1984年から2003年まで20年で地域でなにが変わったか

1984年から2003年までの20年

地域でなにが変わったか

2003年

伊達美徳

●はじめに

ここに掲載した小論は、1984年に書いたものである。今年は2003年、およそ20年前に書いたことが、今の時点ではどう変ったか、どうなったか、どうなりつつあるか、振り返てみたい。

じつはこれを読んでわれながら驚いたが、今もまったく同じことを言っているのである。恥ずかしくなったのであった。

各章に、「★20年後の注」を入れたので、お読みくらべいただきたい。

●地域開発論ー多様にして多難な『地域おこし』への道

伊達美徳(RIA建築綜合研究所取締役)

(「商業空間」43号 日本店舗設計家協会1984.11掲載)

1.多様な価値感

『そんな道の修景などに税金を使うよりも、もっとその前に福祉でやってもらいたいことがあるッ。税金払っている市民のひとりとして、このまちづくりには反対ッ』

シラケた空気が会場に流れた。街の中心を貫くメインストリートを修景して、楽しく歩けて買い物のできるようにしようとする事業に、行政が着手すべく、住民の意見をきく会をやっている。

公民館の会議室には、50人ばかりの沿道の商業者代表、市民団体代表、自治会代表その他新聞記者などが集っている。

冒頭の文句は、住宅地の自治会代表のひとりらしい。市民団体代表には大学教授もいる。街づくりの一般論を説いて、規制と誘導等を講義する。すかさず商店会代表が立って、『規制されて商売なんぞしたくないから計画反対です。』と言う。

行政当局は道路路のモール化で、みんなから喜んでもらえると考えていたのに、やっばりこの古い街はうるさい人が多いと、若い担当者はこの後の会の進め方をどうしようかと途方にくれている。

その道は都市軸を形成する門前町のメインストリートであるが、商業活力は近年ではその裏通りに移ってしまった。商業者はなんとか昔の活気をとりもどしたい。市民もメインストリートらしくもっと美しい道にしたい、というように一見利害が一致するようだが、いざとなると大所高所派の市民と、毎日のなりわい派の商業者で対立が起きるというくりかえしで、結局はなにもできないでいる。

特に観光客が多い道だから、商業者は市民を相手にしていないという感覚もあるようで、市民にしてみればわが街のメインストリートだから一家言あって当然ということで、なかなか古い都市は難しいことが多い。

★20年後の注:この話は、鎌倉市の若宮大路のことである。道そのものは修景ができあがったが、沿道の建物については、いまだにほとんど同じような状況が続いている。

少し変わってきているのは、沿道の商業者と市民とが協議会をもって、同じテーブルについて話し合う状況になっていることであろう。

2.都心の低落

東京の下町のある区の仕事をしているが、ここでも高齢者がどんどん増加しているのは全国的頃向だが、問題は人口減少が進んでいるため高齢者比率が異常に高くなっていることだ。

このことは、年寄りの方には悪いけれど、街の活力がどんどん低下していることになる。なによりも行政への税収が見込めなくなる。労働勤人口が減るから企業立地がなく、したがって定住者も減るというイタチゴッコだ。

この現象は地方者都市でさらに著しい。かつてわが国をささえた地場産業地帯の中心地であった地方都市は、産業構造の変化で低落していったものが多い。生糸、繊維、木材、石炭等にその典型をみることができる。なかには人口が1万人を割った「市」さえある。

そのような都市の街中は、比較的都市構造がしっかりしているにもかかわらず、活気が失なわれているものが多いが、その大きな原因が総論的には産業構造の変革だとしても、各論的にみると、散漫なスプロール現象にある。

統計に表われることからもわかるように人口減少するにもかかわらず、制度上のDIDは拡大するという矛盾したことが起る。

古く発展した都市ほどその地方での地価は高いので、核家族化の進行は周辺スプロールという形をとって表われてくる。これは自動車の普及ともかかわっている。そして今はやりの郊外型大型店がこれに拍車をかける。

そんなわけで、地方都市の中心部には、自動車の運転できない年寄りとジジババストアばかりとなってしまう。

また、そのような都市にかぎって、都市計画の用途地域の商業系がヤケに広く、郊外部の居住系も誘導型で指定している例が多い。

あるいはその逆で、未だ用途地域指定をしていないために野放しということもある。スプロールを奨励しているようなものだ。

地方都市は全体に希薄な街になり、中央大都市はアンコがなくなってドーナツになる。いずれにしても、都市商業の復興には多難な社会現象が待ちうけているどころか、現に今、ふりかかっている。

★20年後の注:これを書いたときは私もまだ高齢者ではなかったから、どこか客観的である。今はそうはいかない。ここに書いた問題は、まさに身にふりかかっってきている。いまだに政策的解決はほとんどなくて、自力で過疎から脱出するしかない。

3.都心部開発の限界

このような都心部の低落を救おうと都市再開発の推進が叫ばれている。

しかしながら、都市再開発の基本的原理は、潜在的能力のある街の力を再開発事業によって顕在化することにあるのだから、すでにポテンシャルを失っている都心には成り立たないシカケである。

都市再開発は産業再開発だ、大型店再開発だといわれているのは、上記の原理から当然のことながら、最大にポテンシャルを顕在化させる手段が働いているからである。ポテンシャルのある大都市のしかも駅前が多くなるのだ。

では、ポテンシャルの失われた都市、都心ではどうすればよいか。近年の再開発でもまだ商業型が多いが、比較的多くなっているものにコミュニティー型とでもいうタイプがある。公共の文化施設などをとり入れて、都心商業と組みあわせるものである。

公共の文化施設といえば従来からともすれば郊外の不便な公園の中につくることが多い。地方都市で特にこれが多いのは、各地区部落の票との関係もあるようで、首長はまんべんなく施設を散在させなければならないことだともいう。こうして希薄な地方都市はますます希薄になる。

しかし、公共の施設は市民の大多数にとって最も便利な都心にあることが望ましいことはいうまでもないだろう。利用しやすい環境こそ公共の施設の基本的使命だから、都心部の再開発にこれを導入することは、その都市全体の住民ニーズというポテンシャルをここに集合したことになり、それを顕在化させることで事業化しようとすることである。

消費ニーズという商業ポテンシャルから、コミュニティニーズという生活ポテンシャルヘの転換こがはじまりつつある。

★20年後の注:大都市駅前もポテンシャルを使いきった後の凋落が始まっている。公共施設導入のコミュニティー型再開発も、公共投資財源がなくなってきて難しい時代になっている。

ところで今、市町村合併問題が起きてきて、これがなにやらまたもや分散型まちづくりの促進に働くような、きな臭さが感じられる。合併市町村の各地域に満遍なく公共施設をばら撒くのである。あるいは、どの街からも等距離のところに新しい市役所などを作るというような、お馬鹿さんな計画があるらしい。

4.ポテンシャルの発見

「町並み保存運動」という、全国的な連盟も結成している活動がある。この運動がいま直面していることのひとつに商業近代化事業との競合がある。

地方都市の都心は、そこが古い歴史をもっているほど、しつかりとした骨格による歩行者スケールの町並みをもっている。そしてそれが前述のように活力を失って、その回生の手段として、道路拡幅によって車社会に対応した商店街を再生しようとする。そのときその街の形は大きく変る。街の家並みも変る。

町並み保存のメッカともいうべきところは、長野県南木曾町の妻籠宿であるが、これにみるように、保存運動は現状保存あるいは復元による歴史的景観の保全が根本にある。このことと商店街再生とが競合する。

けれども妻籠宿の例にみるように、村がこれによって再生したのだから、ここでは競合ではなく幸福な結婚だった。

町並みがポテンシャルを持っていたことを発見して、保全することでそれを顕在化して、町の活性化を成功させたのだった。

倉敷にしてもそうだ。私はここの近くで育ったのだが、子供の頃は大原美術館だけが有名だった。

紡績工場の街が産業構造の変化で低落するところを、今日の変身をとげたのは、妻籠と似たところがある。いや、妻籠が倉敷に似たところがあるという方が正しい。

そして今は小樽をあげなければなるまい。この都市の再生で有名になったのは、でき上った駅前再開発よりも、運河埋立騒動であることが皮肉だ。

そして取りこわされようとしていたレンガ倉庫に中央の大商業資本が目をつけて、この再生利用の方向に食指を動かしたことから、にわかに保存運動が力を得たことも、遠方からみることで無責任かもしれないが、地方再生が中央資本に支えられるという図式を抜け出ない形となって、なんとも皮肉だ。

それでも、運河とレンガ倉庫というポテンシャルを発見したことは画期的なことだ。今、多難な運動になっている様子で心配である。

このように、ポテンシャルはかくれひそんでいるかもしれない。商業近代化はそのポテンシャルをぶちこわすか、顕在化させるか、都市商業ルネッサンスヘのひとつの切り口である。

★20年後の注:小樽は、運河の一部保全と都市計画道路整備とができ上がり、倉庫群や歴史的建築群で、いまやメジャーな街並み観光名所になってしまった。

このポテンシャルに目をつけた(があるものと錯覚した)関西の流通業「マイカル」が、街外れの港に大規模開発をしたのだが、ものの見事につぶれてしまった。

小樽運河周辺はいまは観光街と化し、その一方でかつての駅前再開発ビルは危機に瀕している。なんだか良かったのか悪かったのか、よく分からない。まちが美しくなったことだけは確かで、それはよかった。

5.ポテンシャルの創出

千葉県浦安市は、今や東京ディズニーの街として全国に、いや海外に有名になった。あのマッタイラな埋立地は東京の住宅地としてのポテンシャルはだれでも知っていたが、

東京ディズニーランドは年間に1400万人を集めて、浦安にはいま巨大な商業ポテンシャルが地震の大ナマズのごとく地下にひそんでいることがわかった。さてどうやってこれを浦安で顕在化するか、面白い競争がはじまりつつある。

浦安ほどではないにしても、たしかに能力は創出できる。十勝ワインの北海道池田町、電気部品の山形県村上市、大学群の八王子市、阿波踊りの高円寺(東京)など、それ。までなかつた産業やイベントを誘致、創出して都市に能力をつけることで再生をした例である。

高円寺の阿波踊りを例にあげる。今から28年前に商店主達の景気づけのバカ踊りからはじまったが、今や『高円寺の阿波踊り』となって定着した。28年もたてばその時生れた子は立派な人の親になっているはずだから、もうすでに歴史をもちつつある行事となった。庶民的な街としてイべントももつ街のアイデンティティをつくりあげた。

いまそのコミュニティーを結集して再開発により次の時代へ取り組もうとしている。ソフトから始めてハードヘと展開する模範例である。大戦後の再生はソフトでやってのけ、その上にたって流通戦争への対応はハ-ドでやろうとしているのだ。

★20年後の注:東京ディズニーランドはいまや年間2000万人を超える集客施設で、全国エンターテインメント施設では一人勝ち。ディズニーシーやら駅前商業施設やらホテル群やらと広がって、地下のナマズはどんどん顔を出してきている。どれほどナマズがいるのか分からないが、そろそろ限界のような気がする。

都市計画道路整備にからむ高円寺の再開発はいまだにできていないが、阿波踊りはいまも隆盛である。ソフトからハードへの展開は無理であった。

6.混合の効果

大仰にいえば、都市計画の基本哲学がいま見なおされようとしている。都市を計画的に人間にとって住みよい環境にするはずの都市計画のもたらしたものが、都心の低落と無秩序なスプロールでは困るのである。

都市計画の基本にあるものは、用途純化によって土地の用途はできるだけ単一化して。その用途地域をを一定の秩序で組合せるものとしている。

ところがその結果なにが起ったか。東京都心の夜のゴーストタウンがその代表であり、新宿区や千代田区は住宅呼びもどし策をだしているが地価が邪魔する。

もっと深刻なことも起きている。それは下町の衰退である。そこは家内工業を中心とする伝統的な住工混合地区であったのだが、住工分離の都市計画がそれを許さない。

大田区といえば、田園調布に代表される高級住宅地もあるが、実は東京で最大の工業都市だ。臨海部の大工場とならんで下町の中小家内工業が大きな地位を占めている。そこでは生活と生産とが密接につながり、またそれらの工場間で緊密なコンビナートを形成していることで、下町に集合していることが成り立っている。家内工業的であるだけに、家族労働を背景にして意外にハイテクヘの意欲も高い。

それらの住工、そしてそれを対象とする商という混合で町が形成されているのだが、都市計画側では、商業もしくは住居系の用途指定をするため工場は既存不適格扱いとなって、増築・増設ができない。そのために技術革新への対応を遅らせるし、下町の活力はしだいに失われてゆくことになる。

混合でこそ成立し、あるいは混合することで活力を再生産することはいくつでもある。近年いわれるインターディシプリナリーこそはそうだろう。街だってそうなのだ。

交通にしても、車しめ出しばかりが能ではない。車と人とが混合することが見直され・てもよいだろう。

先日、ある国際学会で、西ドイツの交通学者が言っていた。

「日本では、各地で上手に歩行者と車の混合した道の使われ方をしている。見習いたい」

西ドイツこそは、近代都市計画で用途純化をすすめた模範的な国である。その国の人が見れば、わが国のありふれた歩道のない商店街は上手な混合利用にみえるらしいのだ。

商店街に文化を導入しようとすることが近年叫ばれているが、これも混合の効用の一面を言っているものである。もっと混合をすすめる方向もあるだろう。

★20年後の注:このあとバブル景気で東京都心地価はどんどん暴騰していった。それがパンクして今は地価の下落傾向で、都心集合住宅ブームとなっている。

だが、どうもどこかおかしい感じがある。東京都心にこんなに超高層集合住宅が建って、ほんとうに大丈夫なのであろうか。安くなったといっても決して下端に手の届く価格ではないから、かなりは投資目的である様子もあるから、人が住まないかもしれない。

何十年かたつと、超高層だって修理しなければならないが、そこらへんのビルと違って、大金がかかるが、大丈夫か。

賃貸で統括的に管理するべきだと思うのだが、いまだに賃貸住宅政策は貧困きわまる。あんなでかいモノを細切れに何百人もが持っていて、ほんとに大丈夫か?

都市計画の思想も変わってきて、いまや用途ミックスは当然視されて時代の先端的な課題のひとつとなっている。

7.『地域おこし』の視点

地方都市では、商業的なマーケット人口はどんなにガンバッても、行政人口が増加しなければなんとも増えようがない。

商店の物売りがガンバれることは、そんな中ではしれたものである。商品はメテディアの発達で日本国中での違いはほとんどないし、知識は消費者の方が高度だったりする。

そこでは、根本からたてなおしてマーケットを拡大する施策を展開することしか、地方都市の活性化の道はない。と、簡単に言ったがこれくらい大変なことはない。

だが、やる気とリーダーを得れば、それをやりとげた先例はいくつもある。前述の妻籠や倉敷もそうだ。そこには単に商業といういわば土農工「商」の末端からではなく、「市」農工商があいたずさえた『地域おこし』の視点が絶対必要条件である。「市」とは行政のことだが、一次産業から三次産業までの連携の上にこそ地方都市、いや大都市の都心も復興する足場がある。

特に商品がどこで買っても同じならば、その地域でなければ得られない商品をつくることで再生の道を、他の都市とは異なる市場を開拓できる。いま流行の乙類焼酎はその典型的商品だ。

もっとも地域性のある売り物は、「観光」という商品である。これこそ、その地域に行かなければ得られない。観光が海山の自然から、その地域の文化を訪ねる型へと展開しはじめている。

文化とはその地域の歴史の育んだ産業、風土、生活の産物である。ところがその地域の住人は、意外とその文化に気がつかないものである。毎日見ている風景・しきたりに慣れれば、それが商品となることに気がつかない。

小樽の運河がその典型だろう。横浜都心部の日本近代化の歩みをみせる建造物群だってそうだった。そして地方の歴史的街並みが、ケバケバシイ看板でかこわれているのを見ればよい。

岐阜県の山中の小さな町の中心を訪れた。メインストリートはゆるい坂道で、落ちついた民家が歴史を秘めて並んでいる。それらが一様に2階に囲い型に看板をまわしている。役場をたずねて商工観光課長に、その街並みの美しさをほめて、看板をなんとかしたらどうかと言ったとき、答は「あんなボロな家をどうするんですか?」ということだった。

地域を興すことは、地域の良さを住民が認識することからはじまる。駅前が、地方に行けばどこでも同じ形だといわれる。そこにスーパーマーケットではなく、地域の文化を育て、見せ、演じ、参加する場をつくることをしてはどうだろう。あるいは地場商品を製造する工程からみせて販売するのだ。

地域のよさを認識することから人口定着ははじまり、そして地域の特色が商品となるとき観光流入が生れる。こうしてマーケットの拡大が都市商業の復興をもたらす。

★20年後の注:その地域でなければできない産物を、その地域でつくり商うという政策は、その後、通産省で「ファッションタウン」、国土庁で「ものまちづくり」となって、各地に展開されるようになり、この10数年間、わたしも係わってきている。

「岐阜県の山中の小さな町」とは、明智町であった。それがいまでは街並みを売り物にする「大正村」という評判の街となった。どうやら街並み観光が各地に根付きつつある時代となった。

8.多様な行方

価値感が多様であれば、われわれの行方も多様な方向があり、それを選択する目が必要だ。

総論賛成、各論反対の時代に、各論の中のどれが選択すべき方向かは誠に困難だが、どうやらルネッサンスという言葉に感じるように、かつての栄光をかえりみることから何かを発見しようという時代のようだ。そこに手がかりがありそうだということだろう。

たしかに公共事業についても、財政難のなかでやるのだからこそ、ここで良いものをつくらなくては、という使命感にかられることが近年はあるようだ。

例をとれば、東京四谷に「四谷見付橋」がある。これをかけかえようとしているのだが、その欄干、橋頗、照明器具などは赤坂離宮からのアイデンティティにもとづいたなかなかのデザインだ。

昭和の初めの日本の豊かだった頃のものを今の時代に簡単に無くすわけにはいかないと、新橋にそれを生かす努力がされつつある。

商業施設の寿命がこんなに短くなったのはいつのことからだろう。都市商業の復興のなかには、それが文化として永年の命を保ちつづけるものにならねば、いつまでたっても士農工商の末席をけがすものにとどまるだろう。

興すべきものは、地域全体であり、「地域文化おこし」、「地域産業おこし」、「地域観光おこし」そして「地域商業おこし」である。

★20年後の注:四谷見付橋は、実際にそれなりの姿で再整備された。もとの橋は、多摩の公園に持っていって架けられた。

20年前の論説を読んで見て、いまだにほとんど問題の根本は解決していないことが分かり、都市計画家としては慙愧に絶えない。でも、街並み観光、ミックスユース型都市計画、ものまちづくり、都心回帰など、少しづつ前への歩みもあることも分かったのであった。

(2003年12月4日)