鯖江:福井豪雨被災から復興に歩む河和田うるしの里
伊達美徳
(メールマガジン「週刊まちづくり」に連載した)
●福井水害被災地は今、これから、、(まちもりコラム2004年8月号)
福井県北をおそった豪雨で大きな災害が起こりました。そのひとつ、鯖江市の河和田地区に行ってきました。ここは越前漆器の産地で、わたしはもう10数年前から、まちづくりでなにかと訪れていて、今は、漆器産業振興のセンター建設プロジェクトに関っています。
被災から5日目の7月22日、肉体労働が求められている今、わたしでは役立たないのですが、とにかく行くだけ見るだけでもと思い、野次馬にならないよう、邪魔にならないよう、それでも5時間あまり、谷間の集落から街の中までくまなく歩いてきました。
7月18日の3時間ほどの集中豪雨は、盆地の街をとりまくたくさんの谷から鉄砲水を噴出して、谷間の集落をおそい、盆地中央に集まった水は2本ある川は呑みこめずあふれだしました。
街のメインストリートは濁流の大河になり、一時は大人の背丈ほどの深さになり、自動車が流れて、ぶつかるものを壊していきました。
上流の谷間の集落で老女が一人、行方不明だそうです。
水はもってきた泥をおきざりにして引きました。道も庭も家の中も、びっしりと分厚い泥じゅうたん敷きです。その水と泥の襲撃は、家財、畳、商品、製作途中の漆器類などを、ごっそりとゴミと化してしまいました。
今、その泥とゴミの除去で疲れきった住民たちを、高校生や大学生のボランティアたちが手伝っていて、あのいつも静かな街に若者たちの声が聞こえるのが救いです。
雨が上がり日の照るなかで、泥はほこりとなって舞い上がり、水ぶくれのゴミは腐敗が起ころうとしています。
水道、電力、主要道路などのライフラインが大丈夫なのが不幸中の幸いです。
地域の人に聞けば、こんなことは今まで聞いたこともない大事件だそうです。河和田杉というブランド材が産するほどに、盆地周囲の山は緑豊かですから、原因はなにでしょうか。
歩き見ただけでなにも手伝わなかったのですが、まちづくりに関るものとして、これから街の復興のために何ができるか、足で見た事実から思案しています。まだ考えが浮かびません。
このようなことに関するまちづくりは、これまで考えなかったというのが正直な白状です。
ダムとか河川改修とかいろいろなことがあるでしょうが、まちづくりとしてどう考えるべきなのでしょうか。課題を突きつけられています。
全国の8割を占める業務用漆器産地としての経済力と、1500年の歴史を持つ伝統漆器産地としての底力が、このようなときにこそまちづくりに発揮されるに違いないと期待しています。
そしてこれを読んでいただいた貴方にお願いです、越前漆器を買ってください。お椀でご飯を食べるのはうまいものですよ、漆器のスプーンは口当たりがよろしいですよ。(040725)
●災害とはなんだろうか(まちもりコラム2004年8月号その2)
猛暑を、いかがしのいでいらっしゃいますか。
福井水害の上流部の被災地、鯖江市河和田を再びたずねて(この前は7月22日)、盆地の最下流部から最上流部まで歩き、被災2週間後の復興への動きを見聞きしてきました。
住民も漆器業界も再び鼓動を取り戻しつつあり、ものづくりの音と災害復旧(まだ復興にいっていない)の動きが見えて、「うるしの里」の底力を感じています。
街なかはボランティアの協力(この2週間で延べ1万人)でしだいに片付きつつありますが、上流部では、根こそぎ倒れ流れる大木、流れ散らばる巨石、変わる流路に崩れた護岸、杉林の林道からの山崩れなど、自然の猛威と人間の営為について、考えさせられました。
盆地最上流の谷の始まるところに、鉱泉の宿があります。宿の建物は安泰のようでしたが、水は入ったでしょう。
宿から下流の道は瓦礫敷き、谷はそこらじゅうで破れていますが、宿から上の森や、その下流の谷沿いの斜面の緑の森林はなんともありません。
要するに人間が手を入れて自然を排除したところが、自然に戻ろうとして起きたのが災害というものなのだと感じました。
たしかにどんなに大地震や洪水がおきても、そこに人間や人工物がまったくなければ災害とは言いません。人間から見れば大災害ですが、自然から見れば人間から受けた傷の治癒行為なのでしょう。
そこのところの自然と人間のうまい貸し借りの折り合いどころを忘れて、ちょっとあちら様に借りができたところに、その貸しをかえしてくれと自然は清算にやってくるのかもしれません。
寺田虎彦がいった言葉「災害は忘れて頃にやってくる」は、そういうことなのでしょう。しかし、河和田の街では、これまでこんなこと起きたと聞いたことがないというのですから、どうもツケ払いとはちがうのでしょうか。
これはもしかしたら、地球規模での人間と自然との折り合いの不具合から来る異常気象のせいかもしれません。地球規模のツケまわしには、いったいどうすればよいのでしょうか。これはもう忘れた頃ではなくて、忘れないうちにまたやってくるかもしれません。
もしも河和田の街に自然から借りがあるとすれば、河和田杉というブランド材になるほどに、山に杉ばかりを植えすぎたことでしょうか。
自然は多様なものですから、特定の樹木ばかり人工林の山は、文字通りに不自然でしょう。杉林内の林道から谷筋へ山崩れが起きているところが、緑のなかに黄色の長い掻き傷となっていて、街から遠望できます。
新潟県でも福井県でもそうですが、街の上流の過疎地の集落を襲った災害は、そこに住む老人たちを直撃しました。そこはまさに超高齢社会そのものなのです。
過疎地の谷や川の改修工事をすることで、地方建設業界は少し息がつけるでしょう。でも思うのですが、もっと根本的なことが今後は必要でしょう。
それは、これまで暮してきた過疎集落そのものを捨て去って、近隣の街のなかに住み替えることです。
まちづくりでこんなこというのは、地域文化をないがしろする論(確かに谷間の集落には実に美しい造詣の民家がある)として、これまでタブーのようになっているのですが、あえて言いましょう。
災害に限らず、人口減少、超高齢時代のこれからの日本では、そのような福祉・住宅・都市複合政策が必要でしょう。そうでないと、今や地域での暮らしそのものが成り立たないのです。水害がそれをあぶりだしました。
誤解のないように付け加えますが、過疎を否定しているのでも、強制移住するべきといっているのではありません。暮らしを維持するために移住したくてもできない人たちに、移ることができる支援の施策を用意するべき時代になっているといいたいのです。参照:わたしの帰る街を災害を忘れないため、なにか目に見える形でメモリーとなるものを残したいのですが、今、それを被災した方々にはとても言いだせません。
これからの安心まちづくりのために、何か計画に踏み出す必要があるのですが、それもまだ言いだせません。
わたしは今、プランナーとしてはどうすればよいか分からないのが、なさけなくも正直なところです。(20040805)
●立ち直る水害被災地(まちもりコラム2005年10月号)
2005年9月24日、久しぶりに河和田を訪問した。この4月に「うるしの里会館」落成式に来たのが、この12年にわたる鯖江でのわたしの仕事としての最後だった。
今度はまったくの遊びである。昨年の水害被災から1年余、復旧が進み、次の復興に向けての住民たちの動きが活発になってきていて、この日に復興イベントのひとつを行うとて、飛び入り参加させてもらったのだった。
地元住民や企業人たちの作るNPO法人「かわだ夢グリーン」が主体となって、京都や福井の大学生たちと協力して、アートイベントをやるというのだ。こんな田舎の集落でやるのがすごい。
4つの大学からの大勢の学生たちを統率するのが、京大で環境学研究の科学者の女性、NPO事務局長に聞けば、まったくの偶然に出合ってこの縁ができたとか。
学生たちは大きな古民家を借りて拠点として、集落の中でアート活動しており、多くの住民たちがその活動を日常的に支えている。
この日は、京都からツアーを企画して30人ほどのお客がイベントに来ており、わたしもこのツアーに便乗させてもらった。参加者は、まずは4月開館の「うるしの里会館」で地元の食材による手づくり昼飯、夜のイベントに使うテルテル坊主を今立の越前和紙でつくり。
次にバスに乗って山奥に入り、ここで地域住民のグループも一緒になって、昨年の水害で崩壊した斜面にケヤキ、ホウノキ、エノキなどの苗木を植えた。久しぶりの土方仕事は張り切り過ぎないようにしたので、心地よかった。
また集落に戻り、神社での地元の踊りと学生のアートパフォーマンス。100人ほどの見物人が境内の一隅を取り巻く中、なにやら新興宗教的な奇妙な3人男のパフォーマンスにあっけにとられながら見つめる。
次は集落の中のそこここに仕掛けたアートをめぐる。伝統的な街並みの中、山道に、あるいは川の中に、なにやら異様なような、そうでもない様な造形が登場する。
知り合いの漆器職人に聞けば、材料調達には漆器の材料が役立ったし、学生たちだけでは制作は無理で漆器職人たちの腕も入っているとか。なるほど、漆器もアートだから、ここでやる意味がおおいにあったわけだ。
さて、夕食は神社の拝殿で、地元で獲れたイノシシ鍋に舌鼓。陽が落ちると、神社の参道の両側には、昼間作ったたくさんのテルテル坊主が中にライトを入れてぶら下がれば、幻想的な夜景となる。そばの大きな古民家では、音楽会が絵画制作イベントと合わせて行われている。いつもとちょっと違う秋祭りの夜が更けていった。
集落は水害の跡はほとんど見せないほどに復旧はしたが、実際にはかなりの空き地が出現した。浸水家屋はヘドロで埋まり、ボランティアの努力で除去したのだが、実は簡単には元に戻らない。見えないところから腐ってゆき、とり壊すほかないことがおきるそうだ。
復旧から復興への道は、外のものが簡単に見ることができないことがあるだろうが、少なくとも復興への動きが、このような新たな仕掛けで見えることは嬉しく、復興への期待がふくらんだことだった。(20051002)
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