鯖江ファッションタウンへの提言(2002)

鯖江ファッションタウンヘの提言

伊達 美徳

(都市計画家 鯖江ファッションタウン推進協議会アドバイザー)

●ファッションタウンの旅2001報告(鯖江FT市民報告会2002に寄せて)

今年も春分の日恒例の「鯖江ファッションタウン市民報告会」がやってきました。この1年間どんな活動をしたか、一般市民と企業市民が一緒に集まって成果をもちよって、次の年の活動へとつなげる楽しいイベントです。全国でファッションタウン運動が展開されていますが、他に恒例行事としている都市は、先輩の桐生ファッションウイークくらいなものでしょうか。

まちづくり部門で今年は、美しい風景の鯖江をつくる「景観条例」ができたり、河和田では暮らしと仕事が一体となった環境づくりを進める「特別用途地区」が定められたりして、ファッションタウンの制度的な支援体制も整ってきたようです。もちろん市民活動も盛んで、花につつまれた街づくり、景観ウォッチング、道路愛称命名、ビオトープづくりなど、興味深い動きがあります。

わたしは昨年から今年にかけて、各地のファッションタウンを訪ねましたので、印象深かったその一部をわたしの市民報告としましょう。

1.桐生ファッションタウンでは「わがまち風景賞」

ファッションタウン桐生推進協議会の活動は多彩ですが、2001年から「わがまち風景賞」の募集、表彰の新事業が始まりました。この桐生の特色ある風景を、街のファッション=生活文化としてとらえ直そうという市民からの風景発見運動です。

群馬県の桐生市は、西の京都西陣、東の上州桐生といわれた絹織物の町です。江戸時代はもとより日本の近代化の先端を進んだ産業である織物の街は、豊かだった財力を背景に、市街地の構造も建物もなかなかにしっかりしたものです。

市民の推薦する「わがまち風景」を募集したところ、80件もの応募がありました。市民審査員とともにわたしも選考のお手伝いをしましたが、審査会は楽しい知的なワークショップイベントでした。

賞に入った風景には、最近になってつくられたものはありませんでした。意識的にはずしたのではなく、結果としてそうなったのですが、そこにこの賞の持つ意味もありそうです。

群としての風景の入賞は、「山手通り」「宮本町の和洋折衷住宅群」「本町1、2丁目周辺まちなみ」です。どれも新旧入り混じった広いエリアの風景ですが、総体的には伝統の風景でしょう。これらは賞を授与すべき特定の人がいませんが、いるとすればその街並みをつくり支えてきた人たち全部となります。

そして個別風景の入賞は、「ash」「泉新」「有隣館」ですが、いずれも新建築ではありませんが、使い方は新しいものです。新しい風景については、かなりの時間をかけて議論しましたが、そこでわかったことは、それらが市民の多くがわがまち風景として認めるには、まだ時間がかかるだろうと言うことでした。今後、新しくても市民の支持を得る風景を期待しています。

「わがまち風景賞」は、多くの市民が好意ある心情をその空間に込めている風景をとりあげようとするものです。新建築が入賞しなかったのは、まだ多くの市民にとって風景という文化に育っていないからであり、これから使い込まれてきたら、いずれいつの日か賞となるでしょう。

のこぎり尾根の工場建築を再利用した美容室「a s h」が入賞したのは、のこぎり屋根という、桐生だからこそ市民に親しまれた近代産業遺産の街並み風景を、新たな使い方で活力をよみがえらせたことに、桐生市民が快い心情を抱いたことと言えます。

風景は、建物、橋、河、道、山などの、単独の事物だけでは成立しません。複数のそれらの間の相互にの干渉する関係があり、それに接する人間の心情があり、複数の人間が同じような心情で高い評価に値すると認識する風景を、ここでは賞にしようとしているのです。

単独の建物もたくさんの推薦応募がありましが、それが単独的には美しくとも、風景として周辺環境における関係性がなかったものは選に人りませんでした。関係性とは、必ずしも一致とか調和を言うのではなく、時にはランドマークのような状態で周囲との関係を新たに創出する場合もあります。

この風景賞は、「ファッションタウン」のコンセプトのもとに、「桐生」という地域性を持ち、しかも「わがまち」という個性を持ち、「風景」という心情が支える状況を対象とすることになります。だからこそ、桐生を支えてきた産業と豊かな生活圏とが出会う風景が、優先的に選考されたのでしょう。

風景は公のものですが、その空間に市民の心情が積み重ねられて、地域の生活文化に高揚するものです。応募してくださった市民の、風景に対する気高い心情を互いに喜び合い、これを機会に次回にはまた新たな風景の発見と創造ができ、桐生のファッションタウン運動の展開を期待しています。

2.児島ファッションタウンでは「トライアスロン」

倉敷市の児島地区は、瀬戸大橋の岡山県側の街です。児島は昔から繊維産業の街として栄え、学生服、制服、ジーンズウェア、畳の縁などが有名です。

子供のころ、明治の軍人の代表格である乃木大将や東郷元帥の大礼服姿をそのまま商標にした学生服があったことが記憶にあります。

いまその児島でファッションタウンが市民運動として、熱く動いています。8月の熱暑の日、「第3回ファッションタウン児島国際トライアスロン大会2001」が、児島の街で行われました。トライアスロンは、瀬戸内海を競泳、街なか商店街をマラソン、絶景の驚羽山を自転車でという、実に過酷な3種競技です。

このイベントに合わせて、国土交通省の「MONOまちづくり全国交流大会」がこの街で開催されました。この会にやってきた鯖汀市の辻市長は、地元産ジーンズを身につけてシンポジウムに登場したいと買いにでかけたのですが、危うくに遅刻しそうになるほどに手間取ったようです。ジーンズの街というが、この街でこの街産のジーンズウェアを買うのは、じつはななか難しいのです。この鯖江市は眼鏡の産地ですが、鯖江でそれを買うのもけっこう難しいのです。

さて、「ファッションタウン」と「トライアスロン」とに、どのような関係があるのでしょうか。次第に低下する地域産業、空洞化が進む中心街を、もとの活気ある児島を立て直すことを模索していた児島の若手産業人たちが、ファッションタウンに取り組んだのは1985年ころからで,本格的には1998年からでした。

繊維産業に限った産業振興活動ではありません。建設業も鉄鋼業も繊維業もある各種の産業人、商店街のおかみさんや町内会のボス、市や県の行政マンもどんどん巻き込んで、誰もが参加するファッションタウン計画をつくりあげました。とうとう倉敷市の総合計画にもうたわれて、ファッションタウンが正統的な政策となりました。

ファッションタウンは地域づく り運動です。中心メンバーには50歳台の児島商工会議所会頭と副会頭が、腰弁当を下げて陣頭に立っています。

ふたりがファッションタウンを唱え始めたころは、それはなんだという声ばかり、でも、とにかく参加してみんなで産業と街とを考えれば分かるんだと、手づくりの計画をつくりあげたのです。その内容もさることながら、計画づくりに産業人も市民も行政もみんな手弁当で参加したことが、計画の意味を大きく育てたのです。

彼らはその一方で、計画を考えるのもよいけど、なにかを地域で起こしたいと話しあっているうちに、トライアスロンはどうだろう、何も知らないけど面白そうだし、海のある児島ならできるだろうと、無鉄砲にも取り組んだのです。取り組めば何かが開けるというチャレンジ魂だけであったらしい。

しかも、なんとかなるさとエージェントに頼まないで、自分たちで企画し実行して、国際大会にまでしてしまったのがすごい。

トライアスロンにかかわるウェア類は、繊維産地のお得意で「ものづくり」につながります。街中をアスリートたちが走りぬけるならば、わが街を安全に使ってもらうように点検して直す必要があります。自らのまちを見直す「まちづくり」です。

世界から500余人もの鉄人たちに加えて応戦する人たちも大勢を迎えました。受け入れるファッションタウン児島は、高校生も含む少年から大人まで、3500人もの市民ボランティアが参加して、一切自分たちで大会を運営しました。

長い長いコースにそって並び、水や飲み物を配り、安全を図るのです。大勢の来客へのホスピタリティも、市民みずから備えなければなりません。それ自体が「ひとづくり」になっています。

そうやってトライアスロンという競技を通じて、緊密なコミュニティづくりが行われて「くらしづくり」へと展開します。図らずして「ものづくり+まちづくり+ひとづくり+くらしづくり=ファッションタウン」という図式を、一時にやってしまうことになっているのが、実に素晴らしいことです。

さて、その秋になると、「ファッションタウン児島・しほ風ウォークラリー」と銘打ったイベントを行いました。こんどの参加者は児島内外からなんと850人余で、わたしも17キロメートルの瀬戸内海の眺めを6時間かけて楽しみ、名物蛸飯と海鮮なべに舌鼓を打ってきました。

トライアスロンに引き続いて、またもやバックアップしてくださった大勢の市民ボランティアに頭が下がります。わたしの体力を気遣って、一緒に歩いてくださった方たちの親切に感謝し、ファッションタウンとはまちづくり運動なのだと、また実感しています。ついでに、わが足もまだまだ大丈夫と自信をもったのでした。

何度も言いますが、ファッションタウンは運動です。児島は、市民のボランティア運動としてファッションタウンの新展開をしてみせている産地です。

3.連携するファッションタウン 伝統産業都市サミット

地域に育ってきた伝統的な産業を生かすまちづくりの模索は、各地で模索され続けています。越前漆器もそうですが、繊維も眼鏡さえも鯖江の伝統産業と.言ってよいでしょう。

飛騨の高山市には、飛騨木工という伝統産業があります。そして有名な三町重要伝統的建造物群保存地区の街並みがありますが、それらの間には関係があるでしょうか。

その街並み観光に訪れる人々は、年間200万人を超えますが、その街であの優美なる飛騨家具にお目にかかれて、手に入れるのはちょっと難しいのです。

高山と同じ岐阜県にある美濃の多治鬼市は、陶磁器の美濃焼の産地です。陶磁器は苦から消費者が産地で買うことができるし、まちづくりと連携しているところも多くあります。最も有名な例は佐賀県の有田です。多治見では、オリベストリートという、陶磁器産業を生かした街並み作りを進めています。オリベとは、桃山江戸初期の茶人古田織部のデザイン思想を今日に生かそうという岐阜県のデザイン政策のひとつです。

美濃には伝統産業として、関市の刃物、美濃市の和紙もあります。これらの家具、陶磁器、刃物、和紙など出、ひとつの風景画を思い浮かべることができます。それぞれ別々のものではなく、例えば飛騨家具のダイニングテーブルの上に、美濃和紙のテーブルクロスやナプキン、美濃焼の食器、関刃物のナイフフォークがならび、上から和紙の照明器具が柔らかな明かり、このような組み合わせると美しいインテリアとなります。

2002年の2月、岐阜県多治見市で「伝統産業都市サミットTIC‘02in多治見~産業が地域の文化を創る~」と称したイベントが行われました。高山・関・美濃・瑞浪・多治見の市長たちが集まり、都市として総合的な連携し、産業異業種交流を超えて何ができるか、伝統産業都市の連携の方法を探ったのです。ここではファッションタウンとはいっていませんが同様なコンセプトであり、それらの産業と都市の相互連携へとステップ生み出そうとする動きです。

ところで、高山で有名な街並みと飛騨木工とが結びついていないと言いましたが、木造建築の技法には飛騨の匠はいかされているでしょう。ただし、消費者から見れば、せっかくの飛騨家具を飛騨で手に入れるには、かなりの努力をしなければならないのです。これは、上に述べた児島のジーンズや鯖江の眼鏡と同様です。

では和紙はどうか。越前今立と美濃とは和紙の双璧です。どちらも美しい街並みや集落風景をもっていますが、和紙産業との結びつきは必ずしも親密と言えません。

2月にわたしは美濃市を始めて訪れました。中心部に高山の三町と同じ制度による国指定の「美濃町重要伝統的建造物群保存地区」があます。江戸時代からの和紙問屋が、うだつの上がる瓦屋根が美しい商家のまちなみを形成しています。この重伝建指定は比較的近年の1999年ですから、高山と比べるとまだ整備途上といえます。

整備途上であるだけに、まちづくりの持っている諸課題が透けて見えてきます。和紙問屋はいまは数少なくなっているので、有田の伝建地区の陶磁器商店街のように表で売り、裏で作るような地場産業風景が見えてこないのです。お土産的な和紙製品の販売店があるくらいでしょうか。

地場産業が活気を持ってその街で生きており、暮らしはたらく人の動きが見えるような街は、もう望むべくも無いのでしょうか。順次整備されて、電柱はなくなり、カラー舗装され、伝統形式に建築は復元されてくると、しだいに美しくなるその一方で、映画のセットのような生活感の失われた風景になるおそれもあります。街は生き物ですから、時代とともに風貌を変えているのは、それなりの必然性があるからです。

どうやったら活気のある産業風景が生きる美しい街並みになるのでしょうか。多治見のオリベストリートについても同じように思います。伝統産業都市サミットを契機に、それらの都市の伝統産業を互いに取り入れること出、何か新たな展開はできないものでしょうか。ついでに、今回の3都市訪問で考えさせられたことがあります。

美濃市の和紙産業振興のための「美濃和紙の里会館」は美濃町重伝建地区から10キロも離れているし、高山市の飛騨・世界生活文化センターも同様に郊外の山の中だし、多治見市にもうすぐできる「セラミックパークMINO」も街はずれにあるのです。車の時代だからといい、街中には土地がないといって、空洞化している市街地の外でないと、本当につくれないものなのでしょうか。

4.鯖江ファッションタウンは地方分権時代の先端に

都市計画を専門としているわたしにとっては、とくに河和田地区で都市計画法による特別用途地区を指定されたことに、おおいに興味をそそられます。

近年の地方分権の進む中で、都市計画はかなりその方向に変わってきました。市町村がその地域の特性に応じたまちづくりの方法を、住民参加で決めるように制度が作られてきています。

河和田の特別用途地区は、その動きを的確にとらえて、ものづくりとまちづくりを一体に進めようとするファッションタウン鯖江の河和田にふさわしい、「うるしの里づくり」にまさに適切なまちづくり制度であるといえます。

特別用途地区とは、県知事が決める都市計画の「用途地域」(仔居、商業、工業)がありますが、それだけでは地域の実情に合わないことが起きる場合は、市長が「特別用途地区」を重ねてきめることができます。

「用途地域」の規制内容だけでは、地域の実情から見て厳しすぎる、あるいは緩るすぎる場合は、緩めたり強めたりしても良いのが、「特別用途地区」です。

河和田のような住居と産業とが一体になったようなところでは、用途地域で住居地域としたままでは規制が強すぎて、時にはものづくりを阻害するようになるおそれもあります。

そこで、一定の範囲までは工業を住居地域の中でもできるように緩和するのがこの制度です。河和田の特別用地区指定制度は、漆器や眼鏡などの地場産業を、生活の場で調和させていこうとするものです。

もちろん、野放図に住工混在を容認するものではなく、どちらの環境も良くなるようにしていくための制度です。制度をつくっても、うまく生かすかどうかは市民にかかっているのですから、この都市計画制度が地域産業の現場に生きて使われることをおおいに期待しています。

これが全国のファッションタウン制度の見本となればよいと思います。いや、河和田のうるしの里づくりと合わせて、もう既にお手本になっています。

昔からの地域や町内では、清掃など申し合わせや建物の建て方などについて不文律がありました。それがその地域らしい風景をつくりあげてきて、地域のアイデンティティでもありました。

それが高度成長期の社会変動の中で次第に忘れられていって、都会でも田舎でも同じような風景になり、その一方ではマンション紛争騒ぎの高層ビルや商業第一主義の派手な建物看板で、風景破壊が出てきました。

日本も成熱した時代となり、いまやっと身のまわりの生活の場の風景をもっと良くしようという運動が各地で起きています。不文律だけでは風景を守ることもつくることもできないと、協定や条例などをきめる動きになってきています。

鯖江でも「景観条例」が動き出しました。市民がより良い景観づくりの活動をしています。これまでの工場の作り方は生産第1主義で、風景のことまで考えたつくりかたをしてこなかったようです。

特別用途地区で住居と工場との混在を許害するとしても、良い環境をこわしては意味がありません。良い環境の中には美しい風景も重要な要素です。暮らしの風景と働く風景が調和している街、それが鯖江市風景条例の活用の大きな方向であり、ファッションタウンの方向でもあります。

5.総合政策としてのファッションタウンを

戦前から戦後の高度成長期までの日本の都市計画は、人間が生きるための活動の場を、住居、商業、工業に地域を分離して、それぞれ別のところにつくるべきとしてきました。これを用途純化政策といいます。

特に工業と住宅とは、相寄れないものとして住工分離が厳しくとられてきました。それは、産業革命以来の戦前からの日本が、重厚長大な製品を、大量に生産することを理想として突き進んできた富同強兵政策の路線でありますし、戦後の人口増加時代の高度成長の路線でもあったのです。

しかし現実には、日本の都市、福井等の北陸地方は特にそうですが、近代日本をつくることを支えた産業は繊維産業であり、それはほとんどの地域で家と工場は同じところにありました。この地方では、どこの街でも機織の音が生活の中で聞こえていました。繊維ばかりではなく、漆器、眼鏡、食器、陶磁器などの地場産業はいずれもそうでした。

お上の決める都市計画がいくら用途分離と言っても、現実は住工いりみだれた町が広がっていましたが、それはやむをえない現実として、「特別工業地区」という制度で都市計画はしぶしぶ認めていました。

高度成長時代からしだいに、家内工業中心の地場産業が大量生産型の工業団地へと移行していきました。次第に住工分離が進んできて、都市計画は成功かと見えました。しかし今、それがよかったのか反省のときがきています。

工業団地から工場が中国など外国に出て行って、工業団地が当初の意図から変わりつつあります。街の中から工場を追い出したとともに、住民も新開発の郊外住宅団地に移り住むようになり、中心市街地の空洞化が起きてきました。

住工分離によって、家内工業のもっていた多品種生産方式はおとろえ、職人の技能も失われ、後継者がいなくなる問題もでてきました。良い製品よりも安い製品が世の中にはびこり、生活者からは品物はあるけれども本当に欲しいものがないと言われ、使い捨ての風潮は環境問題にはねかえっています。

産業政策と都市政策のどちらも、このままでよいのか、ここに登場したのがファッションタウンです。

もういちど、生産と生活の調和を見出して、産業活力再生と市街地活性化をしようというものです。この話はファッションタウンのおさらいでしたが、都市計画の地方分権策は、ひとつにはそのような地方都市特有の問起を、特有の制度で解決することを期待しているのです。

さて、来年あたりから日本の人口が減少していきます。農村部の人口減少はもう大分前からおきていますが、地方都市でも各地で始まっています。労働人口の減少が問題なってきますが、ヨーロッパのように輸入外国人に頼るのは、簡単にはいかないでしょう。まずは、高齢者と女性がもっと労働力になることが求められるでしょう。

そのときに、能力はあるが体力は減退する高齢者や、乳幼児を育てながらの女性は、今のような暮らしの空間と仕事の空間が離れている都市や地域の構造では、社会参加がしにくいでしょう。

元気高齢者が増えて労働力として社会参加することができるのはよいのですが、その一方では介護の必要な人々も増えてきます。今のような分散した都市や地域の構造では、分散した家々に介護の必要な人がいると、その介護コストは膨大になるでしょう。お互いに近くに暮らすほうが良いでしょう。

地球環境問題として最も身近なことは、エネルギー問題です。拡散した生活圏では、移動のためにエネルギーを多く使いますが、コンパクトな街なら使い方も少ないでしょう。

いずれの問題も、これからの生活圏は、もっとコンパクトなまとまりのある地域や都市にすることを要請しています。問歴が噴出してから地域の構造を変えようとしても、まちづくりはどんなにがんばっても10年はかかります。日本は来年あたりからはじまる人口減少に対応するまちづくりに、今すぐに、緊急に取り組まないと大変なことになります。

ファッションタウンの運動は、20世紀の拡大型都市計画から、21世紀の凝集型都市計画への転換する、地域が生きていくための総合政策として認識されなければなりません。

注:本論文は、「ファッションタウ市民報告会2002」(主催:鯖江ファッションタウン推進協議会 日本ファッション協会 市民報告会実行委員会 2002年3月21日 饗陽会館多目的ホール)において、鯖江市民に向けて発表したものである。