ファッションタウンという青い鳥を求めてヨーロッパを巡る旅1995

ファッションタウンという青い鳥を求めて

ヨーロッパを巡る旅1995

伊達美徳(都市計画家)

●街のイメージをきめる建築家

まるでイタリア半島の首飾りのように、北イタリアには美しい都市が宝石のようにちりばめられている。

ヴィチェンツァもそのひとつで、中世以来の美しい建築群のまちなみをもっており、そして金細工の装身具で有名な都市である。

この都市を語るには、どうしても欠かせないのは、パラディオというルネサンス期の有名な建築家である。

この16世紀の建築家は、ヴィチェンツァ市はもとより、ヴィチェンツァ県内のあちこち、そして隣のヴェネツィアまでも登場してくる。名建築のすごいところは、時代を越えて万人の目に見える形で、その都市のイメージを規定し続けることである(写真①)。

さて400年あまり前のこと、イタリアはルネサンス期にパラディオという建築家がいた。当時ヴェネツィアの支配下にあった北イタリアのヴィチェンツァという小都市で活躍したが、そのデザインの影響力は時代も地域も越えたものとなった。

彼の死後200年後にかのドイツの文豪ゲーテが、この街にパラディオの作品を訪ねて感激していることが彼のイタリア紀行に記されている。さらに後世、アメリカにまで影響を与えており、ワシントンの国会議事堂にその片鱗を見ることができるそうだ。

彼の設計した多くの建築作品が、ヴィチェンツァとヴェネツィアにあって、観光ガイドは『この建築はパラディオの作品で…』と説明を始めるのはもちろんのことである。

特にヴィチェンツァは、パラディオの町である。なにしろ目抜き通りの名前が「パラディオ通り」というくらいだ(写真②③④)。 建築家パラディオは、その建築作品群によって、ヴィチェンツァのアイデンティティのもとになっている。ついでながら、日本の街で建築家が一般のアイデンティティになっているところは、滋賀県の近江八幡のみだろう。ここにはヴォーリスという建築家の作品が多くある。この人は建築家としてよりも、一般にはメンソレータムという薬の会社の実業家としてつとに有名である。

イタリアに限らず、西欧系(これには北アメリカや西欧系の植民地などもふくむ)の都市を語るときに、建築家がしばしば登場する。それも日本のようにその筋の専門家の世界だけではなく、社会一般に建築家の名前が語られるようだ。例えば、観光ガイドがその都市の名所を説明するとき、そこの建築の設計者の建築家の名を言う。

日本で建築家の名が一般に知られることはほとんどないし、ジャーナリズムも話題の建築があっても、そのような紹介をしないからなおさらである。ましてや観光ガイドが建築かの名前をいうことはない。あるとすれば、東京都庁舎の設計者の丹下建三氏くらいなものだろうか。ついでながら、わが都市計画家という職能が認知されるのはいつの日か。

ところが絵画や彫刻となると、それがうまいか下手かよりも、だれの作品であるかがまず語られる。芸術品は作家が問われるが、建築の作家には関心がないのは、日本では建築が芸術品ではないことを示しているのだろう。だから建築が並びたってつくる町並みも、西欧のそれのようには美しくなり得ないのかもしれない。

わたしたちはヨーロッパの都市を訪ねたとき、建築群の織りなすまちなみの姿によって、その都市に歴史の深さをさとったり、あるいは歴史の浅いことを感じたりする。

北イタリアの都市のどこを訪ねても、そこの都心部には深い歴史に彩られている石や煉瓦による建築群の町並みがあるのだが、それらの街ごとに深い違いがある。多くの都市を訪ねるほどに、この違いの味わいが深まってくる。

まちなみ、街路、広場、教会、城壁、水路など、その街を構成しているものは、都市ごとに違う。しかし、どこかに地域性をもっていて、北イタリアというアイデンティティがある。その上でまた都市ごとに、アイデンティティをもっている。そこに強烈なるパラディオが登場することで、ヴィチェンツァは浮上する。

均整のとれたパラディオの建築作品群が、都市内や郊外別荘(ヴィッラ)群を彩り、それらはユネスコの世界遺産に登録されているほどである。

ヴェネチアもパラディオの作品が多い都市だが、ここは彼に頼らなくともやっていけるので、もうひとつのパラディオの街を紹介しよう。

バッサノ・デル・グラッパ市は、ヴィチェンツァ県内にある人口3万人の小都市であるが、ここの名所はこれまたパラディオのデザインになる屋根つきの橋である(写真⑤⑥)。 屋根つき橋といえば、やはりイタリアはフィレンツェのポンテ・ベッキオが有名であるが、こちらバッサノの橋はなんと上から下まで木造である。木造だからといって小川にかかるのではなく、ポンテ・ベッキオなみに堂々たる大河川を跨いでいるのだから、16世紀のままに保つはずはなく、何回も架け替えられてきている。

その度に400年前のパラディオのデザインを、木造のままに引き継いできているところがすごい。鉄骨やコンクリートに木の模様をつけているのだろうと、つい思うところがわが日本人の悲しいところか。

ところで実は、日本にも正真正銘のパラディオのデザインになる橋があるのだ。ヴェネツィアの名所にリアルト橋がある。橋そのものが両岸から山なりの坂になっていて、その橋の坂の両側に商店街がならんでいる。私はそこのてっぺんにある店で、去年も今年もネクタイを買ったものだ。

このリアルト橋を16世紀末に架けかえるときに、パラディオもデザインをいくつか提案したが彼の案は没になった。

ところがそれから400年あまりたって、東洋の果ての島国の瀬戸内海のほとりに、その没になった橋が実現したのだから面白い。倉敷市児島にある瀬戸大橋架橋記念館という橋をテーマにした博物館に、実際の大きさでつくってしまったのだ(写真⑦)。このプロデューサーは、建築家の上田篤さんである。日本で面白い博物館は少ないが、ここは見て楽しめる。

●街の姿を守りつづける力

壊れても流されても、もとのデザインのままに木造で架け替えつづける、彼らのその執念はどこからから来るものだろうか。何世紀にもわたってこの橋を行き交った多数の人たちの情念を受け継ぐのだろうか。ヨーロッパのあちこちの都市で、第2次大戦で壊された街を、戦後になって元の姿に復原した例は珍しくない。

イギリスにチェスターという小都市を訪ねた。城壁に囲まれた市街地に立ち並ぶ木造建築群の、複雑で優美な骨組みを見せる家並が実に美しい(写真⑧⑨)

その日は街の中心部のカテドラルでチェスター大学の卒業式が行われる日だった。伝統のガウンを羽織った卒業生の若者たちが、家族や仲間あるいは恋人たちと一緒にオールドタウンを歩く風景は、にぎわいの中にもどこか懐かしいものを秘めている。

このまちなみと街なかの活気を維持するための努力は、目で見ても分かるし、市役所でもらった各種の市街地整備とコントロールの策にも現れている。

そこには都心に住まわせるための住宅施策、狭い道路をうまく使うための交通施策、歴史的な建築物の保存施策、観光客誘致策、商業振興策などの多くの開発の誘導と規制施策を、だれにでも分かりやすく知らせながら整備を進めている。

市の開発・観光担当の窓口に行くと外国人のわたしにも資料を、専門的なものから一般的なものまでくれた(写真⑩)。ここのところが重要なのだが、どうも日本のどの都市に行っても、街について分かりやすい資料を容易に手にいれることはできない。観光窓口においてさえも、分かりにくい地図を平気でさしだすのだ。

チェスターは歴史の中に生きている街だ。本物の歴史環境の中で子供たちを教育している様子を、野外でも博物館でも見ることができた。そのような努力がこの街を美しく保っているのだろう。

彼らにとって都市とは、まず城壁の中の密度の高い市街地であり、その外はすぐに田舎であり、その差は確固としたものであった。都市(シティ)はタウンやルーラルとは違う、特別の意味を持っていた。市街地のまちなみは彼らが生きてきた基盤の表現であり、それがなくなることは、よって立つ大地がなくなると同じであり、アイデンティティを失うことでもあったのだろう。

わたしたちの国では、安易に何でも形を変えてつくり替えてきたし、街なかが暮らしにくいなら、そこを捨てて郊外にはてしなくスプロールしていった(写真11)。都市という概念はヨーロッパのそれのようには明確ではない。

ところが彼らヨーロッパ人たちは街なかにしがみつくように暮らしてきて、いやおうなしに街なかでの暮らし方を身につけ、街なみや建築の作り方・守り方のこころえを築いてきた。

つまり緊密な社会を構成する作法をハードウェアにもソフトウェアにも作り上げてきた。それが都市という契約社会であり、その表現としてあの個性ある美しい景観を、復原してまでも保ってきたのである。

●街の中で生き生きと暮らす

そこには実際に住んでいる市民がいる。都市が単に働くだけのところ、稼ぐだけのところ、遊ぶだけのところではなく、住むところであることがベースになって、その上でのさまざまな活動があってこそ、街を愛することができる。愛すればこそ守るべき街となる。

街の中で生き生きとした活動が最も現れるところは、商業の空間である。ヨーロッパでは小さな都市にも、専門店街の並ぶショッピングストリ-トが楽しく、広場や道の市場がにぎわいを見せている。

ヴィチェンツァでは街の中心のパラディオの広場の朝は、下着から野菜まで各所の露店にうずめつくされる。

バッサノ・デル・グラッパの木曜日は、城壁の中の道と広場は、ありとあらゆる品物の露店の市場となる。金曜日はその隣のトレヴィゾ市の街なかがにぎわう日だ。それは日本の観光朝市ではなく、地元の人たちが買い物をしながら、出会いを楽しむ様子である(写真12、13、14)

街は朝早くから人々が行き交い、活気に満ちている。この中世からの石造りのまちなみをバックにして、色とりどりのテントのしたに、魚や野菜から民芸品、下着からファッション商品があり、やりとりのひとびとの声が街に響く。

その風景は、これこそヨーロッパの都市なのだと、よそ者のわたしを興奮させるのであった。そこに人々が生き生きと働く暮らしが見えるからだ。

街で働く暮らしといえば、昔から職人である。注文に応じて一品の逸品をつくるのが職人である。

ヴィツェンツァには、この小都市に似合わない大規模な新建築の見本市会場がある。そこでは金細工の装身具を中心とした世界的なフェアが年3回行われるが、その背景にはヴィツェンツァが金細工の工房都市だということがある(写真15)

都市内のあちこちに工房があり、老若男女の職人たちが火や工具を使って金銀を装身具に仕立てていく(写真16)。その職人を育てる学校もあり、若い男女の生徒たちが励んでいる。みんながヴィチェンツァのブランドを誇っているようだった。

ヴィツェンツァは職人たちの生きている街である。額縁づくり、革細工、ガラス工芸などの職人街を、行政施策でつくることさえもしている。そこは市街地の一角で、古い町並みを修復して、2階には職人たちの工房を優先的に入れ、2階以上にはアフォーダブル住宅として、都心定住を促進する。

●街でものをつくる

職人と言うといかにも無骨な中年男を想像しがちだが、人形や織物をつくる女性も職人である。金の装身具は女性の感性を技としてつくる。最近は若いコンピュータ職人もいる。もちろん磨きに磨いた技を持つ古参のベテラン職人もいる。

彼らは技能を持っているのだ。それは文書にして他人に伝えることは難しいし、ロボットにやらせることも難しい仕事で、同じ業種でもそれぞれに個性を持つものが生まれる。それは手から手にと、伝えられるのである。人が消えると技も消える。

私がある職人に頼んで、あれこれと注文つけて欲しい品物をつくらせるとしよう。それは世界にこれひとつしかないものであるから高くつくかもしれないが、わたしの欲望は満たされるに違いない。不満足なら職人にさらに手を加えて改良してもらうこともできる。実をいえばわたしは今、こうしたカバンが欲しいのだが、職人に巡りあえないでいる。

職人は都市に住まい、そのような選択性の高い都市の住民を相手に、満足というものを供給してきたのである。それは職人自身の満足でもある。そこに、都市に住み働くものの生きがいの基本をみることができる。自分の生活圏の中で働き、生活圏の中で満足するものを得られることが、生き方の基本であるはずだ。

職人といえば、料理や酒はいまでも職人の世界といってよいだろう。この旅では、なんといってもリヨンのポール・ボキューズをとりあげなければなるまい。かつて織物の街リヨンにとってかわって、いまはこのフランス料理の鬼才ポール・ボキューズの街リヨンといわれ兼ねないと、市役所の人もジョークをいっていたほどである。それほどに、味も都市のアイデンティティに重要な役割を持つのである。

もちろんイタリアでは、どこにいってもウンザリさせられるほどに、街ごとに当地のイタリア料理がうまいと自慢する。九州の焼酎のようなものである(写真17、18)

焼酎といえば、イタリアにはグラッパという、ワインの絞りかすのぶどうを更に蒸留してつくる、いわばイタリア焼酎が各地にある。食後酒として誠に結構なものであるが、どういうわけか日本にはない。

バッサノ・デル・グラッパの街は、その名のごとく地酒のグラッパが名物である。この製造元直営のグラッパ飲み屋が、例のパラディオの木造橋のたもとにあって、地元の人たちで繁盛している。

その酒瓶のラベルには、当然のごとくに木造橋の絵が描かれていて、バッサノ・ブランドを誇っているのであった(写真19)

●次の時代の都市は?

もう一度ひるがえって、日本の都市生活を見よう。

わたしたちの周りには今、価格破壊といって安売りが偉いかのごとき風潮があるが、本当にそうだろうか。それほどにもう貧しいわけはないだろう。安物でよいのなら、なぜ日本の女性はブランド品を外国にまで買いに行くのだろう。本当は高くても質のよいものを求めているのだ。

価格破壊は、環境破壊でもある。大量生産が安価の源だから製造により環境負荷を増大するし、安物だからということで買ったものを大切に使わない風潮は廃棄物を増す一方だ。直接的に見ると、安物販売の店舗群が郊外の道路沿いにつくりだす景観のあまりの醜さも、田園をつぶした立地そのものも、環境破壊そのものである。

そしてそれらの郊外店舗が繁盛することは、とりもなおさず都心部の伝統的な市街地の商店街が崩壊することであり、都市あるいは街という人間がつくりあげてきた文化装置としての環境を破壊するのである。

車があるから、自動車交通の不便な街なかに住むよりも、郊外に住んで車で街なかに通勤し、郊外の道路沿いにある店舗やショッピングセンターに車で買い物に行けばよい。こうして、とめどもなく郊外の田園をつぶして家並が拡散し、バイパス道路沿いには無秩序な汚らしい風景が伸びていく(写真20)

車を運転できない老人たちは、郊外の住まいに居ながらにして姨捨山になる。子供たちも学校から帰ると遊び相手がいない。共同して生きていくという人間が育ててきたコミュニティーは、いまや崩壊する一方である。

これは生産構造の革新と車社会への変革がつくりだしつつある、21世紀への負の構図のひとつである。次の時代が、これでよいはずがない。

では、車社会の便利さに溺れた今の時代の人々は、この道を逃れることはできないのだろうか。

わたしは既成市街地の改良をテーマとして都市計画をやってきた者の立場として、これまでの都市への投資の場所を間違っていると思うのだ。早くいえば、投資をしやすいところに金をいれて、必要な投資すべきところへの投資を後回しにしてきたのだ。

それの最も顕著な例が、バイパス道路つくりに名を借りた郊外開発である。そもそもバイパスとは、従来の都心部に必要のない通過交通を迂回させるための道路であるはずだから、そのバイパス沿道にも市街地をつくったのでは、また新たな交通負荷をその道路に乗せることになって、バイパスの役目をしないことになる。だから次にはバイパスのバイパスをつくることになるという無駄な投資をすることになる。

そしてバイパス沿いの汚い市街地が、伝統的都心部の商店街の活力とその美しいまちなみを崩壊させる。まさに悪貨が良貨を駆逐する典型である(写真21)。

本当はバイパスづくりに投資する金を、伝統的市街地の再生に投入すべきなのである。それをしないのは、土地権利がいろいろ複雑で面倒だからであって、よくいわれるように地価が高いからでは決してない。

●街に暮らす誇りをとりもどす

アメリカ、カナダ、日本などと比べて、ヨーロッパではショッピングセンターの普及の足は遅いのだが、そろそろイタリアでもフランスでもイギリスでも、都市の郊外部に駐車場を十分に備えたショッピングセンターが立地しつつあることが眼に写った。

その意味するところは、郊外への市街地の拡大(住宅と産業の移転)であり、車社会による都市構造の変化であり、伝統的な都心市街地の活力低下である。日本で起きている地方都市の郊外スプロールによる伝統的市街地の低落や、大都市でも起きているインナーシティー問題が、ヨーロッパでも起きつつあるのである(写真22)

この問題の有無について、訪問した各地の都市の行政関係者へ質問してみたのだが、伝統市街地の維持(建物保全、人口定着、商業振興など)が行政課題となっていることが答えられたのであった。

伝統的市街地を維持するにはどうすればよいのか。このたび訪れた各都市はいずれも、その都心部の個性的な姿を保っているようであったが、そこにはハードウェアとソフトウェアの両面にわたる多面的な多くの施策がなされていることを、わたしたちは知らねばならない。

都心部での定住促進策と産業振興策とがあるが、これは都心部を暮らしの場と働く場として環境整備することと、住む人と働く人の都市内誘致であり、表裏一体である。

都市には田舎にない魅力があるのだが、それを町並みの個性と人々との出会いであるとすれば、それぞれの都市の伝統と歴史を個性の源として、アイデンティティの売り物とすることは、日本でも外国でも当然である。ゆえにこそ、パラディオのつくった400年も前の伝統的市街地を、イタリアのヴィツェンツァは誇りにするのである(写真23、24)

イギリスのチェスターでは、車社会での交通のあり方と、古い市街地をまもることを両立させる努力を、パーク・アンド・ライド・システムの採用や、都心居住推進策あるいは歴史的建造物指定保存策、そして子供たちへの実地の歴史教育などによってよって進めていることを知ることができた。その努力があのような美しいまちなみ今日もあらしめているのだ(写真25,26,27)

わたしたちのこれからの都市は、都心部に住みやすい住宅、働きやすい職場、動きやすい道路や鉄道を整備するべきだ。文化施設も市役所も学校も店舗もみんな近くにあり、老人や子供たちのともだちもそばにいる。子育て世代の女性たちも、家の近くに働くところがあれば社会に出る機会が増える。これほど便利なことはないのである。

郊外の安物よりも近くの専門店のよい品物や、街なかの工房の職人がつくる逸品が好まれるだろう。郊外のファミリーレストランの均一化された味よりも、街なかの行きつけのレストランやのれんの奥にこそ味があることも分かるだろう。何よりも多世代にわたる交流が、次の世代を確実に育てるだろう。

●ファッションタウンは青い鳥

わたしはまだ時差ぼけか、いやグラッパに酔っているのかもしれない。イタリアの古い街なかをあるくごとく、曲がりくねった横道に入った思うと、突然に広場に出たりと千鳥足ながら、わたしの考える次の時代の街づくり…ファッションタウンについて報告をしてきたつもりだ。

これまでにも地球を西に東に南にと、いろいろな街を訪ねてきたが、これがファッションタウンだ、という街にはまだ出会っていない。青い鳥はまだ見つからない。21世紀の街づくりの青い鳥を求めて、千鳥足ながらもう少し歩かねばなるまい。だれもまだ見つけていないファッションタウンをもとめて…。 (1995/12/01)

注:小論は、「産業が育て、文化が維持するファッションタウンー海外先進都市調査研究報告書ー」(1996年3月 財団法人日本ファッション協会)に掲載した。