鎌倉新ワークショップ都市論

鎌倉の新しいグランドデザインを描く(36) 鎌倉プラン研究会

鎌倉新ワークショップ都市論

伊達美徳

●鎌倉は工業都市

鎌倉が工業都市であるといえば、不審に思う人が多いだろう。古都というイメージと工業とがむすびつきにくいからだ。

では、鎌倉市でつくっている工業製品は、どれくらいか他都市と比較してみよう。市民1人当りの工業出荷額は約360万円で、これは県平均なみ、藤沢の約半分、川崎の6割、横須賀市とは肩を並べていて、逗子の40倍のレベルにある。

全国でも有数の工業県である神奈川県内でこの地位だから、鎌倉は工業都市としてかなりの力量を持っていると見るべきだ。 静かな住宅都市で、産業といえば観光商業くらい、と思われる古都の鎌倉のイメージは、実は一面にすぎないのである。

この事実は、岡山県の倉敷があの美観地区の一角だけの町とイメージされがちだが、実は水島工業地帯を持つ大工業都市であるということを思い出させる。

ここで大船・深沢・玉縄を新鎌倉地域、鎌倉・腰越を旧鎌倉地域として、工業活動の状況について比べてみよう。

実は、鎌倉市内の全部の工場などでつくる工業製品の出荷する金額のうち、旧鎌倉地域からでた金額の占める割合は、たったの0.5パーセントなのだ。

鎌倉の工業が大船と深沢一帯の新鎌倉に集積していることは感覚的には分っているが、数字にするとこれほどの差がある。

つまり鎌倉は工業都市であるといったが、それは新鎌倉地域が全面的にその役割をになっているのである。

では、市内で働いている人の様子はどうか。鎌倉市内に職場を持っている人のうち、新鎌倉地域で働く人数は、市全体の3分の2を占める。

それには商店で働く人も含むので、工業、研究、事務関係に働く人たちだけにしぼってみると、新鎌倉地域が4分の3も占めている。

いかに新鎌倉が活動力を持っているかがわかる。

●湘南工業地帯

大船から深沢にかけての東海道線沿いの地区に、大規模な工場と研究所が帯状に集まる。

そこは戸塚から藤沢までベルト状に続く柏尾川がつくってきた平地で、明治時代までは、豊かな水田農業地帯であった。

ここの平地に1930年代から海軍工廠(現JR車両工場)、日立、三菱、芝浦、日本タイヤ(現ブリジストン)などの、大企業の軍需工業を主体として工場が立地して、今に操業している。この地域は軍都だった横須賀との関係もつよかった。

戦後の高度成長期から、資生堂や日本冶金(現ナスステンレス)などが進出してきて、湘南工業地帯の様相を見せてくる。 特徴としては、京浜工業地帯のような臨海部立地ではなく市街地内立地であること、大企業が大規模な区画で用地を占めていることであり、鎌倉市内分だけでもゆうに100ヘクタールを越える。

柏尾川といえば氾濫河川として悪名が高い。これはもともと柏尾川の洪水調節機能をもっていた田畑をむやみと埋め立てて工場や住宅地にしたためだ。

洪水のゆきどころがなくなって氾濫するのだから、人間が招いた災害なのである。

そして近年この工業地帯は、製造生産型から研究開発型へとかわりつつある。これは産業構造の全体が変ってきたことに関わるのはもちろんだが、市街地内工業立地としての周辺環境への対応があるだろう。

さらに、湘南地域における良質な労働力の確保策とも関係しているであろうことは、企業戦略として十分考えられることだ

●働く人がいなくなる鎌倉

というわけで、鎌倉には生産や研究などの先端的な職場がかなりの規模で存在していて、海水浴と寺社巡りの観光都市、東京や横浜のベッドタウン、あるいは金持ちの隠居タウンというわけでもないことがはっきりとしてくる。

先端的な職場のある工業都市であり、海と緑の環境に恵まれた住宅都市であり、歴史の名所のある観光都市であれば、鎌倉こそは職・住・遊が一体となっていて、これこそ理想の都市であるぞ…と思うはずだが、では現実の姿はどうだろうか。

鎌倉市の総人口は今は17万人あまりだが、これから次第に減ってゆき、そのなかで老人がどんどん増えて、若い世代が減っていく傾向にある。

このままで行けば21世紀はじめ頃には、市民4人に1人は65歳以上の高齢者ということになりそうだ。特に30歳台から40歳台の働きざかりの世代が少ない。

これでは、市内に働く場はあっても働き手が住んでいない都市になる。働く人は市外から通勤してくる者ばかり、ということになるかもしれない。

現に鎌倉市内に職場のある人のうち、鎌倉市民は4割弱にすぎない。つまり鎌倉で働く人のうちの6割あまりは市外から通勤してきているのだ。

その半面、鎌倉市民の働いている人の職場がどこにあるかというと、市内には半分しかなくて、のこり半分は市外のある職場に通勤している有様である。

職場となるところ、住居となるところ、いずれもおなじ市内に立派なものがありながら、それらが互いに連携していないことがわかる。誠にバランスが悪いのが鎌倉の現実の姿であり、しかも将来に向かっても結構な状況が待ちうけている、というわけでもない。

働いてかせいでくれる市民が減っていくとなると、鎌倉市の税金の収入も当然のとこながら減っていくことになる。その一方で高齢者がふえると、行政として福祉のための支出は増加しなければならない。

子供や若者がいなくなれば、助けあいながら生きてゆくべき地域社会のコミュニティを、維持していくことさえも難しくなるだろう。

●鎌倉に働き手を育てよう

現在の鎌倉の人口構造と就業構造のアンバランスは、直さなければなるまい。

そこで今後の重要な施策は、働き手としての子育て世代女性たちと高齢者たちへの積極的な対応である。

いずれも社会参加の能力も意志も持ちながらも、身の回り的なハンディキャップによってそれを阻害されている状況だ。これを解消すれば、有力な社会戦力になるはずである。

子育て世代の女性たちには、子育てしながら自分の能力を発揮できる社会環境が整っている街があれば、そこに引越してもよいとさえ考えている者も多い。この女性たちが鎌倉にやってくれば、当然その夫である若い世代の男もやってくる。

一方、今の時代で65才をもって老齢というのがはたして正しいか。リタイア元気老人たちは社会への参加意識も高いし、長い人生において蓄積された能力も当然に高い。これを働く人として活かしえないのは、個人的にも社会的にも損失である。

これら女性と高齢者のための社会進出の場と、そのための支援策を鎌倉の街にととのえよう。

●今後も鎌倉は工業都市か

鎌倉の工業統計に現れる工場は、従業員4人以上で約180社ある。

金額だけから見ると、そのうち上から15社ほどで、全体出荷額の3分の2を占めており、その下請け中小企業が多いという構造である。

問題は、この鎌倉工業の構造を、今後とも保つのであろうか、ということである。現在の鎌倉の主要工場は、かならずしも鎌倉に立地しなければならない業種ではないことである。

つまり、いつの日か地価も労働力ももっと安いところ、海外にさえに移転することは、企業の論理として目に見えている。

現に、大船や深沢にある大きな工場が移転して、その跡地が研究所や住宅地になったりしているところが出てきている。

これでは働き手を育てても、働くところがなくなるおそれがあるのだ。

●鎌倉ブランド産業

鎌倉工業にはこれまでのべてこなかった重要なことがある。実は、工業統計に現れない3人以下の事業所が100余りもあり、それらが鎌倉工業の特徴をつくっているのだ。

例えば鎌倉彫の工房はほとんど3人以下だろう。家具や建具をつくる小さな工場兼店舗も多いことも鎌倉工業の特徴だし、農・漁業も鎌倉固有の産業だ。

これらは鎌倉に根づいている工業であり、市外や海外になど移転できるものではない。

ここで、このような鎌倉に根をおろしている大小いろいろな「ものづくり産業」を見ると、日本最初といわれるハム製造、漁業とそれに関連する海産物加工業、鎌倉銘菓、鎌倉彫などがあげられる。

これらは鎌倉というブランドを持っており、鎌倉でなくてはなりたたない。

全国的に有名な鎌倉ブランド工業は、なんといっても松竹大船撮影所だろう。最近はフィルムという物品にのせるよりも、電波という空中メディアにのせる情報伝達力に負けているのが残念だが、れっきとした鎌倉の地域産業となったからこそ、鎌倉シネマワールドとして市民に開放された新地域産業として継承しうるのである。

共通する特色としては、市民の生活に直結する物をつくっていて、市民がこれらの産業をよく知っており、鎌倉の産業として支持していることである。

地域の人々に支えられる産業、地域に密着している産業は、産業の空洞化が進んでいる時代の波を越えて、その姿を徐々に変えながらも生きのこってゆくものである。

●新ワークショップ都市へ

人間はいまだに衣食住という物がなければ生きられないし、これからもずーっとそうであることは、子供でも知っている。

今や私たちのまわりでは物はありあまるほどになって、衣食住の基本は満たされている。これからは、それらを彩る付加価値のあるものが望まれる時代になっている。

これを生活文化の時代と言おう。例えば衣服がファッションとなり、飲食がグルメといわれ、住家がマンションと名づけられるようになったことがそれを雄弁に物語っている。

鎌倉に根をおろす新たな「ものづくり産業」として、鎌倉らしさをもった生活文化産業を起こす時代であるといえる。

それは鎌倉彫や焼き物をもととする伝統クラフトの新生かもしれない。相模湾の漁業や玉縄の農業をもととする健康グルメ産業もある。先端ハイテク産業から誕生するソフトウェアづくりもあるし、鎌倉ファッションというような服飾デザインも生まれるかもしれない。古社寺の多い鎌倉には建築や美術の職人も育っているだろう。

それらは定住人(市民)が、その定住の場と密接な関係を保ちながら、自らものづくりにたずさわるのである。少量多品種生産型の付加価値の高いものづくりである。

その販路は、定住人と交流人(観光客、ビジネス客)である。鎌倉ブランドが有名になれば、全国から需要が起きるだろう。社会一般に顔の見えるものづくり産業の創造と、その産業が生きる生活圏との連携に重要性がある。

この新しい都市産業を支える人たちこそ、生活圏を職場に持ちたい人たち、つまり子育て女性であり元気高齢者なのである。

このような鎌倉の21世紀の産業と生活の構図を、「新ワークショップ都市」と名づける。ワークショップとは、もともとは「仕事場」といういう意味であるが、近頃はなにかのテーマに関心のある人たちが集まって、一緒にものごとを考え、作る作業をいうようにもなっている。

買う人と作る人が参加する仕事場があるまち、それが新ワークショップ都市である。

この論では女性と高齢者の社会進出の場として、新しい鎌倉産業づくりを提案した。また別の機会にそのための支援システムを提案したい。(960304)

注:小論は、 19964月及び5月に「鎌倉朝日」に掲載したものに、一部手を加えた。(020101)