景観再考・都市と建築の狭間から

景観再考

都市と建築の狭間から

伊達美徳

(1992年3月2日~19日 日刊建設通信新聞掲載)

目次

1.景観の概念

2.緑の生態的景観

3.緑の文化史的景観

4.景観計画流行の背景

5.土木と景観

6.歴史の景観

7.建築と景観

8.街並みの景観

9.鉄道と道路の高架の景観

10.川の民俗的景観

1.景観の概念

「景観」の基本的な意味が分からないままに「景観計画」が流行の時代であるが、ここでその検証をしてみよう。

日本語の景観に対応する外国語は、Landscape(英)、Landschaft(独)、Paysage(仏)というが、どれぞれに国情の違いが内容の違いになっている。ところが日本の「景観」にかんしては、造園学、地理学、生態学あるいは文学や哲学等の各分野で、それぞれに異なって用いられてきている経緯がある。

そして関連する一連の日本の言葉として、景域、風景、風土、景色、風致、美観等があげられ、これらが更に景観の意義の解釈を複雑にしている。

このあたりのことは、すでに20年も前に佐藤昌氏が紹介・整理(『自然保護と緑地保全』(1973)されているので、詳しくはそちらを参照されることを期待して、その後の展開も含めてここであらためて景観の概念について整理しておきたい。

景観の概念について、最もながい研究の歴史を経ているのはドイツであり、いまでは「ランドシャフト」とは、ある特定の空間的な広がりを切り取ったときに、その中にある事象の有機的な秩序概念であり、それは時間的な変化も含むとしている。これはすぐれて生態的な概念としているといえよう。

いいかえると、景観とは領域的な広がりがあり、そこに内包される具体的事象の認識があり、それらが時間的に変化し、しかも個々の具体的事物の相互間および地域相互間には機能的な力が働くという関係をとらえて、事物ー空間ー時間のシステムと見る立場である。「景域」という用語は、これに井手久登氏(1971)があてたものである。私自身は景観の意義として、この概念がもっとも適切であると考えている。

英語の「ランドケープ」は、わが国ににて、景観あるいは風景というように多様な概念を含むようである。

日本では一般的には、目で見える物的状況を景観という風潮が強いが、上のドイツ語のように更に深い意義をもっている。そこで日本語の検証であるが、「風土」は和辻哲郎による解釈は哲学的であり、自然科学的にはどうかといわれるところもあるが、基本的にはランドシャフトと同じであるといえよう。

「歴史的風土保全法」にいう風土も、これに通じている。

「風景」については、内田芳明氏は、風景にはその中に「情」がひそんでいる、つまり「風情」と「情景」の合体であるといわれる。かつて「日本風景論」の志賀重昂がわが国の自然の美しさから愛国心へと展開したように、風景は心理的な美への評価を持っている。その点では「風致」はこれに近いといえる。 ところで、地理学の中村和男氏の景観論が、簡明にして的をえているので引用紹介する。

(景観とは)「常に同時に存在して互いに関連しあっている事物をワンセットとしてとらえることで、ある橋だけを取り上げて橋梁景観と呼ぶのはどんなものだろうか。橋は(中略)景観要素であっても景観ではない。川や交通網、集落などとの関係でとらえなければならない。(中略)そのワンセットの諸事象が占める特有の形態を持った一定の空間をさす」(『地域・景地・景観』(1980)

このように、景観の概念は単一ではないが、ランドスケープという言葉が表面的にとられて、目で見える物的状況、とのみ往々にして解されがちだが、それは景観の一面にすぎないのである。地域社会は異物も取込みつつ歴史的な時間の中で成長していき、景観はその生態的な動態においてこそ意義を持っている。

すなわち、景観とは目に見える景色と同時に、それを支えている生態、人文、経済等の行為・活動と一体のものとして認識する必要がある。

そこで、「良好な景観」とは、「人間の行為と自然の現象とについて、それぞれの中での関係及び相互の関係を良好に保っているありさま」をいうこととしたい。

景観計画とは、そのような状況を作り出すあるいは保つための計画であり、言わば「関係の計画」である。このような基本的な立脚点に立つこととしたとき、これは生態学的な視点を汎用すれば人と自然あるいは自然と自然の良好な関係については、ある秩序概念を見出しやすい。

例えば植物相互の関係では植物生態学によって植生秩序が明確にされており、人と自然の関係については複雑ながらも生態環境と言う面での秩序がある。

しかし人と人との関係において登場する都市景観となると、複雑をきわめることになる。そこで中村良夫氏は「お作法」という言葉で「礼」を持ち出して景観を語られるのである。それは、人と人との関係の中で営まれる都市空間が、多様な価値感を持って活動している多くの人々や企業のもとで、常に変り展開していく都市機能への要請を満たしつつも、都市の生活者にとっての互いに生きる場となり得るための秩序概念である。

このように景観を、生態学的立場に続いて人と人の作法秩序として、都市空間にはめこむと、都市景観形成計画は、「都市が育ててきた街の文脈に従いつつ、それぞれの場所の持っている特色(場所性)を見分けることができる都市空間の実現をめざす方策」となる。これは「しかるべき所に、しかるべきものがきちんとある」という「アメニティ」へのプランとなるのである。

景観形成は都市のアメニティーを作り出すものであるとすると、単に物を作るというハード面だけでなく、経済、文化あるいは生活というソフト面と一体となって進んでいくものである。

こうして、景観とは環境の別の言い方であると分ったのであり、景観形成とは環境整備であり、まちづくりそのものであると知れるのである。

いいかえれば、これまでのまちづくりに、生態的あるいはお作法的な概念が欠けていたのである。

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2.緑の生態的景観

「緑」という言葉で私たちは、植物のいろいろな様相を頭に浮かべることができる。私たちの住むこの国土は緑の島であることは、外国旅行から帰ってくるとよくわかる。

緑を守れという開発反対運動はいまや全国日常的であるが、裏からいえばそれほどにわが国は緑の島なのである。

ところで、なぜ松茸が私たちの口に入りにくくなったか、ご存じだろうか。話題が突然変ったように思われるだろうが、日本の緑景観を語るとき、これは重要な示唆を含んでいるのである。

もちろん直接の原因は、松林がなくなったことにあるのはあたりまえだが、ではなぜ松林がなくなったか。排気ガスで空気が汚れたから、マツクイムシが繁殖したから、という一義的な理由もたしかにある。

だが実は、エネルギー革命がもたらした植物遷移の故なのである。私たちが地球の表面からエネルギーを得ることをやめて、地球の底から燃料を掘り出したことが原因である。

「むかしむかし、おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に…」いまからつい30年ほど前にはまだ日本の所々に、このような自然と共存する暮しがあった。それまでは、山から私たちはエネルギーを得ていたのだ。

里山とよばれる裏山から、雑木、下ばえ、枯れ葉を刈り取ってきて、焚きつけ薪にして、煮炊きをし暖をとって暮らしていた。その頃の山林には人間の手が絶えず入って、山の側からみれば土地を肥やすべき栄養を収奪されて、痩せていたので、そのような土地に対応する松が優先種であったのだ。

松林は、土地に養分が豊かなところでは、他の植物に負けて育たない。痩せたところが彼らの世界なのであり、そこには松茸も当然のパートナーとして登場する。

ところが今やどんな田舎にいっても、プロパンガスが普及して、山林から薪を取る風景はなくなった。枯れ葉がたまり土地は肥えて下ばえの常緑樹が育てば、もう松は追われるばかりとなって、いまやマツの林はアラカシやシラカシの優先する、冬も緑の植生の群落へとかわりつつある。

これは植生遷移と言われる自然の摂理なのである。今私たちの見る緑の景観は、決してそのままの自然ではないのであって、人間を含む動物と植物とが出会うことによって、変えられてきているものである。

ここで私が言いたいことは、景観とは目で見えることだけをいう言葉ではなく、その見えがか

りを支えている風土、生活、経済、社会等を単なる背景としてではなく、景観の定義の中に含めてこそ、景観という言葉が成り立つということである。

緑を守るいう行為は、いまでは社会運動的な様相を呈しており、行政も公園づくりにはりきることになる。ところが最近の注目すべき現象として、緑には大賛成だが公園づくりには反対する運動が出ている。

行政が山林や田畑を買いとって、せっかくの緑だから積極的に公園に整備して、市民が喜んで遊びに来てくれるようにしようとすると、市民から今のままの緑でよい、よけいな手を入れてくれるな、と言う声が出るのである。

私は今、わが国の公園づくりに転機がきていると思うのである。緑を守れという運動、公園を作れという声に応える行政の施策に、いま緑の質を問われているのだ。あれもこれもと木を植え、園路をつくり、芝を敷きつめ、遊具をそろえることに疑問がなげかけられている。

これまではなにがなんでも緑というわけで、量的にも質的にも劣るゴルフ場の芝さえも緑の範疇であったが、いまでは農薬問題を契機にやりだまにあがる時代である。

造園関係の本に、道路植栽の樹種選定の基準が載っていた。そこには葉張りやら花やらいろいろ書いてある中に、排気ガスや踏み付けに強くて枯れないいもの、ということが強調してあった。

もし公害に強いことをもってその樹木を植えるのならば、共存者である人間が死んでも並木は生き残るということを目指しているのだろうか。なによりも公害を認知しているようで、気分を害するのだが、植物も生き物であるのだから、その公害を喜ぶわけはあるまい。その土地、風土に最も適した植物を選定して植える。そしてそれが枯れるようならば、人間も危ないのである。

農林業の世界から来た、生産と保養の場として緑を見る視点が問われている。このような生態的な立場からの論に対して、「手を入れない緑は荒れる」という反論がある。荒れる、の意味をどの様に取るかが議論の分れ目になる。

山林を生産の場あるいはレクリエーションの場としてとらえると、畑や庭が手入れを怠ると荒れるという意味で、売れる柱になる木は曲り、下生えが茂って入って遊びにくくなくなるから、これはたしかに荒れると言える。

しかし、緑には生産や休養の場という人間の側の都合だけの世界だけではなく、植物の世界は私たちの動物界と一体となった生存環境としての植生を見なければならない。

かれらはその土地のポテンシャルに合わせて人間と共に生きているのである。その風景こそが真の緑の景観の基本なのである。

炭素同化作用、食物連鎖、気候調整等の生態レベルで緑を見るとき、生物社会の仲間として緑には緑の生き方があることを、総合的に環境としてとらえる必要がある。

本当の自然の緑が茂る場と共存してこそ人間があると思うとき、人間がそれを「荒れる」と表現するのは、あまりにも不遜であろう。

身近な鉢植えの緑から昼なお暗い森までの間に、いくつかの段階があって、その段階に応じた緑とのつきあいかた、共生のありかたが必要である。

庭の緑も山の緑も、いっしょくたにすることはやめなければならない。

それからもうひとつ、ヨーロッパの芝生景観がわが国の緑の景観出はないことも知る必要がある。シュミットヒューゼンなどの西欧の植生学者の書いた本には、日本は南洋に分類してある。それくらいに西欧ととわが国はもともと生態的に違いがあることを、みんなが知っておいてもいいだろう。

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3.緑の文化史的景観

かつて日本の政治構造の中核を貫くシンボル道路としてつくられたいくつかの道があった。いまのシンボル道路といわれる道が、都市のコミュニティーのシンボルとなる空間としてとらえられる様に、封建都市あるいは古代都城の支配権力に対応するシンボルとなる道があった。

古代は平安京の朱雀大路、中世は鎌倉の若宮大路、近世では日光杉並木、近代では明治神宮の表参道がそれぞれ代表としてあげられるだろう。これらに特徴的なことは、いずれもその道が沿道利用を拒否または制限していることである。それは現代の高速道路に似ているといえる。

朱雀大路は平安京の都の中心軸であり、右京は唐の長安、左京は洛陽にそれぞれ擬せられるように、この道は京を分割する空間であった。この道に向っては特別の高官の屋敷だけが門を構えることを許されていた。後の若宮大路には幕府だけが門を構えていたのと同様であろう(ただし面白いことに、若宮大路ではもう一か所だけ遊び女のいる宿が門を開けていたとある)。

右京の衰退が早くからおこって、朱雀大路そのものが京の西の境界帯になってしまう。今昔物語やそこから題材をとった芥川龍之介の小説「羅生門」にあるように、荒れはてた大路の南端にある羅生門に鬼が棲みついたり死体の捨て場になって、道の機能は失われてしまうのであったが、現代ではただの街なかの道路になってしまった。

若宮大路は、中世の政治中心都市鎌倉のシンボル道路である。中世の支配者、源頼朝が自ら采配をふるって築造したと、幕府の正史である「吾妻鏡」に記されている。朱雀大路の幅八四メートルには及ばないが、40乃至60メートルといわれる幅員は、今でも狭い鎌倉の街中では異様なスケールといえよう。

北に鶴岡八幡宮、南に由比が浜の相模湾、この間約一、八キロメートルをまっしぐらに駆け抜けている。頼朝の眼には天下に号令すべく京の都へ、その象徴たる朱雀大路にこの道は続いていたであろう。そのためには、いやがうえにもシンボル性は強調されねばならない。この京の都への秩序空間は、鎌倉の狭い街の空間秩序から切り離されなければならなかった。

アウトスケール、直進性、中心性、両端のシンボル、鳥居、段葛、沿道利用制限等、いずれをとってもその象徴性を高める仕掛けであり、街とは別格の秩序があたえられている。 中世の鎌倉は政治中心都市としてかなりの過密都市であり、幕府の禁令に道に店や家を張出すな、道で相撲等して遊ぶな、道にごみや死体を捨てるな、という内容のものが度々見られるように、道は盛んなる都市の活力の空間であった。

だが、若宮大路は両サイドは土手状に盛りあがっており、ここに入るための横からの道も限定されたいた。

この道の両側に昭和初期までは松並木が、道を覆うばかりの密度で植えられていた。この松並木が鎌倉時代からのものかどうかは分らないが、江戸時代にはあったとみられる。その並木の列こそは、大路を沿道から分離する装置であるといえよう。

もしも松並木が鎌倉時代の当時もあったとすれば、ここは都市の生活空間から切離され、松並木はその分離のための塀にかわるものであったにちがいない。そこでの緑の意味は、決して憩いとか潤いのためのものというものでない。

この道に象徴性を与えるための演出であり、権力の景観を形成するものであった。沿道の家にとっては多分邪魔な代物であったろう。

同様な道として、近世の徳川政権のシンボル空間となった日光東照宮への杉並木の街道がある。

一時切倒されようとした事件で有名になった日光太郎杉と呼ばれる巨木から東にむけて始まる街道は、亭々とした杉並木の密閉空間をトンネル状に形成して、近年のモータリゼーションのなかで保存の困難さをもちながらも、その緑の景観は見事なものである。

江戸の幕府からの御成道の日光街道、京の朝廷からの例幣使街道という近世の二大権力の支配中心地と、その世界の創始者である徳川家康の日光廟とを結ぶ道は、何故に杉の並木であっったのだろうか。

権力支配の空間を結ぶべき象徴として、杉並木の外に広がる田園風景とは画然たる別個の空間を持つことが必要であったことは想像に難くない。周囲と同質あるいは連続する空間であってはならないのである。

杉はその幹の直ぐなることと常緑の四季を通じての密閉性で、象徴空間を形成するにはまことに格好の材料である。空中からこの道をみても、そのまわりの田園の開放空間とは明らかに異質である。まわりの田園にとっては日陰や枝落ちで迷惑な代物であるに違いない。

ここにも緑の意味は、緑によせる現代人の心情とは全く異なった次元がある。それは高速道路や鉄道と同様に、その空間と機能を他から侵されないように保全する塀や柵に他ならない。

明治神宮の表参道は、幅員36メートル、長さ約1100メートルの一直線で、美しいけやきの並木が覆う道である。この道は明治神宮が1920年に完成するのにあわせてつくられた、明治中央政府の権力のシンボル道路である。

その形と築造の動機は、中世鎌倉の若宮大路と大きな違いはないし、緑のなせる意味も同様であろうが、片方が尻切れとんぼで、ややあいまいさを残しているのは時代の違いか。 そこが今、何やら怪しげな若者の奇妙な踊りの河原者の世界になり、そして竹下通りのような市場を従えるのを見ると、沿道からの無縁の道はやはり境の空間、公界の場としてアジール性を持っていると知れるのである。

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4.景観計画流行の背景

このところあちこちの自治体では都市景観形成計画、公団公社や民間デベロッパーでもなにか開発するといえば、景観に配慮したことが売り物である。

しばしば見られるものは単に建築のデザインを一生懸命にしました、というもので、地域の景観にはマイナスのようなものもあって、景観という言葉だけが歩いていて、その本質はどうもわかっていない。

その様な流行現象のおきている、都市社会一般的な背景を見ておくことにする。

ここで「都市」を近代以降の概念としてとらえると、それは先ず働く場として出発し、都市の拡大とともに単に労働の場のみでなく生活の場として考えられるようになった。

そしてこの両面性は、わが国の近代化の中での矛盾をそのままに抱いたまま現代に持込まれてきた。職住の近接、分離の課題は、土地利用の混合、純化の課題として、近代都市計画の端緒を拓いた「東京市区改正計画」百年を経た現在も解決していない。

もちろん、この百年に多くの都市基盤がつくられ、今では世界の経済大国として巨大な社会投資もされていきている。同時に、近代化のもたらした利便性や清潔さの反面、失った遺産も大きいのではないかと、近代都市計画への反省もでている。

都市はそれをそこまで育てた多くの蓄積の上に存在しており、そしてそれらはそれなりの深い理由を持っていて簡単には否定できないものであるという基本的な立脚点に立ちながらも、都市近代化への反省は、次のようにまとめられるだろう。

第1には、工学的技術の過信への反省である。ひとつの都市的課題を工学的な技術力で解決したとしても、それが次の課題を呼び込むことになり、またその技術自体も永遠性を持っていない。そこにソフトな技術の可能性あるいは技術以前への問題提起がされている。

第2には、物理的なストックをのみ求めることへの反省である。都市を作ることはハードウェアつくりであることも事実だが、それだけではなくソフトウェアとしてのストックが必要とされる。

第3には、西欧型の階級社会的な都市像への反省である。明治以来、西欧の都市を形態として模倣することをめざし土地利用と社会構成の純粋化を図ろうとしてきた。しかし、日本的な、あるいは東洋的な都市にとっての、混合あるいは複合のもつ意味の大きさが見直されるようになっている。

これらの論点は、ひとり都市景観だけのレベルの問題ではないが、都市景観に基本的に関わることがらであり、なにゆえに都市景観をとりあげるかの原点となる。

都市社会的なレベルにおいても個人の生活のレベルにおいても、豊かさの時代であることが人々の共通の実感として定着してきた。

フローの追及からストックの充実へと視点が移り変わるにつれ都市空間の公共性への認識が高まり、そして個々人が多様な価値基準の意識を持つようになるとともに、都市空間の人間をとりまく環境としての質的な水準や総体的な快適性が問われている。

例えば東京下町では、江戸時代から震災、戦災、水害等の度重なる災害を克服してまちづくりは営々と行われてきた。

そして、大都市東京の中で、働くところ、住むところ、そして憩うところ、という三つの機能が調和する特色あるゾーンを形成してきたのであった。

だが、一方で多くの都市問題を抱えていることも事実である。

地価の高騰は地上げ型開発をよびこみ、加えて、密集市街地の老朽化建造物群がひきおこす防災問題の解決策として、建替え、マンション化が選択される。

再開発で一新された街区は、それまで都市が抱えていた問題を一挙に解決するかに見えるが、それが地域コミュニティへの配慮を欠いたものであるときには、やがて地縁に支えられてきた地域コミュニティも地域文化をも壊すことにつながる恐れが大きい。

流通構造の変化や人口の減少・高齢化は、下町を支えてきた地域産業の停滞や撤退をもたらしつつある。それらの大規模跡地の巨大開発が都市構造を大きく変え、またはミニ開発の乱立を招き、都市環境問題を引き起こす。

産業が出ていって働く人がいなくなれば街も賑わいが無くなり、若者の少ない街はどこか活気も欠ける。いまや街は生き残り戦略を持たなければならない時代ともいわれる。その戦略として街に魅力を持たせようとする戦術のひとつとして景観形成が流行する。

こうして都市の構造が大きく変わりつつある現況の中で、下町では住商工の「混在」から「調和」への誘導、「定住化」の推進、「個性を生かす」まちづくりが重要な課題となっている。

そのためには、まず、住民がわが街への愛着を持ち、誇りとすることのできるまちづくりを進めることが重要である。

さらに、街のイメージを高めることにより都市の活性化を図ることが今後の都市経営に方向づけられている。また、都市イメージの向上およびそれをより強いインパクトを以て広く伝えることにより、企業誘致や来街者を呼び込むことも期待できる。

こうして産業・文化の活性化および水準の向上を図るとともに、国際化都市へ向けての方向性を探ろうとするものである。

都市景観形成とはそのような都市のはたらきが、心にも目にも快適に訴えるものとして構成されることである。

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5.土木と景観

日光杉並木の街道は、近世の美しい土木の構築物といえよう。この街道の並木の管理は、五街道は幕府の直轄であり、脇街道は各藩で行っていた。そして街道並木の両外側には、街道幅に応じて幅員のきまった免租地があったという。その幅は例えば幅6間の五街道の場合は並木から20間の幅であった。

これは一種の迷惑料とでもいうのであろうが、高速道路の環境施設帯の幅(路肩から20メートル)と比較してはいかがであろうか。

大阪御堂筋の有名な公孫樹並木はどうか。幅員44メートルの見事なイチョウのブールバールは、商都大阪のシンボル道路であることは間違いないが、その由来、出来あがりの仕掛けが今まで述べた道とは大いに異なる。

1937年に当時の市長関一は、沿道地域から工事賦課金をとって作るという、まさに大阪らしい実業の世界に道を最初からとり込むつくり方である。こうすれば道は沿道の市民と共に育てられることになり、沿道無縁とは正反対であり、事実その後、名実・形質共に大阪のシンボルになりえた現代の道となった。

このところ、道路の緑化が街にうるおいをあたえるとして、まちづくりのメニューに必ず登場して、なにやら箱庭のごときものが道端に登場したりすることが多い。そして都市内の高架道路にも同様に緑化推進策があり、高架下の日光は当たらず雨も降らない所に、何やら日本庭園らしき植込みやら水流が作られていることもある。それは土木の巨大スケールの柱と柱の間に、ちまちまとしてどうも居心地わるげである。

ところで、サンフランシスコの一部では景観上の視点から高速道路の取壊しも論にあがっているという。近年は盛んになりつつあるアメリカにウォーターフロント開発で、多くの都市で起ったことは港湾流通動脈として設けられていた高架道路の景観的な問題であるというのだ。

ひとびとを水際に楽しくアクセスさせるに、街と港の間の高架道路が遮蔽物となっているのである。シアトル、サンフランシスコ、ボストン、ニューヨーク、トロント等いずれの都市もこの悩みをもっている。もちろん、高架であるから動線を遮るものではないが、景観的な連続性を断たれるため、心理的にアクセスを拒む形になるのである。

これ等の高架道路は当初は港湾流通になければならない機能であったので、あとから機能が変わったときの条件で邪魔もの扱いされるのは、高架道にとっては迷惑かもしれないが、地域の秩序と高架道の関係を、景観の問題として教えてくれる格好の反面教師となるものである。

最近、東京の首都高速道路も居心地をなんとか良くしたいらしく、盛んにお化粧を始めている。他の都市はよく知らないが同様だろう。渋谷駅をまたいでいるディビダーク工法の力強い構造体が、石目地ときらきら光る銀紙のようなもので厚化粧したのを見て、どうも奇妙な感を禁じえない。

デザイン博に間に合わせて一生懸命デザインしたらしい名古屋の高速道路も、同様に遠目と近目に奇妙なギャップがある。

最近はさらに河川も、堤防や中洲あるいは廃川敷に、これまたやりすぎの枯山水やら風呂屋まがいのタイル張の意匠を施すのである。多摩川の兵庫島、王子の石神井川、墨田区の大横川等のことをいっている。

橋も同様で、構造本体とは何の関係もなく、突然に火を吹く欄干やら、和風の四阿が登場したり、近接していくつもある橋にいろいろデザインを取り揃えて混乱したりとか、いろいろである。どこかのトンネルの入り口が、コンクリートの花が咲いていたり、遊園地のゲートのようなのもあった。

伊東孝氏は、やっと土木の世界もデザインに目が向いてきたのだから、もう少し優しく見るように、とおっしゃるのだが、たしかにやらないよりはマシかも知れないが、やり過ぎても間違ってやるのも困りものである。

どうも突然の成金の習い事のように、作法がなっていないことが多い。景観とはいわば作法のことであるとは、中村良夫氏の言葉である。

景観の構成には、遠景から始まって、中景、近景、そしてさらに近くは接景、触景と段階的なグラデーションをもって成り立っている。それは秩序といってもよい。

ところが、最近の(昔からそうだが)高速道路の景観デザインといわれる所作には、この中景の全部と近景の前半分あたりが欠け落ちて、遠景からいきなり接景へと到達する唐突さがある。

景観デザインとは、厚化粧するかアクセサリーをつけることと思っているらしいとしか見えないものが多い。秩序感覚を取り入れてほしいものである。

土木のデザインはどの様な人たちが、どの様な教育を受けて、どの様な設計体制で行われているのか私はよく知らないので、見当違いがあるかもしれないが、建築設計のような、構造、意匠、設備、造園等の横断的なプロジェクトチーム型の設計システムであろうか。少なくとも造園や建築の世界と土木設計との連携は必要であろう。

かつて関東大震災復興事業で、橋梁の設計に土木の技術者と共に建築家の山田守を起用し、その下には山口文象がいて、さらにその設計の手として創宇社の若い建築家たちがタッチしたのであった。いくつものパースを描き、照明、欄干、親柱等の設計にたずさわている。山口たちの地位は必ずしも高くはなかったと思われるのだが、田中豊以下のデザインにかける意気込みと体制が実に好もしいのだ。

構造がまずあって、デザインとはそれを飾るものとしているうちは、土木には景観デザインはない。

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6.歴史の景観

●都市から歴史が消える

都市から歴史的建造物が消えつつある。東京都発行の都市白書(1991年)によれば、東京都心五区(千代田、中央、港、新宿、台東)にあった歴史的な建造物として、日本建築学会「日本近代建築総覧」に1980年にリストアップされたものは1071棟であった。ところが90年には417棟になって6割以上がなくなった。

さて、ここでは東京駅の丸ノ内口にある赤れんがの駅舎をとりあげよう。

東京駅とその周辺の土地を再開発して、東京都心の諸活動の需要に対応する施設を設けて高度有効利用を図るとする国の調査は、一応の結論をみて次の実務的な計画に向かっての検討に入ろうとしている。

対象としている範囲はJR2者の所有する東京駅そのものと、丸ノ内側及び八重洲側の駅用地に隣接する国鉄清算事業団用地、東京中央郵便局及び一部民有地を含んでいる。

発表された方針の中で画期的なことは、明治の意匠を残す赤レンガの丸ノ内本屋を「形態保全する」とした結論である。

開発と保全との調和を目指した概念が、公にうたわれた点が評価されるものである。ようやくに再開発の論理のなかに、保全の論理が登場してくる時代となったのである。

●三菱ガ原から一丁ロンドンへ

ここで丸の内から東京駅にかけての変遷を簡単にみよう。

東京駅を中心に丸ノ内の経緯を追うならば、その近代の出発点は1877年(明治10)に明治天皇が江戸城に移り、皇居となった時点となろう。この時から丸ノ内地区は江戸と訣別して日本の近代化都市へと歩み始めた。

1888年に東京市区改正条例が発布されて、丸ノ内地区は商業街区として位置づけられ、中央停車場の設置も決り、2年後の1890年に三菱社に一帯が払下げされた。

三菱はこの時既に、ロンドンのロンバードストリートのような街づくりをするというマスタープランをいだいており、今日の都心形成の基本はこの時に定まったと言えよう。

1890年に三菱ガ原の南に接する位置に東京府庁舎ができ、1899年には記念すべき三菱1号館が完成した。草ぼうぼうの野原は南から北に向かって順に開発が進められ、1911年にはいわゆる一丁ロンドンが出現した。

●中央停車場・東京駅の誕生

一方、東京駅は1890年に計画は決定していたが、日清・日露両戦争で財政事情が許さず伸び伸びになっていて、辰野金吾がその設計に着手したのは1906年であった。この年に辰野の代表作である日本銀行本店が竣工している。

1914年12月にようやくにして東京駅は開業となり、わが国の中央駅としての出発をしたのであった。その中央駅としての役割を負うために、この駅舎は駅としての単に交通機能が果せればよいとする建築であるわけにはいかなかった。

当時の鉄道院総裁の後藤新平からもできるだけ大きくという指示がでたり、その意匠も日本近代化のシンボルたらんとする意気込みをもって、いわゆる辰野式ルネサンス様式となる。

しかし、基本は駅舎であることにあるのでプランは単純極まるものであって、4か所の通り抜けできる巨大なゲートである。この単純さと巨大さの故に、その後80年間近くを存続でき得て来たのであろう。

●近代日本の都市景観形成

東京駅はその華麗さをもって世間1般からは歓迎されて登場をした。オープニングは第1次世界大戦の好景気のなかで一大イベントであった。

しかし、専門家の間では必ずしも評価が高いとは言えない論調が当時の出版物に見られる。機能的な点では、停車場そのものの位置への都市計画的な疑問、出口と入口が南北に分断されているプラン、当時の繁華街である京橋・日本橋の側(今の八重洲側)に出入り口がないという二重の不便さを指摘されている。

また意匠的には、辰野も悩んだとみられるがその余りにも長大さをバランスよく納めることに果たして成功しているかについて異論があった。

だが、これをもって東京駅が価値を減ずるとするものではない。いつの世でも話題作を素直にほめる専門家は少ないものであることは、新都庁舎の例に見るごとくである。

当時の丸ノ内は南の一丁ロンドンの外はまだ野原であり、そこに立つ、というより横たわる東京駅は確かに異様な光景であったに違いない。だが、あえて江戸の旧市街に背を向けても皇居に向かい合う姿勢をとることに近代化のシンボルとしての意義があった。

駅前から皇居に至る行幸道路と呼ばれたブールバールは、市区改正道路の1等1類20間幅の2倍の40間の幅員を持つ特別な広さである。この道の堀端に海上ビル(1917) と郵船ビル(1923) がゲートをつくれば、その道の両エンドに位置する国家的象徴空間と合せて、ここに明治日本の近代化の都市景観ができあがった。

●関東大震災と丸ノ内の発展

1923年の関東大震災が丸ノ内の本格的発展に力を貸したことになる。東京駅も丸ノ内のオフィスビルの多くも無事であった。アメリカ技術をとりいれた竣工直後の丸ビルは大被害を受け、2年後にやっと復旧完成、そして40間道路も内堀をこえての宮城内まで開通し、丸ノ内は近代日本から現代日本に足をふみいれた。

それまでの東京の都心であった日本橋や銀座から移転してくる企業も数多くなり、1928年には中央郵便局が完成して情報中心性を高める。

日本橋から銀座へ、そして日比谷から丸ノ内へと右まわりに都心は動いて、日本のビジネスセンターとして名も実も形もそなわって、三菱の意図したロンバード街を越える近代的街づくりは成功した。

●姿の変った東京駅

丸ビルとならんで駅前の景観を整える新丸ビルも着工するのだが、時代は暗く展開して戦争により基礎工事でストップさせられ、そのまま防火用水になって戦後になるのであった。

太平洋戦争は1945年に丸ノ内にも空襲による大被害をもたらした。東京駅は屋根が抜けて焼けおち、無残な鉄骨をさらしたのであった。

だが場所が場所だけに、戦後の物不足じだいでも大急ぎに焼けたその年にはもう修復されたのであった。その姿は、南北にあった丸いドームは中央と同様の寄棟形になり、ドームとドームを結ぶ三階建の部分は上部1層を削って2階建になった。屋根の鉄骨は木造に、銅板ふきはスレートに変わる。デコレイティブなインテリアは復元すべくもないが、その巨大なスペースだけは残った。

しかしながら、3階建てを2階建てにしても屋根が変っても、その後半世紀近くもの間をなんとかしのいで来ることができた程に、後藤新平の巨大スペースは先見の明あるものであった。逆説的にいえば、東京駅の建築としての戦後の不幸は、この応急的復旧に耐えて生き長らえてきたことにあるのかもしれない。

●丸ノ内美観論争

戦後の丸ノ内はまたもや日本のビジネスセンターとしての活気をとりもどして発展していくが、技術革新が新しいオフィス時代の到来を告げる。

1966年に東京海上ビルの超高層建築への建て替えが持ち上がり、これを機に建築行政側と建築業界側との間に一大問題が持上がった。一般に「丸ノ内美観論争」といわれる“事件”である。

旧市街地建築物法と旧建築基準法による31メートル(100尺)の軒高のスカイラインと、明治日本の近代化の象徴である様式建築とが、丸ノ内地区の特色ある都市景観を形成していた。その景観はこの建て替えによって大きく崩れることを意味するものであり、政治、行政、業界、建築家、文化人を含めて論争となった。

行政と政治の側は丸ノ内の景観を現在の形による方向に求めて、美観地区条例で対処しよ

うとした。この美観派の声は、今いうところの保存という次元ではなく、皇居という特別な環境を中心とする周辺の都市景観形成として、ボリューム論、高さ論であった。

その裏には政治的、経済的な意図が働く面があって、いかにも保守派の論という様相を呈した。

これに対して建築界は、高度成長の波にのる超高層建築への開発指向もあって都市形成のダイナミズムこそ時代の要請であるとして、美の表現と建築デザインの自由を唱えて抵抗したのであった。一種の文化論の装いをまとっているが、保守派への反発と超高層建築に単純にあこがれる建築家の本能が働いていたとも見られる。

この頃、F・R・ライト設計の帝国ホテルの保存問題が大きな話題であったが、丸ノ内では建築の保存を正面切って言う声は聞こえなかった。当時の建築学会の機関誌には「丸ノ内には保存すべき建築は無い」とまで言切っている建築評論家もある。

●超高層建築時代へ

こうした論争と行政の動きの結果は、現在に見る様に軒高百メートルの東京海上ビルが建ち、その後、日本郵船、三菱銀行、第一銀行等の建築が建て替えられ、建築界の主張が通ったかにも見える。だが、妥協の産物となったというところが実状であろう。

こうした結果のもたらしたものが現在の丸ノ内の景観である。その評価が定まるにはまだまだ時間が必要であろうが、この事件が引金になって近代日本を代表する名建築のいくつかが消えたことは、少なくとも確実である。

そして西欧近代をトレースする時代には訣別したのであった。それはかつての政治原理ではなく経済原理の世界の表現となって、新たな世界都市東京の都市景観を生みだしつつあり、新しいコンフリトも生じつつある。

●東京駅再生への動き

1977年に国鉄は東京駅の丸ノ内側と八重洲側一帯の所有地を再開発することを発表し、明確な案が示されてはいなかったが、都知事がこれを応援する。更に1981年には国鉄の案として、超高層ビル構想がだされた。国鉄財政再建のための策のひとつである。 だが、時代は低成長になり、改めて身の回りや地域の歴史を見直す一般的風潮が主流を占めており、赤れんがの駅舎を残せという保存再生論が新聞をにぎわわせる。

そして中曽根民活がおきる1986年から、東京駅を再開発して高度利用する方向が出される。一方、三菱も丸ノ内マンハッタン計画を発表して、にわかに騒然となった。

東京駅も丸ノ内も墓場の石塔群のようになって建てかえられ、歴史的建築は無くなってしまうと世間は思ったような時代であった。明治の栄光たる赤れんが駅舎を残せという声がおおきくなる。

一方、学者たちと各省庁関係者による国土庁主催の東京駅再開発委員会が設けられて、再開発の検討がすすめられた。その結果1988年、赤れんがの丸ノ内駅舎は「形態保全」の方針が打ち出され、同時に駅の上と隣接する街区を合わせての計画的再開発の方向が示されたのであった。

今、改めて都市景観が総合的に問われる時代になって、東京駅の駅としての機能性、東京都心の拠点としての立地性、国民的な中央停車場としての象徴性、丸ノ内の都心景観の方向性等を見極める必要があろう。

●形態保全とはなにか

ところで、いまの赤レンガ駅舎の姿は、太平洋戦争末期の空襲災害によって当初の姿を改変されているところが多い。この様な場合に「形態保全」とは何を意味するものであろうか考えてみたい。

「保全」とは、建築技術上の用語としては一般的にはメインテナンス、つまり建築物及びこれに関連する施設・設備類を良好な状態に保つことを指す意味に使われている。

ところが環境科学の自然保護の分野からの考え方と、歴史的建築修復の分野の考え方とから次第に発展してきた言葉としての「保全」とは、もっと複雑な様相を呈している。

“保つ”という意味に多くの段階があり、保つべき対象物と人間との関係について、保護」、「保存」そして「保全」というヒエラルキーを与える。

「保護」は、自然保護というようにサンクチュアリーとして、対象物に全くの人間の介入を許さない状況を形成することをいう。したがって、植生等の自然遷移によって景観の変化がおこることは当然であるが、これを止めることをしてはならない。

「保存」とは、犯罪現場保存のように対象物のある状態をそのまま変化しないように保つことである。人工的な介入による景観の改変を行ってはならないので、植生の自然遷移についても人工的介入でこれを止めることになる。

「保全」とは、保存をベースにしながらも対象物を人間が活用することで、ある程度の介入・変化を許容する状況を言う。ここでは保存ほどには徹底しないが、景観や環境のドラスティックな変貌は拒否しつつも、人間の行動との対応の中で漸進的に改変が進むことを認める。保存と改変とが同居しているといえよう。

この意味では建築保全はたしかに利用することに対応して、設備や間仕切り、仕上などの改変を行うのだから、「保全」という言葉は正しく使われているといえよう。

ところがこの場合、何を保存して何を変化するか、変化の度合いはどの程度なら認められるか等、対象物により使われかたによりそれぞれに異なる。特に歴史的評価や環境評価というような、絶対尺度よりも相対尺度による視点がこれに加わるときは複雑なことになる。

こうして“使うこと”と“保つこと”とが同居しており、歴史的評価と環境的評価が問われて、複雑な様相を呈したのが東京駅の丸ノ内赤煉瓦駅舎の保全の論理である。

東京駅が1914年に開設されて以来、東京のみならず全国の中央駅として多くの人々に、永い年月にわたって利用されてきた。これは当然のこととして一般から愛着を持たれ、これが無くなるあるいは姿を変えることに抵抗感が生じる。

そして保存運動を呼びおこすものとなり、それは「東京駅を愛する会」のような復元運動へとつながる。だが、特に声の大きな復元論も決して説得性ある論理を展開しているとは言い難い。

研究の必要があって調べているのだが、東京駅丸ノ内駅舎の保全には「復元」だけでなく、基本的な考え方がいくつか存在するのである。整理すると、「当初形態復元論」、「現在形態保全論」、「創造的保全論」に大別される。

●当初形態復元論

まず第1の論は、保全とは当初の形に戻すこととする考え方である。すなわち1914年建設時の、あの三階建てのドーム群の姿に復元するのである。

この論の立場は、「東京駅を愛する会(三浦朱門氏ら代表)」の中心をなす意見である。明治の日本の勃興期を象徴する東京中央ステーションの華麗なドーム群の姿は、ひとつの時代を画した建築としてとらえるべきである。開業の時あたかも第1次大戦の戦勝凱旋記念に、この駅の開業式をあてるというイベントさえもあったのである。

皇居に向かって立ち、夕日が照らすと美しく映えたあの昔日の姿こそ、わが国近代化をおしすすめた偉大な明治の精神を具現するものである。今の姿は昭和の時代の不幸によって歪められたものであり、これを三階建てに戻し、ドームも復元すべし、という論である。 建築史学者藤森照信氏は、この建築がわが国建築界の育ての親である辰野金吾の3部作のひとつであり、様式建築の日本化を果したという評価を下して、復元こそ最も正しい形態保全の道とされている。

ただし復元は外部は忠実だが、内部まで全てを復元することを強調してはいない。主要な部分のみでもよいとして、新しい機能に対応する改変を許容するという柔軟さもある。

●現在形態保全論

第2の保全の考え方として、今の姿すなわち、第2次大戦によって1945年に変った現在の形態を保全するべき、とする意見もある。

赤レンガ駅舎の当初の姿が保たれた期間は1914年から45年までは31年間、1945年から今の姿になって既に47年間を経ている。当然のことながら、今の姿のこの駅を利用し、この姿を東京駅と見ているた人々の方が、はるかに多く生きている時代になっている。

もしこれを当初の姿に戻したなら、それは多くの人々にとって愛着を持っている今の駅とは異なる姿となるだろう。それで良いだろうか。

また、当初の姿がいわば第1次大戦の戦勝記念碑ならば、現在の姿は第2次大戦の敗戦記念碑となり、その意味での価値は今の姿にも十分に重いものがある。特に東京都心において、第2次大戦を記念すべき建築物は全く失われたと見られるなかで、これほど貴重にして有効な建築物を失いあるいは改変することは大きな問題、とする。

もちろん、この論も今のままで「保存」するのでなく、耐力的な補強や機能的改善などを施すことは当然とする。少なくとも今の景観を昔の景観に戻すことは、それによって失うものも大きいとする論である。

ところで、現在の姿が確かに当初の形が破壊された時に、仮の姿で修繕されたには違いないにしても、その結果の姿はあの物資の極度に少ない時代に、よくぞここまで当初の姿を生かす努力をしたものと言わざるを得ない。

両サイドの内部のドーム天井(なんとジュラルミン製だ)はフラットに張っても1向に構わないだろう。その上の巨大な木組みの大屋根だって、トタン葺きの三寸勾配でも用は足りたはずだ。外壁は全部モルタルぬりの方がはるかに容易であったはずだ。現に裏側にあたる線路側はそうなっている。

それを、あそこまでも凝った意匠にしたのだ。当時の国鉄の建築家の復興にかけた息吹が伝わってくる。復興設計のパースを見たことがあるが実に見事なものであり、うっかりすると辰野金吾設計案のひとつかとも見間違うものである。

これはこれで記念的建造物の保全的復元の模範ともいうべきものとなっていると評価できるのである。これを仮の姿ということで復旧したという当時の「事情」だけを理由に、簡単に変えてよいのだろうか。

若干の論の飛躍を承知でいえば、憲法改正論の、占領軍の押し付けだから、という理由の感じもある。

●創造的保全論

第三の考え方は、当初の姿を復元することに基本的には賛成であるが、新しい創造活動として復元をとらえるべきとする論である。

その当時とは周囲の景観が大きく変化した現在では、単なる復元しただけではその明治の精神を生かすことは不可能といわざるを得ない。したがって、新しい現代の時代相を持った形での創造的な保全を図るべきとするのである。

創建時における日本の象徴となる建築をつくるという辰野金吾の心意気を、今の時代に新しい形で創造し直すことが、真の意味での保全であるとする論点に立っている。

たとえば、辰野金吾が明治の集大成とでもいうべき東京中央駅のデザインにおいて志向したものは、第1にあの華麗なるスカイランであり、町並みとしての建築であった。

三菱ガ原から皇居まで一望できる都市空間の中で、300メートルも続く長さと今の丸ビルよりも高い5つのドーム・尖塔群は、ほとんどこの建築だけで壮大な都市景観を形成していた。

この景観こそが東京駅の神髄であったのであり、いま周りに高層ビル群があるときに、単に当初の姿の復元では、これを真に復元するものとはならない。

建築は単なる回顧趣味ではなく、都市の景観を創造するものであり、それが歴史的な環境としての景観を必要とするなら、そのデザインの意図したところを今の時代に継承し、生かすことこそが復元であると考える。

この論は建築家丹下健三氏の提案に代表され、超高層建築のスカイランに創建時のドームと尖塔群を乗せた計画がある。

あるいはまた、辰野金吾のデザインを受継ぐところがあったとしても、新しい姿の東京のシンボルとなる建築物をつくるべきであるとする論もある。

●保全論の行方

以上三つの論に整理してみたが、このほかに「別場所移築復元論」もある。

さて、どれが最も適切であり、何が歴史的評価に耐える方法か、読者のお考えはいかがであろうか。

参考までに、国土庁が発表した東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告書(1988年)のなかの整備方針のうち丸ノ内駅舎に関する部分を抜粋しておく。

丸ノ内駅舎の取扱いの方向

■東京駅丸ノ内駅舎は、大正3年に開業時には三階建の建築であったが戦災を受け、 昭和22年に2階建に改修・復旧され現在に至っている。

■近年、構造、設備の老朽化が進行すると共に、土地の高度利用の要請がある1方、 保存を求める声もおこっており、適切な調和点を求めることが必要となっている。

■以上を踏まえ、丸ノ内駅舎の鳥か使いについては、次の方針により取り扱うことが望 ましい。

丸ノ内駅舎は、長年にわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物であり、また、本 地区の都市景観を構成するランドマークとして評価されるため、現在地において形態保全を図る方針とし、今後、具体化にあたっては次のような点に留意するものとする。

ア.建物自体の耐力診断を踏まえ、形態保全の具体的な方法を検討するものとする.

イ.土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に形態保全に十分配慮しながら新たに建物を建築する方法、駅舎の上空の容積率を本地区内の他の敷地に移転する等の方法等により実施する。

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7.建築と景観

京都で今、景観問題といわれるように騒がしいようである。建築ジャーナリズムにもたびたび、話題の京都駅と京都ホテルがこのところ登場している。(注1)

ところがそれらを読んでいるかぎりでは、どうも建築家が景観問題と切りきり結びながらやっているようには受け取れない。

京都ホテルは、一般ジャーナリズムにも格好の話題を提供していておもしろいのだが、一般紙に建築家の名が登場しないのはわが国の常であるとしても、建築関係の雑誌にもこの設計者が登場しないのはどうしたことなのだろうか。このところ不思議に思っている。

建築の世界では、京都の景観が高さの問題にすり替えられて、建築のデザインの本質が問われないのは残念、という風潮があるようだが、それなら堂々と出てきて反論しても良いだろう。

とまあ、これは外野の無責任な発言でもあると心得てはいるのだが、それにしてもあの設計者はオーナーと反対論の間の板挟みで大変であろう。

この問題は、建築家に景観への態度を正面から問うていることには違いない。その問い方の戦術として、一般に最もわかりやすい高さ問題に集中する方法をとっているのである。なかなかにうまい作戦である。

景観がこれだけ流行語になってきても、建築家も建築ジャーナル界も多くは、景観の内容についてはいまだしの感がある

先日も川上秀光氏が、あるところで景観賞を選定するにあたって、建築家の態度をなげいておられる話が、本紙で紹介されていた。賞の選考に応募してきた建築物の写真が、単に建物だけを写して、周りがどうなっているかまったく分からないものや、外周りのしつらえが無いムキダシのままのものであったりする例があり過ぎる、といわれている。

建築のジャーナルに紹介される各地の景観賞作品の写真も、ほとんど例外なく周りの町並み、風景が写っていることはない。

最近の建築界の話題作である、「水戸芸術館」に行って現物をみて、建築ジャーナルに登場していた写真の風景との違いに驚いたものである。建築単体としてのデザインや機能、あるいはその運営については、誠に好ましい仕事と私は思っているのだが、景観という視点からはいただけないものが多すぎる。

ご自慢の広場の向かいはデパートの荷捌き場で、トラックが四六時中出入りしているし、この様な施設の常で外には閉鎖的な壁になるから、商店街はここでとぎれてしまっている。

あのサナダ虫タワーは、近くにある電信関係らしい朱色の鉄骨タワー(二本もある)と競合していて、都市景観を引き締めてスックと立つシンボルと勘違いをしていたのは、私のほうだった。

またある日、浅草から隅田川の吾妻橋の向こう岸にできた墨田川リバーシティーを眺めていて気がついた。

あそこに建つ建築群は、景観的には相互になんの関係もなくデザインされているらしいのだが、そのコンセプトの無さを救ったのが、皮肉にもかの空飛ぶウンコ(屋上の広告塔?:フィリップ=スタルク設計)なのである。

目はどうしても、その黄金のヒトダマにすいつけられるのだが、いったん目を建築群に戻せば、これは単なるバラダチのわが国のどこにでもある都市の景観であり、新宿西口やら池袋東口の安売り店のドハデ看板を、すこしばかりすっきりしてみせたのがアレで、乱立する建築群も少しはお行儀良くすればこの様な風景か、と納得がいったのである。

われわれの好きなごたごた盛り場風景が、外国人の手によってちょっとだけとりすましたのであった。

この墨田リバーシティ再開発は、プランニングレベルでは地区の持っているコンテクストを比較的よく読みとっていて好ましいのだが、建築の立ち上がりがどうもいまひとつである。

それにしても、この川向うの境界領域に生まれた空飛ぶウンコと、今は北関東水戸の寒風にくねり立つサナダ虫とは、これも時間の境界である世紀末にふさわしい二大スカトロデザインか。

たまたま二つの話題作をとりあげて、景観的な面からあげつらったのであるが、多くの建築計画はいまだに「敷地主義」がまかりとおっている。敷地内に建築基準法に適合する建築を一生懸命にデザインする、道路の向こうや隣は日影規制やら斜線制限のみで考慮すべきものである、というところが現実か。

現に建築のジャーナルに紹介される建築の図面は敷地内だけしか書いていないし、写真にはその建築だけしか写っていないのがほとんどである。

これも最近の話題作である坂本龍馬記念館は、まだ私は見ていないのだが、多分その立地条件がこの建築の最も見せ所と期待している。

それが雑誌を見ているだけではさっぱり分からない。もしも立地条件、すなわち景観としてのシンボル性がこの建築に付与されていないなら、この建築はただのありふれた展示館にすぎない。現物を見るのがこわい。

ところで一昨年(1990)のことだが、まったく本当に久し振りに建築の造形に感銘を受けたことがある。それは「シドニー・オペラハウス」である。絶えて久しく忘れていた現代建築への感動、というハズカシイことがおきた。

シドニー湾の水面に、バックの緑と街と橋を従えて見事にシンボル景観として納まった造形は、ランドスケープデザインの完成度を見せている。

この現代建築をこの国の人は誇りにしているのだ。いくら新しい国だといっても二百年祭をやっている位だから、それなりに古い名建築だってあるのに、オーストラリアの観光パンフレットの巻頭をこれがしばしば飾るのである。

さて、外国の旅行社に置かれている私たちの国の観光パンフレットには、どんな現代建築が載ってるのだろうか。〔1992年 建設通信新聞掲載)

注1:これを書いた1992年ごろは、京都駅と京都ホテルの高さ問題で、京都は騒がしかった。そして2002年の現在、両方ともプロジェクト発表のままの高さで立ち上がった。その後、京都ホテル(清水建設設計)はほとんど話題にならないようだが、京都駅(原広司設計)はその外観にはどちらかといえば否定的な論、内部の大階段と吹き抜け空間にはなんとなく好意的な論で、不況の中で伊勢丹百貨店の成績も良く、けっこう話題性がある。(2002/02/07)

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8.街並みの景観

先日、函館に行ってきた。一日もあれば街を見られると思っていたのに、都合三日間もホテル住まいをしまったほどにおもしろい町だった。

その面白さとは、近代日本で三か所の開港した都市として近代の発展を遂げたのだが、その後に停滞の時代があったために、近代化時代の遺産として残されている建築群の街並みである。

「伝統的建築物保存地区」に指定されたところはもちろんとしても、ただの商店街も実に面白いとしかいいようのない看板建築やら近代建築やらを、立ち腐れるかと危うげながらも生きて使われている有様は、誤解を承知でいえば、一周遅れのトップランナーとして生き返る可能性を大いに秘めている北国の街であった。

すでに街並み保全のための市民や行政の活動が成果をあらわして、歴史的な街並みの価値は徐々に知られてきて、港の倉庫街もはやりのマーケットに転じたりしてもいる。そこで、さすがはバブルの不動産屋、伝統的街並みの中に早速にリゾートマンションを建てて売り出したのであった。

街並み保全運動に活躍された市民の方が嘆いて言うには、私たちが街並みの価値を知らせたばかりに、かえって街並みを乱す妙なマンションができてしまった、と。

なるほどゆるやかに港に下ってゆく独特のエキゾチックな街並みの中に、まるで関係のないデザインのマンションがあちこちに建っている。だが、その多くははじけたバブルの結果、真っ暗なままで住む人がいないものが多いという。

それにしても、マンション設計の建築家たちは、いったいぜんたいなにをしているのか。もう少しは街並みのコードを読みとって設計したらどうだ、と怒りたくなるデザインばかりである。

私は凍結的に街並みを保存することは反対だし、都市は時代の変転に対応することが必要と考えているので、マンションを頭から否定はしないのだが、設計者は目の前に見えている街並みのコンテクストをなぜ読み取ろうとしないのか不思議で仕方がない。

隣とは違うデザインをするのが使命と心得ている建築家が多いのは、函館に限らない。 デザインが下手なら、せめて街並みから引っ込めて、道の並木の樹木で目隠しをせよといいたい。

いま私は、「街並みのコード」といったのだが、歴史的街並みはいずれもコードが働いているところがあげられる。 そしてそれは、ひとつひとつの建築デザインはそれほどでなくとも、街並みの群としたときに美しさや個性が見えてくるのである。

早くいえば個別の建築は、下手な建築家が設計しても大工が建てても、コードに沿えば街並みとしては上手に納まるのに、下手なままにコードによらずに設計するから困ることになる。

そこで函館市は、個性ある街並みをもつ西部地域の建築に、デザインをコントロールするべく都市景観条例を制定したのである。

ここで函館に限らず当然のこととして、建築家から反論が出るはずである。

デザインコードというような、決めつけをすることは表現の自由を奪うし、なにが美しいかは建築家の表現によるものであり、上からデザインを規制で決めるべきで無い、と。

これはかつて有名な「丸ノ内美観論争」の時(1977年前後)に建築家が唱えたのであるが、今も相変わらずの根強い論理である。

ではその後、丸ノ内は美しい景観になってきたのか、と問えば、建築家も含めてだれもが首を傾げるだろう。

はっきり言えば、敷地主義でしか設計できない体質が今の設計者たちにはある。敷地の中の柱割りからプランと意匠を決めるので、街並みからくる景観のことは忘れてしまうのである。

まかり通る建築敷地主義と建築家の独善が街並みを壊すときに、デザインコードを上位計画でかけるべきであると私は思う。

そのコードは、例えば地区計画と建築協定というような、住民参加によるコンセンサスと法的担保があることが望ましい。それが民主主義というものである。

そしてもちろん、なにごとにも例外規定があるように、コードを逸脱してもなおかつそれが地域の景観にとって優れたものを生み出すならば、それを認めるというシステムを備えておけばよい。

それ程に優れたものを設計する建築家がいるなら、そこで頑張ればよいのである。いつの時代もそのようにして時代を突き抜ける練達の者がいて、次の時代を作ってきたのだから。

さらに付け加えておかなければならないが、街並みのデザインコードというと、例えば周りの建築とそっくり同じにすればよいのだろうと、これまた安易に考えるものも出てくるようでも困るのである。実際その様なことも往々にしてある。

それは下手なことをされるよりも、まあよいのだが、それでは建築家という職能としていかがなものであろうか。コードの中で新しい造型をつくりあげることも必要なことであり、それが力量でもある。

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9.鉄道・道路高架の景観

鉄道は明治以来の事業によって、都市内高架道の先駆者であり続けてきたと言えよう。上を走るものが列車でも自動車でも本質的には、地上の秩序にわけいって新しい秩序を都市に持込んだのである。

それまでは、その地域から出るには徒歩が原則であり、それだけコミュニティーは狭く緊密であったが、鉄道の速度はこれを拡大し、日本全体の秩序さえも変えた。特に上り・下りの概念を、それまでは京都から東下りであったのを、西下・上京として逆転したのである。

とにかく地域の持っていた秩序とは大きく異なる超日常秩序を、日常生活空間に持込むものが鉄道であった。

これは橋と川の関係を逆にしたものとみれば分りやすい。川の水流という自然の秩序にかわって人間の生活という日常社会の秩序を、人が渡る生活の秩序たる橋にかわって列車あるいは自動車という超日常の秩序、というように人間の立場と水の立場がいれかわったと見よう。

川の水が河原という洪水調整機能たる境界領域を都市に要求したように、人もそれを鉄道に求めることになるのであろうか。

だが、その初め、鉄道そのものが境界空間の主人公であったのである。

1880年から1897年頃までの東京の地図に登場する鉄道をみると、今の東北本線は赤羽から続く武蔵野段丘の東端、本郷台の崖線に沿って上野で止っている。上野という東京の境界を終点とし、段丘崖線という地形上の境界を通っているのである。

また現在の中央線は甲武鉄道の名称で、今も明確に分るように江戸城の外堀というやはり境界空間にはいりこんでいる。

この様な路線のとりかたは、別に東京だけの特異なことではなく、名古屋でも城の堀を名鉄が走るし、高松、京都等も同じようなことが見られる。

鉄道が生活空間に市民権を得るには、やはり初期の河原者としての悲哀を経験しているのである。

これが、同じ鉄道でも鉄道馬車から発展する路面電車にはそのようなことがないのは、その鉄道の秩序が明らかに日常の秩序の範疇であったからだ。

今の都市高速道路が、堀や川の上空あるいはその中を路線にしているのと全く同様の現象があったのであり、歴史はくりかえすのである。

ところで都市の日常空間において、鉄道高架は市民権を得ているであろうか。地方を走る鉄道が、在来線と呼ばれて日常性にとけ込む景観を呈しているのに対して、都市内の鉄道高架はいまだ市民権を確固として得たとは見られないのである。

日常の地上の秩序と、高架上の軣音を発する鉄の移動箱の行交う空間の秩序とは、決してあいいれない。川にとってかわってこの間に新しい境界帯をうみだしている。

その境界帯とは、高架下のどこでもみられる猥雑な空間こそがそれであろう。戦争直後は浮浪児、パンパン、闇市等であり、今は焼き鳥屋、パチンコ屋、ポルノ映画、麻雀屋、市場、倉庫等の看板と荷物のひしめいて、活気と疲労とが入りまじった高架下空間は、まさに境界領域のアジールといえよう。

高架の上には世界に誇る時間厳守の列車が走り、その下には騒音と喧騒のアイマイ世界がくりひろげられ、洪水が橋脚にぶつかるごとく、アジールに生きる活気が高架の柱列におしよせているに違いない。そこは軣音と震動で定住空間にならない現代の河原である。

ところで都市内の鉄道以外の高架下利用をみるとき、東京西銀座デパート等を下に持つ東京高速道路株式会社線を思い浮べるであろう。

鉄道の高架下ほどの迫力あるアジール性は持合せていないが、銀座の一角にありながらどうしても銀座になりきれない様なところがあるのは、その境界領域性の故であろうか。そこでは高架下が都心正統派の利用方向を示しているのだが、どうもその出自に見合う猥雑性が不足しているので、なんとなく中途半端なのだ。

そういえば、ここは有楽町と銀座との間の川であったのだから、もともと境界であるのだ。ついでにいえば、石本喜久治の朝日新聞も山口文象の数寄屋橋も無くなってしまった。そう、境界領域にあるものは常ならざるものであるとすれば、これらは長く保ったほうかもしれない。

高架下には都市に境界空間が作られ、ここに好むと好まざるにかかわらず猥雑な空間を形成している。それは時代のなせる結果にしては長続きしているので、やはり二つの異なる秩序の出会いのなせる業であろう。

さて、こうして高架空間の来し方を民俗的に見てきたが、言えることは都心に新しい境界領域を生み出しつつあるということである。このような境界領域にこれからどの様なものが新しく登場し、育って行くであろうか楽しみである。

高速道路の高架下に期待するには、道路法の排他性はとても芸能などはあいいれない代物であるようだが、最近それを許すために立体道路制度ができた、という冗談の期待もある。

おりからウォーターフロント時代をむかえて、今までの陸と海との境界領域であった港の倉庫街が、あやしげなまといを身につけてきて芸能の場になろうとしている。

しかし、鉄道も高速道路も高架物が都市の景観要素として定着するには、厚化粧で補償金を持ってくるお客様の立場を脱ぎ捨て、素顔の美しさで日常生活の景観に埋没することこそあるべき姿であろう。

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10.川の民俗的景観

都市の川として典型的なものは、京都の賀茂川、東京の隅田川、金沢の犀川、大阪の一連の堀川、福岡の那珂川等があろう。

賀茂川は、平安京造営のときに風水思想による東の青龍として、川道を東よりに付け替えている。そのころの賀茂川は、今日の様に都心に位置せず京の東の外れであったことは、この川の右岸の繁華街の京極という地名に表される。

では賀茂川沿岸部が住みよかったからかといえば、そこは権勢を誇った後白川法王さえも自由にならないと嘆いたほどに、有名な氾濫する川であり、自然の秩序の支配する住みにくい空間であった。

歴史家の網野善彦氏によれば、ここは境界となる領域であり、無縁の地として河原者が住みつくところである。河原者とは乞食、聖坊主、放浪者等の無縁のものが居る所であり、彼等は生きるために芸を見せていくばくかの稼ぎをするのであったが、これが芸能に発達し歌舞伎などの舞台芸術の世界に続くのである。あるいは商品を交換する市場がたった。

これらの空間を占めるものは、すべて定着性のない一過性という性格をもっていることに留意する必要がある。

無主の空間は、川の様に氾濫で常ならぬ空間であり、定着性を拒否する。だが、中世から近世にかけての治水技術は、常ならぬ空間を定着空間にかえる政治的な事業なのである。

二つの秩序の出会う空間は無主の空間として境界領域をうみだし、境界領域にはどちらの秩序からも疎外された者の吹き溜まりになる。そしてそこに市場や芝居という新しい人間の秩序を生み出すのであった。

それは川という自然の秩序と人間界の秩序とが、境界領域をはさんで共存するのでなく、自然界の秩序にわけいって人間界の秩序が対置するものであり、そこには激しい葛藤が発生する。

人柱、橋姫等の伝説・民話は数多く柳田国男によって紹介されているが、京都一条戻橋下には鬼が住んでいたという伝説もあり、橋こそは川という境界領域に境界領域らしい存在を生み出すのである。

近松門左衛門が心中天網島で、二人の道行きを橋づくしに描いて、この世とあの世の境界を河原と橋に象徴して見せている。これは篠田正浩の見事な映像がある。

今でも「橋の下」やたもとの広場は自由人の住むところであり、高架道路は新しい自由人の空間を次々に都市内に供給していることは、それを意図しようとしまいと現実の事実である。

隅田川も、賀茂川に似ている。江戸の東を限る自然であったし、この沿岸部もやはり支配の秩序から疎外され、生活の秩序にも属さない空間が構成されるのである。

吉原遊郭、西本願寺、浅草寺、回向院等の遊びと信仰の場が多く集められるのだが、もともとこの二つは結び付きが深いものだ。

そして向島や深川は、江戸郊外の行楽地になっていくのだが、関東大震災の復興のときはもう境界としての地域ではなく、そこにかかる橋は都市の象徴としての役割も負うほどに成長するメジャーなゾーンになった。

だが、いまだに隅田川は、河原者の世界から逃れられない。国技館と江戸東京博物館の二大見世物小屋が復活して、両国は回向院のおかげを忘れた繁栄であり、吾妻橋には金のヒトダマが飛び、川岸の高架下にはホームレスピープルたちが青い家を軒を並べて建てて住みついている。まだまだ境界性は健在なのである。

現代の川はカミソリ護岸で河原が無くなったために、川にはアジールが発生しにくくなって、現代の河原者は消えざるを得ないと思ってみれば、これがやはり健在なのであった。

隅田川側の川べりの空中を走る首都高速道路は、雨に濡れない新しい無主の地を作り出しており、橋詰め広場のベンチに住まうホームレスピープルたちのホームがあるのだ。もちろん本物の橋の下という、伝統的な空間にも健在である。

ダンボールのウサギ小屋を夜ごとに建設して、管理社会の境界領域とも言えないスキマをかいくぐっているが、アジールには程遠いようだ。

問題は現代のアジールは、その管理体制が強くなっているため、歴史の記憶あるいは社会の自然現象としてアジール化現象が働いて自由人が一時的な居を構えることと、これを追払うこととが日常茶飯事になっているため、かつて中世から近世にかけて起きたような河原者文化が芸能として育つひまがないのである。

そこで新しい時代の河原の復活を、スーパー堤防に期待するのは、どうであろうか。緩傾斜護岸や親水護岸は、単に水辺に人間が近よりやすい、という機能と見掛けの問題としてのみとらえるのでなく、芸能、イベントの場に復活してはどうか。

ついでにいえば、近頃はやりの親水のデザインは、川の中にまで石やタイルを張り詰めたり、手入れが大変な花壇を設けたり、これもやりすぎである。

もともと陸と水の接線には、ヨシの群落があって、その下のヘドロで陸からの汚水を浄化して川に流す中継の役割を持っていたのに、洪水調整や汚いヘドロがいやだという人間の都合でそれを無くしたのだ。そのうえ親水空間で近寄る人間の出すゴミも排泄もいきなり取り込まされては、川に気の毒すぎるだろう。 (完)

注:この一連の景観エッセイは、1992年3月2日から19日にかけて、日刊建設通信新聞に連載した。

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