小布施・須坂・会田宿-信州は美しい街並みの宝庫

小布施・須坂・会田宿-信州は美しい街並みの宝庫

伊達美徳

今年(2003年)の夏は、信州の3つの街並みを訪ねた。信州はあちこちに美しい街並みを持っている。

小布施町で(NPO) 日本都市計画家協会主催のミニシンポジウムがあり、小布施に泊り、隣の須坂も訪ねた。この二つのまちづくりは、ある面では対照的で面白かった。

小布施では、地元有力企業がリードして、街なかの特定ブロックを中心に街並みづくりをしているのに対して、須坂では中心商店街のひとつひとつの建物を、できるところから順に線状に修繕・修景を進めている。

遊び仲間と行った会田宿(元・四賀村、現・松本市)は、松本の北にあり、昔は善光寺街道の栄えた宿場があったので、それを偲ばせる街並みがあり、まだ知られざる名所候補地である。

●小布施はよい意味でのテーマパーク

・アメリカ台風娘と地元度量旦那

小布施のまちづくりは、いわばテーマパーク型である。

そのコンセプトの中心に江戸の偏屈画家「葛飾北斎」を据え、これに地元産の栗菓子を組み合わせて、文化と味覚をもってなかなかにしたたかなまちづくりである。

ミニシンポジウムで、小布施堂と市村酒造両社兼務のご当主である市村社長と、そこの重役であるセーラ・カミングス女史の、掛け合い漫才のごときまちづくり話を聞いた。

地元名家のもつ力量と度量は、長野オリンピックでアメリカからやってきて、そのまま居ついてしまった台風娘がつぎつぎと繰り出す一見とっぴな提案を、見事に飲み込んで消化していってしまう。まさに異文化との交流が次の活力ある文化を生み出す典型を見せている。

「小布施でオブセッション」にはじまるカミングス氏の仕掛けは、ますます楽屋落ち英語駄洒落の勢いを増してきているようだ。

・町民おかかえ建築家

小布施の中心部の「北斎館」を中心としたメインストリートあたりの修景は、1982年からはじまった。

その群建築が上手く調和している和風デザインは、信州の有名な建築家である宮本忠長氏がすべて引き受けている。

そこにこのまちづくりに明確なデザインコンセプトが見えて爽快でもある。

小布施町の公共建築は、すべて宮本忠長氏のデザインとすると決めてあるそうだ。これを癒着と言われた町長は、特定利益を授受はないから癒着ではないと、断然とはねつけたそうだ。

西欧的見識ではあるが、そこまでやれる政治リーダーが日本にもいるのである。

長野県で都市計画区域に線引き(市街化区域と市街化調整区域の区別)をしている都市は珍しいのだが、なんとこの小さな町がそれをやっているのだそうである。

だから確かに、市街地の外の農村空間は美しく保たれている。この見識もなかなかなものである。

聞けば、宮本起用も線引きも、先代の市長であった市村氏の父君であるという。地方の名家の力はすごい。

・企業リードから町民まちづくりへ

いま小布施は有名な町になり、多くの観光客がやってくるようになったが、市村さんに言わせれば、もうこれ以上に観光客誘致を考えないほうがよい、観光客のためのまちづくりをしているのではないのだからだそうだ。

さて、その中心部を見て気になったことは、市村さんの息のかかっている市村酒造のあたりはともかくとしても、そこを通りぬける国道403号沿いの街並み、あるいは町の表玄関である長野電鉄小布施駅前あたりの街並みは、どうもいまだしの感がある。

特に街なかの国道沿いには、この地方の伝統的な町屋もいくつかまだ見られるのだが、次第に消えていっているようである。

今の企業リード型まちづくりとあわせて、行政と民間の共同まちづくりとして、早いうちになんらかの街並み修景保全策がいるであろう。

・正確にして美しい地図を

小さな町だから歩くとちょうどよい大きさであるのだが、この町も歩くための地図がよくないのであった。距離が分からない、街と田畑の区別がない、デフォルメしてある、そして美的でないなどなど、地図の欠点をすべて具備しているのである。ためしに地元のひとが、何も知らない訪問客にこれをもたせて、一緒に歩いてみればよい。

ところで、泊った宿は、小布施温泉「あけびの湯」なる、最近各地の田舎に流行の新しい温泉宿である。しかし、そのサービスの悪いこと、高いこと、温泉なのに利用時間制限があるなど、一同不評さくさくで、もう二度と行きたくない。

●須坂はまちづくりの息吹が見える

・伝統土蔵の街並みづくり

小布施の隣の須坂の街並みも、別の意味で実に面白い。蔵の町として、街なかに無数にある土蔵を生かしたまちづくりをしている。

江戸時代は二つの街道が交差するまちで商取引が盛んであったために栄え、近代は製糸業で栄えた町であり、たくさんの店蔵が街なかに立ち並ぶ。

小布施では古いものを生かしつつも、新たなものを取り込んでそれらをうまく調和させながら進めているのだが、須坂では古くからあるものをいかに生かすか、その腐心が見えるのである。

伝統的な土蔵を生かすのだが、それと同時に道路拡幅の都市計画事業もしているから、そのままには活かせないところも出てくる。そこで土蔵を曳家して、他のところに持っていって再生することまでやっている。

曳家は昔はごく普通にやっていたものだ。わたしが30数年前に名古屋にいた頃は、あの大道路づくりの区画整理真っ最中で、大小いろいろな建物をあちこちで曳家していた。

当時名古屋でも相当に大建築であった9階建てだったかの「滝兵ビル」を、いつもどおりの営業に使いながら曳いていた。銀行の石造り建築も曳いていた。毎日、少しづつ街並み風景が変わるのが楽しかったものである。

ところが今では、曳くよりも新築のほうが安いとかで、めったに曳家にお目にかからない。道路事業や土地区画整理事業の補償金の算定を、曳家よりも再建築のほうを高額にするものだから、良い建物を持っている人でも、曳家を選ばないという都市計画事業の仕組みの問題もある。

・曳家の記録を出版した主婦

さて、須坂の曳家である。街なかを歩いていたら「ふれあい館まゆぐら」なる土蔵があり、休憩所になっていていろいろ展示もしている。そこに「曳家(動く文明の記録)」と題する、自費出版の小冊子が置いてある。

中身は、二つの土蔵の曳家の一部始終を、刻々と追った写真ドキュメンタリーである。この蔵もそのひとつの曳家である。これが面白いのである。

ひとつは180mの距離を1ヵ月半、もうひとつはやはり180mを2ヵ月半かかったのだが、この間カメラを持って土蔵ストーカーをしたのは、街なかに住む熊谷南江さんである。ある日通りがかりに曳家を見て、そのダイナミックな光景に魅せられたのだと書いてある。

さっそく熊谷さんに電話をした。ちょうど在宅で、駅前で会うことにした。会えばごく普通のおばさま主婦である。その普通の主婦がまたどういうわけでと聞けば、物好きなのですとのお答え。

最近、須坂郊外から街なかに住み替えて、中心部のまちづくりが気になっていたとのことでもあった。それにしても、このような記録を物好きだけで自費出版してしまう勢いには、驚きと敬意を表したものである。

曳家の一部始終を単に写真だけではなく、曳家の職人や専門家の助けも借りて技術的なこともきちんと書いてある。そこには、まちを愛する主婦の心や、曳家職人たちの意気込みも見えて、まことにすがすがしいまちづくり記録となっている。

まちづくりは、その過程が大事でもある。まちづくりのために人々はどんな努力したか伝えることが、その街の次世代を育てる原動力になるはずである。須坂には、まちづくりの市民の息吹が見える。

・木造近代洋風建築がすごい

街並みの伝統和風の蔵造りもよいが、街なかでもっとも気に入ったというか気になったのは、かつてこの地方の郡役所であり、今は保健所となっている木造2階建ての洋館建築であった。

いつごろの建築だろうか、壁は横下見板張りペンキ塗り、露台の乗った玄関ポーチがあり、左右対称のちょっと洒落た風情は、いかにもその時代のお役所建築らしい風格を備えている。

さてこれからどう保たれていくのであろうか。まだ利用されているようだが、あちこち外壁の板も反り、ペンキも剥げていて、修理が行き届いていない様子である。気になる。これからぜひとも使い続けてほしいものである。

・美しく分かりやすい地図を

この街も小布施と同じで、地図がよくない。金かけて印刷したらしいが、どうしてあのようにちゃちなのか、しかも地図の欠点をすべて具備する分りにくいものなか。

地図は、それを見たときにその街の楽しさ、美しさが雰囲気となって立ちのぼるものであってほしい。それはイラストが綺麗なものという意味ではなく、地図として正確であり、美しく分りやすくあってほしい。

須坂の豪商田中本家も訪問し、ご当主に案内していただいた。地方の豪商のすごさを見せられたが、それよりも近代以降の西欧文化が入ってくる時代の生活発展史をみるのが、実に楽しい資料館であった。

須坂も街なかはそれなりの風景を環境として作り上げようとしているが、郊外に出ればいずこも同じ、安売り屋の乱れ醜い風景であることよ。

●会田宿は秘めたる名所

・農地を貸して人口増加

松本から北へ国道143号を行けば、犀川支流の会田川沿いの明るい盆地の会田宿(あいだじゅく)である。

最近、会田宿の近くにクラインガルテンなる宿泊もできる農作業小屋つき小農園団地をつくり、都会人向けに貸し出している。

菜園つき建売分譲したいところだが、開発には農林省の補助金を使っているから当然農地でなければならないから、農地法でそれはできない。

そこで、「作業が遅くなったら宿泊もできる」として、実態的には都会人の「別荘にもなりうる」ように、設備の整った立派な作業小屋を貸し出している。

1区画300㎡にログハウスが現在130区画だから、住民登録はできないが実体的には村の人口が130戸分増えたことになる。なかなかに工夫をしているのである。

・昔の宿場町の街並みが生きている

会田宿は、江戸時代は善光寺道の宿場町として栄えた。村の中心商店街であったが、今は店は少なくなっていて、小さなスーパーマーケットがある。

その街並みをみれば、立町・中町・本町と鍵の手に折れ曲がりつつ、平入りの漆喰固めの町屋があちこちにある。

しだいに建て替えらっれてはいるし、住民がいなくて荒れている家もあるが、それでも昔の街並みをじゅうぶんに偲ぶことができる。

新町あたりは特に荒れているが、今なら修復すれば平入り町屋の連続が再生できそうだ。中町は数軒の見ごたえある町屋が並んでいて、それを手本に街並み修景がすすむことを期待したい。

この中町の中ほどの金融機関が、最近建て直したらしい。その伝統的な漆喰を施した瓦屋根建築であるのはそれなりによいのだが、平入りの街並みの中に妻入りしているのである。単体建築としては努力したのだが、街並みとしてはここで乱れたことになるのが残念である。

本町は坂道に街並みが並ぶ。その見上げる風景、上から見下ろす風景が、街並みに変化をもたせて、なかなかに楽しい。それぞれに屋号を掲げ、蔵の妻壁に屋号のマークを描き、そのデザインもよい。

しかし、建て替えにつれて次第に妻入りの家が増えてきているようで、街並みが崩れてきているのが心配である。

・伝統風景を生かしながら新たな生活の器を

会田宿の街並みの個性は、平入り、2階建て、雁木風の軒、越し屋根、漆喰塗りの家が、それぞれに少しづつ違う高さや、少しづつ異なるディテールで競って建っていることで成り立っているのである。

しかし、住民たちは毎日見慣れていて、ついそのデザインコードに留意しないままに、それぞれの好みや他の町で見かけたお気に入りの姿を取り入れ、これまでの街並みとは無関係に建て替えられて行くようである。

会田宿だけでなく、保福寺宿でもそうであるが、江戸時代の家はなくとも、街並みとしてはそれなりのひとつの個性をもっているのにもかかわらず、次第にそれが失われつつあるようだ。

特定の名所の陣屋や寺院にその街の個性を求めるばかりでなく、実は街並みにも個性があるのだから、それを生かすことを考えてほしい。

保福寺宿でみた山車を入れる蔵はすばらしかった。そのような町場の見慣れた美しさを保ってほしい。観光街並みではなく、住む人たちが、その伝統と個性に誇りを持つことができる美しい風景を、日本の街並みは備えるべきである。伝統風景を生かしつつ、中身は新たな生活の器となる家をつくればよい。

会田宿には山すそに美しい風景を持つ寺院も多く、野の道には道標や石仏たちがあちこちにあって、歩いていても楽しい。歴史と自然と文化の里である。

・突然の宮殿の出現

四賀村の個性といえば、谷間の道を行けば山中に突然、ヨーロッパ宮殿まがい、というよりも、ラブホテルまがいの大建築が出現する。

養老の滝なる居酒屋チェーンの創業者が、その母親の出生地とて記念に建てた結婚式場とか。それはもう、つい噴き出してしまうほどに、唐突に超個性的風景である。

まずは、集落の街並みの中でなくてよかった。(030907,080929一部訂正)