう人たちは、うっかり忘れられてしまったんだろうか。それとも「見せたくない」と省かれてしまったのだろうか。もしそうだとすると、疑問がわいてくる。
・「(不登校とは)日本人だとか男だとかというのと同じくらい常に離れられないもの」
・「(不登校とは)非常に根底にあるもの」
・「不登校であっても/あるからこそ、学歴のある人には負けない」→「それって結局学校の呪縛っていうか、しがらみから最終的に解き放たれてない証拠であると思う」
このように彼らにとって不登校や登校拒否は就学期間が終われば終わりではないのだ。
むしろ、社会にでてからの方が、学生時代に不登校や登校拒否の経験をしたことについて悩んだり苦しんだりする人もいる。
著書の中で貴戸さんは次のように語っている。
・社会に出て、自分が不登校であったことをカミングアウトするかしないか
当事者にとっては「就学や就職をすれば、不登校が終わる」という単純なものではなく「社会にでた」あとも不登校経験はさまざまなレベルでついて回る。
・不登校経験は当事者に日常的なコミュニケーションにおける自己提示の悩みを強いるが、彼ら・彼女らは情報操作を行うことで相互行為に戦略を交えながら、より有利な日常を生きようとしている
・当事者にとって「社会に出る」ことは不登校の終わりを意味しない。就職や就学は、あくまでも不登校と連続してその先に存在しており、彼ら・彼女らは不登校経験を持つ故の新たな葛藤や緊張に身をさらすことになる。そこでもっともリアルに迫ってくるのは不登校の「克服」などではなく不登校経験の開示・秘匿や価値観のすり合わせといった日常生活上の問題なのである。
ここまででわかるのは、当事者は「今」を大切にしようとしているが、周りの大人は「未来」を考えており、そこで登校拒否に対する考え方の違いが生まれていることが分かる。
当事者は、今がつらいんだ、今、学校に対して違和感を感じて、学校へ行かないという行動に起こす現在志向である。しかし、周りは将来、学歴がなくては職に就けないのではとか、今勉強しなくては将来困るなどという未来志向である。
この両者の考え方の違いが両者の苦しみ(当事者は理解してもらえない苦しみ、周りは当事者を理解できない苦しみ)を生むのだと考えた。
当事者は、学校へ行けないこと自体にも苦しんでいるが、それと同時に自分を理解してくれない周りとも戦っているということが分かる。
この問題を乗り越えるにはまず、自分の気持ちを両親や周りの人に理解してもらわなければならないのだ。
周りの人間はどうしても、それまでの平和な生活を取り戻したくて、必死に学校へ行かせようとする。そして卒業したら問題は解決したのだと捉えがちだ。しかし、当事者にとって学校を卒業したかしてないかは関係ないのだ。当事者の気持ちを周りの人間が理解しようと努力するかしないかで当事者がこの問題を乗り越えられるかが変わってくると考える。
どうしても、周りの人間は「学校へは行くべきだ」という考えが根底にあり、当事者を理解した気でいても「今はだめでもいつかは・・」という考えを持っている。
学校では、「今」ではなく「将来」のためにあるのである。学校の時間は線形的に規則正しく、確実に未来に向けて流れる。そして多くの人間は将来のために学校へは行かなくてはならないと考える。しかし、登校拒否をしている子供たちの時間は直線的ではない。「今」を大切にすることが結果として将来を豊かにするという考えの子が多い。
この考え方の違いによって当事者と周りの大人は対立しこの問題を乗り越えられないのだと考える。
したがって、周りの大人は、当事者の本音に耳を傾け理解しようと努力し、彼らに寄り添おうとする気持ちを持つことがこの問題を解決に導く一歩なのではないかと考えた。
メモ
佐川,佳之 (Sagawa,Yoshiyuki),2009「<投稿論文> 不登校支援における「秘密」の機能 : 不登校児の「居場所」・フリースクールを事例に (The Potential of the Secret in Aiding School Non-Attendees : A Case Study of Free Schools as a Place for Non-Attending Children)」,『年報社会学論集』22: 222-233,. //JPN
2016.5.26 「不登校」and「居場所」
☆山本,雄二 (Yamamoto,Yuji),1999「義務としての登校拒否 : 学校化社会における命の問題 (School Avoidance as a Duty)」,古賀,正義(編)(編) (Koga,Masayoshi (ed))『〈子ども問題〉からみた学校世界 ("School World Focused on ""Child-Problems""")』: 67-88,教育出版 (Kyoiku Shuppan). //JPN
付属図書館あり→貸借
自殺した生徒自身に責任三割の判決(いわきいじめ訴訟)→生きること、自分の生命を守ることは義務?つまり登校拒否という行動は命を守るための義務である?
野田,陽子 (Noda,Yoko),2000『学校化社会における価値意識と逸脱現象 (Values and Deviant Phenomena in Schooled Society)』学文社 (Gakubunsha). //JPN 研究室貸出
山本,雄二 (Yamamoto,Yuji),2002「教育問題と責任の帰属 : 「いじめ」自殺事件をめぐって ("Educational Problems and the Attribution of Responsibility : the case of Suicide from ""Ijime""")」,竹内,洋(編) (Takeuchi,Yo (ed))『学校システム論 : 子ども・学校・社会 (School System : Children, School, Society)』: 127-137,放送大学教育振興会 (Housou Digaku Kyouiku Shinkoukai). //JPN
☆伊藤,茂樹 (Ito,Shigeki),1996「「心の問題」としてのいじめ問題 (<特集> 学校問題) (IJIME (Bullying) Constructed as a Problem of Mind (<Special Issue> School Problems))」,『教育社会学研究(The Journal of Educational Sociology)』59: 21-37,244-244,日本教育社会学会/東洋館出版社 (The Japan Society of Educaitonal Sociology). //JPN 。
難解。道徳的非難?心の不可侵性?
「心」への言及
いじめる側の心の問題
弱い心←過干渉 過保護 放任 しつけなど
病んだ心←いじめの陰湿さ(子供らしさから乖離したところ)
共感すべき心←心の居場所の重要性
付属図書館あり(研究室貸し出し)→予約
2016.5.26 「学校」and「いじめ」
CiNii Articles検索
森 啓之(法政大学大学院 社会学専攻,修士論文要旨(2005年度修了者)
「不登校」をめぐる「アイデンティティ」の相克 : 登校拒否運動にみるスティグマ化される者たちの「アイデンティティ」とスティグマ化への対処
入手済☆ : 福山 逸雄FUKUYAMA Itsuo沖縄国際大学総合文化学部 アイデンティティの視点からThe understanding and its treatment of school refusal : from the view point of developmental task identity
『沖縄国際大学人間福祉研究』 1(1), 49-60, 2003-03-31 CiNiiオープンアクセス
→事例二つについて原因と対策が書かれていた
もう少し、対策が具体的に描かれていてほしいと思った。
2016.6.02 「登校拒否」and「アイデンティティ」
木戸理恵:不登校は終わらない「選択」の物語から<当事者>の語りへ
→伊藤先生研究室貸借
登校拒否の理由はなんとなく行きたくないという人が多い
登校拒否によって将来を変えてしまったと感じる人もいれば、学校なんていかなくても未来は大丈夫だとかんがえる人もいる。
不登校を乗り越えた後でも苦しむ人がいる。不登校を乗り越えればおしまいであるという問題ではない。
東京シューレでは、不登校の方が立派だというような考えがあり、それがそこに通う子供達にいい影響を与えるのかわるい影響を与えるのかわからない。
様々な事例があり、様々な見方があり、結局不登校問題はどうすればいいのか、分からなかった。
不登校の事例では小学生が主になっており、なにかきっかけがあって、不登校になるというよりはなんとなくで不登校になる例が多かった。
不登校の問題は小学生と中高生とで、見方が変わってくるのかもしれないと思った。
Amazon検索
谷冬彦、宮下一博 さまよえる青少年の心―アイデンティティの病理 発達臨床心理学的考察 (シリーズ 荒れる青少年の心)
[登校拒否 アイデンティティ 本] 検索
朝倉景樹『登校拒否のエスノグラフィー』