師匠の死

師匠の死

伊達美徳

寒い朝、武蔵野の冬木立の中を斎場に向う。わたしが背いた師匠の告別式である。

黒いネクタイを締めて黒い礼服に黒いコートは、めったにないわがスーツ姿だが、ちかごろはスーツを着けるときはいつもこれになってしまった。

1961年4月に大学を出て、ようやく拾ってもらったRIAの大阪支所に就職、そのときの支所長が、2009年12月21日朝に告別する植田一豊さんであった。

わたしが社会に出て初めて師と思いその後もそう思い続けた人であり、わたしが公私共にもっとも世話になった人であり、もっとも影響を受けた建築家であり、都市計画家であり、、、、思想家である。デザインも文筆も立つ人であった。

そのぺダントリーに満ちた、そして新鮮な言説は、若いわたしを惹きつけた。その言説を真似しようと努めたし、その分かりにくい物言いを翻訳できるのは、このオレだけだとさえ思っていたものだ。

その10年後の1971年に植田さんはRIAをやめて、コミュニティ企画研究所という新組織を、RIAの何人かと一緒に立ち上げた。

わたしはついていかなかった。誘われもしなかったが、尊敬していた人に背いた気分を長らく引きずっていた。いくぶんかは、こちらが背かれた、というよりも捨てられた気分もなくもなかったので、屈折していた。 だから、後年、自分が独立するときは、誰も誘わなかった。

植田さんに対する尊敬の念はうすれなかったが疎遠となり、その後は山口文象の葬儀、『山口文象人と作品』出版の座談会などだけで、めったに会うことはなかった。でも、わたしは盆暮れの挨拶は欠かさなかった。

90年代の中ごろだったろうか、彼を囲んで話を聴く植田塾のような定例の会があるとて、誘われて行ったことがある。

そのとき久しぶりの植田語にたっぷりと出会ったのだが、かつてよりも更にペダントリーに磨きがかかって、早く言えば相当に分かりにくい言説となっていた。

そのときの話題に能「井筒」をとり上げていた。わたしは能謡を能楽師の野村四郎師に習っていて、能についてはそれなりに知識を持っていた。詳しいことは忘れたが、植田さんの解釈は明らかにおかしいものであった。他の能と混同している節もあった。

相手に構わず哲学用語の乱発にも冷めた気分となり、その後にわたしは植田塾に行くことはなかった。昔のように、分からないのはこちらが悪いのだと思うほどには、こちらがもう若くなくなっていたのだ。 はっきりと背いたことになった。

ところが、それからまた数年後、飯田市の市街地再開発事業について、基本設計プロポーザルを手つだって欲しいと、植田さんから話が来た。

聞けば、植田さんがそこまでコンサルティングして立ち上げてきたのに、ここから公開プロポーザル募集でのコンサルタント選定になったのだそうだ。

そうなるにはそれなりの裏事情があることは、こちらもプロとしての長い経験があるから推察できた。

そのときに知ったのだが、植田流の再開発コンサルタントの特異さである。あのペダントリーを市役所にも権利者にも使っているらしいのである。それを翻訳する植田チーム内の人もいたらしいが、市役所内にも植田ファンがいてこそ成り立つのだろうと、ある種の憧憬をもって見直し もしたがプロとしての限界も感じた。

プロポーザルにわたしも名前を連ねたけれど、結局は植田さんの事務所は飯田の仕事を失った。またもやわたしは師に背いたことになった。

偶然だが、諸事情の後その再開発事業の建築は、わたしが一時は一緒に仕事をしていた建築家の南條洋雄さんが設計をしてできあがった。

そのうちに植田さんが病気であることを人づてに聞いたが、ご当人からの盆暮れの礼状にその旨も書いてあった。その葉書は毎盆暮れ続いたが、中味はしだいに気力の衰えを感じさせるものとなっていった。

わたしは見舞いに行かなければとあせりつつ、一方では背いた弟子としての逡巡もあり、そしてあの山口文象が植田一方斎と揶揄した一方的にしゃべりまくる植田一豊が、病の床で気息奄々とする姿は絶対に見たくないとも思い、こころはゆれていた。

師匠であるとか、師に背いたとか、それは植田さんは関知しないことで、わたしの一方的な思い込みだろう。それでも、わたしはそう思いたかったほどに尊敬していたのであった。

2009年12月21日の葬儀は、府中の森の中でひそやかに行なわれた。わたしは棺の中の物言わぬ師匠に対面する勇気がやはり出なくて、法要を終えるとそっと武蔵野の冬木立の中に 抜けだした。(2009/12/23)