地域の活性化はものづくりとまちづくりの連携に
藤原肇著『ものづくり都市の再生』発刊
伊達 美徳
今年(2005年)の1月、一人の稀有な人材が逝った。
1993年ごろから、まちづくりとものづくりの連携による地域再生策「ファッションタウン運動」を提唱し実践してきた藤原肇氏である。
まちづくりとものづくりを連携する地域再生策は、経済産業省では「ファッションタウン」といって主に繊維産地振興政策であり、国土交通省系では「MONOまちづくり」と名づけて都市計画と地場産業振興を連携する施策として進めてきた。これまでの土建屋振興策とか大型商業振興を超えて、地域の生活に根付く産業を地域まちづくりに生かすことで、ものづくり都市の再生を図ろうとする政策である。
藤原氏は93年にファッションタウンを提唱して以来、常にこの「もの・まちづくり運動」の中心に立ってリードしてきたのであった。
そして民間コンサルタントに飽き足らず、福井県鯖江市の行政組織に入り込んで、この政策を現実に推し進めてきた。ところが合併問題に端を発した政変で運動は頓挫、個人としては病魔に襲われて志半ばにして逝かざるを得なかった。
そこで彼の数多くの著作を編集して一冊の本にまとめて『ものづくり都市の再生』(ぎょうせい発行 2005年11月20日 定価2500円)として、氏の仕事をこれから各地に広げていくために有志が編集して出版した。
だからこの本については、私は編集者であり、藤原氏の仕事や論文の解題も一部書いた。
私と藤原氏との出会いは85年頃だろう、高円寺駅前の再開発計画だった。いつのまにかファッション藤原・タウン伊達の「ものまちコンビ」となり、岐阜、豊岡、今治、児島、桐生、墨田など数多くの産地で共に仕事をしたが、鯖江の十一年間が最も長い。
いつも彼の緻密にして迫力ある言動に煽られつつ、もの・まちづくり運動の現場に入ったことが、私の四十数年にわたるまちづくり活動に新展開を確実に与えてくれた。
藤原氏の日ごろから万端の資料整理と敦子夫人の協力がなさしめたものが本書である。
なお、本書に掲載したわたしの解題論文はこちらである。「もの・まちづくり運動と都市の再生」(2005)
(2005.11.26)
=======藤原肇氏葬儀における弔辞===========
弔 辞
藤原肇先生
まことに僭越ながら、友人を代表して、お別れの言葉を述べます。
1月5日、わたしはこの先生の著述リストを持って、東大医科学研究所の、先生の病床に行きました。
その前、12月22日、24日にうかがったときの、それなりに元気な様子は一変して、病床で苦しんでいらっしゃいました。
苦しむ様子の貴方に向かって、わたくしは、このリストを持たせて、これでよいのか、分類は違っていないのか、チェックしてくださいと、迫りました。
これは、かねてからの貴方と約束していた「藤原肇著・ファッションタウンが21世紀日本を救う」、そのような題名の本を出版するための、基礎資料リストなのです。
あなたは左手でこのリストを持ち、右手でわたしと硬い握手をしながら、もう見えそうもない目を半分開いて、苦しい息の下から絞り出すように、「それでいいよっ」と、一言大きく叫んだのでした。
いまはもう、なにを言っても、あの情熱的な口調で、懇々と答えてくださることのできない先生に、こうして物言うことはむなしい限りです。
あなたは大晦日の日に、覚悟の言葉を電子メイルで発信されました。
そこには、こうお書きになっていらっしゃいました。
「私の死後、一切の死亡通知やご案内はいたしません。消息の問い合わせも難しいでしょう。通夜・葬儀・告別式も一切いたしません。」
それなのに、今日ここに盛大に集まって、貴方を送っています。これは、貴方の意思に反しています。
そうなのです、死者を送る儀式は、死者のためではなく、残された生者のためのものなのです。
先生のためのものではないのです。死者の生前の存在が大きいほど、生者には死者を送る儀式を、わが心のために求めるのです。
ほんの一握りの人にしか、先生の死をお知らせしなかったのに、こんなにも先生を慕うものが集まってしまいました。
貴方の魂が呼び寄せた、としか言いようがありません。
おもえば、この20年ほどのお付き合いでしたが、その間、でこぼこコンビで、全国各地に通ったものです。もちろん、わたしが「ぼこ」で、おおくのことをおしえていただくばかりでした。
まだまだ教えていただくことがあるはずでしたのに、先に逝かれては困るのです。わたしのほうが、年上なのに、。
今治、豊岡、熊本、多治見、児島、七尾、桐生、足利、墨田、そして鯖江などなど、ファッションタウンとMONOまちづくりのキャラバンでした。
地場産業と都市計画を結ぶ「MONOまちづくり」あるいは「ファッションタウン」にかけた藤原先生の晩年は、ついにご自身が、鯖江市役所の幹部となって、ファッションタウン政策を、陣頭指揮することになったのでした。
それは、この十五年余のファッションタウンの実験段階を、実務段階へとステップアップするという、壮大なるプロジェクトでした。
現場主義をもとに戦略を立てる藤原手法は、まず地場産業の現場を、一軒一軒訪ねることから始まるのでした。
100軒、200軒、300軒と、眼鏡・漆器・繊維の、どんな小さな企業にも足を運ぶフットワークは、まことに誠実で、わたしもまちづくりの場に見習ったのでした。
藤原戦略は、「鯖江ファッションタウン計画2000」となり、第一次五ヵ年計画は着々とすすんでいました。
2005年は、鯖江市でファッションタウンサミット等の全国イベントを持って、ファッションタウン運動のモデルとして、成果が目に見えるものとなるはずでした。
でも、好事魔多しとはこのこと、先生は病に倒れられ、昨夏には福井県大水害が鯖江市をも襲いました。加えて、市町村合併に端を発した、政治的な争いがファッションタウン政策を襲います。
鯖江市は、市長と藤原先生というファッションタウン政策推進者リーダーを、一度に失いました。
そう、天災と人災とが、最晩年の藤原戦略を、一気に挫折させたのでした。
思えば、藤原先生という人は、戦略の人としてあまりに先端的であり、戦術がついていかなかったようです。オレンジビレッジしかり、FFBしかり、FCCしかり、そしてファッションタウンも、思えばそうだったようです。
時代の先を行きすぎた悲劇の人であったかもしれませんが、それはいつの時代にも先駆者の運命で、甘んじて受けていただかざるを得ません。
だからこそ、それを知り、それを悲しみ、それをこれから生かしたいと思う人たちが、こうして藤原先生の意思に反しても、見送りに来ています。もって瞑すべしです。
わたしは、通常の葬儀の弔事としては、ふさわしくないことを、述べたかもしれません。
でも、生き残ったものこそが、貴方の戦略を次の時代を生かして、戦術を駆使して実現すべきとして、いま私は、われとわが身を鼓舞し、ここにあつまった人々を鼓舞しようとしているのです。
志半ばにして、逝かざるを得なかった藤原先生には、残念きわまる人生だったことと、心から哀悼を申し上げます。
しかし、最後に、実は、藤原先生は幸せだったと、申し上げておかなければなりません。
それは、病を知りつついっしょになり、晩年をしっかり支えた、敦子夫人の存在です。
この人こそは、藤原先生の最大の幸せであったろうと、友人として、心から喜ばすにはいられません。だからこそ、あの現実を見つめる厳しい藤原先生が、大晦日のメイルに「奇跡に挑戦」と書かれたのでしょう。奇跡を、敦子夫人に期待され、そして現実に、7日間の奇跡は起きたのです。
ここに、敦子夫人に、友人からの心からなるお礼として、静かなる拍手を送ります。
藤原先生、どうぞ安らかにお休みください。
2005年1月10日
友人代表 伊達美徳