コピー再現する三菱一号館をどう評価するか(2007,2009)

再現・三菱1号館をどう評価するか

伊達 美徳

東京丸ノ内にできた丸の内パークビルディングに、美術館がプレ開館した。その建物は超 高層ビルの足元に建つ3階建ての赤煉瓦造であるところが珍しい。

だが実は、1894年から1968年まで建っていたものをコピーして再現した、2代目三菱一号館なのである。明治の建設のままに建っていれば、今は重要文化財の ピカ一のものだが、1968年に重要文化財として指定しようと学会も国も保存の手続きのを進めつつある中で、持ち主の三菱地所はあっという間に壊してしまった。

その 跡には高層ビルが40年ほど建っていたが、またもやそれを壊し、ついでに隣の「丸ノ内八重洲ビル」(重要文化財級だった)も壊して、それらの跡とに超高層ビルと抱き合わせでこの三菱一号館を再現したというわけである。

このことについて以前に書いたことがあるので、そのままここに引用再掲する。

ーーーーーここから、2009年3月のコラム再掲ーーーーー

●三菱1号館コピー出現(090304)

東京・丸の内の場と先通りと大名小路の角に、レンガ造り3階建てのえらくクラシックな建物が建った。

実はこれは、ここにあった三菱1号館の原寸大模型というかコピー建築なのである。それは19世紀末の昔昔に建った、日本で初めての洋風貸事務所であった。

丸の内は19世紀末以来営々とオフィス街の経営として、何度も建てては建て直してきた。

20世紀半ば、丸の内の高層建て替えがすすみだして、三菱1号館も1968年に壊された。もちろん当時すでに重要文化財級の建物として、文化財保護委員会(後に文化庁)も学会も、その指定をして保存をするべきと考えていた。

所有する三菱地所に要望して保存策を検討していたが、まとまらないままに、1968年3月23日(土曜日)、三菱地所は取り壊し工事を強行してしまった。理由は耐震的に危ないからということだった。

三菱地所社史によると、どこかに移築するかもしれないとの考えもあったので、解体部材を三菱開東閣(これは重要文化財となっている)に保存したが、移築先がなくてほとんど廃棄されてしまい、ほんの一部が残っていたそうだ。

跡には15階建ての普通のオフィスビル・三菱商事ビルが建った。

そして21世紀はじめ、この15階建て三菱商事ビルのほかに、9階建ての古河ビル、8階建ての丸の内八重洲ビルをまとめて壊して、丸の内パークビルという超高層ビルが建った。

なんとその足元には、三菱1号館の原寸大模型が、もとあった位置に建っているのである。

残していた一部の部材も使って、内外のデザインも工法も昔の図面通りに(基礎はそうはいかないが)再現したそうである。

これはどう考えるのか?

第一の問題は、これにともなって壊した丸の内八重洲ビルは、1928年建設でそれなりに重要文化財級であったということだ。かつて文化財級と分かっていながら1号館を壊したことを、再度行ったように思うのである。

第二の問題は、このコピー再現建築(レプリカ)は、果たして文化財なのかということである。京都三条通りにあるみずほ銀行の建物が外観を再現して建て直したが、どうもこれは文化財とは認めない風潮のようだ。今後文化庁は新1号館をどう判断するのか見物である。

第三は、景観としては新旧のギャップをどう見るのかということである。

丸の内で歴史的な建物としてなんらかの保全的再開発をしたものは、第1生命、明治生命、銀行協会、工業倶楽部、東京駅であり、現在時点で取り掛かろうとしているのは中央郵便局である。丸の内は歴史的建築ばかりの街だったから、このほかは全部なくなったといえる。

ところがここに来て、一度なくなった景観が一部に復活してきたのである。

だが、それが消えていた40年の間に、あたりの景観は激変している。

ひとつだけぽつんといまさらの出戻り浦島1号館は、頭の上にかぶさる超高層を見上げつつ、かつての壮麗な赤レンガ1丁ロンドンを思い出してため息をついているのだろう。

わたしも、その40年の長き不在に、その景観を忘れてしまっていて、あれッ、ディズニーランドの出先がここにできたのかい?、なんて思うのである。

さて、これは東京中央郵便局の現下の問題に、何か教訓になるでしょうか。

そういえば、東京駅赤レンガ駅舎保存問題が起きたときも、国鉄民営化と大いに関係していたなあ。

ーーーー引用再掲ここまでーーーーーー

さて、朝日新聞11月23日朝刊(東京版)の文化欄に、大西若人の署名で「丸ノ内に浦島ビル 三菱1号館 明治の名建築再現」と題した記事がある。

「タイムスリップ建築というか、浦島建築ビルとよぶべきか、、、」

まずはこんな書き出しで、ジャーナリスティックな名づけ方をする。続いてこの建物のいわれを紹介した後に、こう書いている。

「40年間そこに存在しなかったものを建設当初の形に再現して、歴史をつないだことになるのだろうか。いったん風景は途切れているわけだから、懐かしい、と思える人は少なく、博物館の展示やテーマパークを楽しむ視線になるのではないか。容積率のボーナスを受けた背後の超高層ビルが『21世紀』を強調するだけに、その感が強い」

この大西さんも、この建物のもつ都市再開発の矛盾というかアンバランスというか、その感覚をテーマパークという言葉で表現している。

実はわたしも数年前に「街はお遊びのテーマパークか」と題して、この建築計画が発表された2004年に、その奇妙さを指摘しているので、これもここに引用しておくのだが、できてみると益々その感を強くするのは、わたしだけではないようだ。

ーーーー以下2004年7月コラムの引用再掲ーーーーーー

●まちもりコラム2004年7月号●街はお遊びテーマパークか

東京丸の内の大地主・大家主の三菱地所は、丸の内にある三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八

重洲ビル建替計画を発表しました。

そしてなんと、昔そこにあった「三菱一号館」を復元するのだそうです。

三菱一号館は、1894年に赤レンガで建てられた3階建ての事務所ビルでしたが、1968年に壊されて、今は15階建てのビルになっています。

今度は15階建を壊して3階建てにするのか、それはすごい、と思った。

でもそんなことはないのが当たり前で、15階建て、9階建て、8階建ての3ビルを壊して、床面積20万平方メートルのビルを建てるそうですから、当然超高層大規模ビルになるのでしょう。

では、3階建て赤れんがの復元ビルは、どんな形になるのでしょうか。

それはそれで昔のままの形で3階建てで独立して建ち、残りの場所に超高層ビルが建つのでしょうか。

あるいは、超高層ビルの腰巻かスリッパみたいに、赤レンガビルの形をしたかさぶた一枚がくっつくのでしょうか。

ところで、三菱一号館が取り壊されたときのことを思い出します。

当時、それを重要文化財に指定しようとする動きがあったのですが、三菱地所は指定されては建て替えることができない、不動産事業としてはそれは困るとて、ある日突然足場を組んでたちまち取り壊したのでした。

それが今になって復元とは、どういう風の吹き回しでしょうか。

あのとき文化財への配慮がなかった、すまなかった、という反省の気持ちが出たのでしょうか。

それとも、一部でも復元すれば、歴史的ナントカカントカという制度で容積率緩和され、巨大建築の建設が可能となって経済的に儲かるからでしょうか。わたくしはそれが動機として悪いと言うつもりはありません。

でも、40年前にあたふた取り壊した重要文化財級の建築を、取り壊したご当人が今になってコピー復元するのは、どういう論理なのでしょうか。

東京駅も、60年前に戦火で壊された丸ドーム・3階建てを復原するのだそうです。東京駅のことは、東京駅復原反対で論じていますから、そちらを見てください。

ちなみに、わたくしは1961,2年ごろ、まだ建っていた赤レンガ建築(三菱仲四号館といった)のなかで仕事したことがあります。木造床がギシギシときしんだ。

気になるのは、今のビルがどうしていけないのでしょうか。それもよりによってコピー赤レンガ建築になさるとは、、。

もしかして三菱地所は、丸の内全部を赤レンガ時代の街並みになさるおつもりでしょうか、それはすごいけど、、、。

ここで建て替える3棟のビルのうち「丸の内八重洲ビル」は1928年建設ですから、いまや文化財級でしょう。

あの3層にデザインされた外観、角にある三角帽子の階段塔は、いまやなんの変哲もないビル群となった丸の内大名小路では、ちょっと味のある風景です。これをどうなさるのでしょうか。

他の2つのビルは1965年、1971年の建設です。それをもう壊すのですから、建築の寿命は短くなったものです。それだけ又ごみが出るということでしょう。リニューアルして使えないものでしょうか。

東京のこのあたりは今、バブル景気みたいな状況です。

あのバブル期には、なにやら奇妙な建築があちこちに生れましたが、こんどは明治大正の擬似模倣洋風建築コピーで、街はテーマパークになっていくのでしょうか。(040701)

ーーーー再掲引用ここまでーーーーー

さらに朝日新聞の大西氏の記事にはこうあるのだ。

「名建築を大切にし、美術館として活用すること自体は、街のあり方として歓迎すべきことだろう。しかし復元1号館を見るにつけ、都市や建築の歴史に関し、私たちは何を学び、何を学んでいないのか、と少しほろ苦い気分になる。これも授業料なのだろうか」

この戸惑いが興味深い。捲き戻せない時間を、コピー再現の擬似空間で捲き戻して見せようとする不自然さに、だれもが戸惑うであろう。

実はこの次に同じようなことが2,3年後に起きるのである。東京駅に3階部分の復原である。これも60年以上の不在の期間を経て、再現コピーの3階部分が乗るのである。

これは三菱1号館と全く同じ論理で全く同じ開発手法なのだが、見かけが三菱1号館よりも巧みであるだけに、本質は同じでも評価が違うことになりそうだと、今から興味を持っている。

だが、実は三菱1号館と大きく違う本質的なことを忘れてはならない。それは、三菱1号館は開発の論理で積極的に壊したものであるが、東京駅は戦争によって壊されたもの (の修復)であることだ。そして東京にはあの戦争の悲劇とそこからの復興を、如実に形として見せるものはこれが最後と言ってよい建物であったのに、そのことを事業者も識者も、そしてなによりも保存運動の市民たちも一顧だにしないで復原 (部分的コピー再現)へと進んだことである。

東京駅は、JR東日本という一不動産事業者の儲け仕事としてテーマパークもありうるだろうが、元はといえば(税金で作った)公共施設である。

2階建てのままでも事業手法上は容積移転により(採算的に)問題はなかったはずだ。

東京駅舎が戦争記念碑の位置づけとして重要であることを知りながら、戦前の姿に復原されつつあることを悲しむ。(2009/09/23)