山形梅月堂・街並みとしての近代建築

街並みとしてのモダニズム建築

伊達美徳

1.山口文象ピーク時の梅月堂

1936年は建築家・山口文象にとっては、ピークの年だった。

この年に、青雲荘アパート兼診療所、番町集合住宅、小林邸、山形梅月堂、日本電力黒部第2発電所 と関連施設、箱根湯本山崎ダム及び発電所などの、いわゆるモダニズムデザインの作品が続けざまに完成している。

黒部の一連の仕事は彼の代表作であるし、番町や小林邸はモダン住宅としてのプランも意匠もまさに典型的なものである。

だが、この年を境にして、以後は個人住宅と軍需工場の工員宿舎の仕事ばかりで、これといった創造的な作品はない。これは時代が戦争への転げていくときだったから、山口文象に限らず、建築家の仕事もそうならざるを得なかったのだ。

そのピークの年の仕事に、山形市のお菓子屋さんの店舗である梅月堂が完成している。山口文象は商業建築はほとんどやっていないし、やっても今はないが、唯一のものとしてこれが存在する。

また、山口文象は地方ではほとんど仕事をしていないが、山形というのも珍しい。そしてこれが真っ白な壁とガラスによるまさにモダニズムそのもの、悪く言えば豆腐に目鼻の建築デザインである。

それが東北の山形の町の最も繁華街である七日町四つ角、東京で言えば銀座4丁目交差点の三愛のような位置に建っているのだ。

山形のような田舎町、というのもおかしいが、なぜ山形なのか。

1920年代から30年代までの店舗建築の写真を載せている「失われた帝都東京」という本があり、それを見ても小規模店舗のモダンデザインといっても、よく言えば表現主義らしきものから折衷主義 そして今和次郎が言うようなバラック装飾など、やはり装飾をまとっているのが当たり前、もちろん圧倒的多数は和風建築であった。

菓子屋の店舗としてあれほどに飾り気のない白い、最先端流行のラディカルなモダニズムデザインの建物を街の真ん中につくるのは、東京でさえも珍しく、そんなことをするのは森永キャンデーストアーと不二家くらいなものだった。

だからこそ、それを梅月堂主人の佐久間茂登七の心意気でつくった、いやそうではなくて、梅月堂の5男坊に生まれて東京神楽坂の紅谷の主人となった小川茂七が、故郷に錦を飾るためにやりたかったのかもしれない。

2.看板モダニズムデザイン

そのラディカルさのきわみは、これを鉄筋コンクリート造としたことに現れている。当時の街並みを作る商店建築は店蔵が主流であり、その中に木造建築のいわゆる看板建築という表側だけ洋風のお面をかけたものであったろう。現に隣の3階建て に見える建物は戦前の写真にも写っているが、典型的な看板建築である。

梅月堂ほどの規模ならば木造で看板建築も可能であるのに、そして現にこの梅月堂の裏には木造3階建て建物を同時に山口文象が設計して建っていたのであるから、その当時としても珍しい鉄筋コンクリートでつくったのは何故か。

思うに、この角地の狭い変形敷地に建てて、商業建築として見ごたえのあるデザインの看板建築を造ることができる大工はいなかったのかもしれない。そこで建築家を起用することになり、山口文象に白羽の矢が立つ。彼としては当然のようにコンクリートによるモダニズムデザインだが、表から見えない後ろ半分は木造で我慢したという ところか、。

とすると、これはコンクリートでできた看板建築である。あの扁平な変形敷地に立つ建物となれば、その平面は山口文象でなくても誰がやってもあのプランになるしかない。

だからあれはコンクリートでモダニズム建築をかたどった看板なのである。裏に木造建築あったことからしても、それは確実なことだ。

その後に変転したようだが、インテリア、家具、展示ケースまで山口文象が設計したことが、山口文象らしいところと言えばいえる。なお、設計図の原図を見ると、山口文象が直接に図面を引いた様子はない。多分、日本歯科医専から山口文象の右腕でモダニズムデザインが得意だった河裾逸美であったろう。

このような小規模ながら本格的なモダニズムの商業建築で今もあるものといえば、梅月堂と同じ頃に建った横浜の伊勢佐木町にあるA=レーモンド設計の不二家ビルである。まさにモダニズムそのものである。

そういえば、このどちらも1945年にアメリカからやってきた占領軍に接収されて、米兵用のレストランとなった。モダニズム建築がアメリカ人好みだったからだろうか、それとも単にその街の一流レストランだったからか。

二つのデザインを比べると、どうもレーモンドのほうに軍配を上げたくなる。

3.街並みとしての梅月堂

山口文象の設計した梅月堂が建った1936年の山形といえば、山形七日町通りを都市計画事業によって拡幅したので、そのために旧店舗の建物を壊してこれに建替えたのであった。

山形市史によれば、1928年に山形市は都市計画法(1919年制定)適用都市となり、1930年に都市計画決定し、1933年に梅月堂のある道路幅を4間から6間に広げることを決定して事業にかかり 、1937年に完成した。

この道路拡張のとき、拡幅にかかる店舗等の建替えについて、山形市は設計など指導や斡旋した結果、見違えるばかりに街並み整備ができた、という。

そのひとつに梅月堂もあったのだが、では、他に梅月堂のようなモダンデザインがあったかといえば、正確にはなんともいえないが、あったとは思えない。

今の梅月堂の隣で七日町通りに並ぶ建物は、梅月堂の昔の写真に写っているから当時の街並みの一部と言ってよい。 洋風看板建築の類であるが、この程度の建物は多かったろうと推測できるのは、旅籠町辺りに今も多く見られるからである。今も七日町通りに今も存在する昔の建物は 、どれも店蔵づくりであり、この土蔵造りが街並みの主流であったろう。

とすれば、梅月堂ができたとき、これはあきらかに街並み破壊であった。それは当時の市民にとっては、東京という都会からの最先端の流行としてとらえたのか、それとも、何か奇妙なわけの分からないものだったか 。

このような街並み破壊は特に山形だけの珍しいことではなく、例えば京都三条あたりの20世紀初め頃のレンガ造洋館は、低い瓦葺きの町屋の中に異様な風景であったはずだ。しかしそれは、進歩の象徴として若い日本のありかただったし、山形の梅月館もそのひとつであって、市民が疑義をはさむよりは先端流行デザインにあきれていたであろう。

なにしろ梅月堂が地元新聞に出した開店広告に「東北に誇る唯一の近代式新興建築の粋」と謳っているのだが、このコピーライターは誰だったのだろうか。ここに仙台を凌駕した新しさを誇る意気込みが見え、それはそのまま東京コンプレックスになる。

今、七日町交差点の向かいから梅月堂を眺めると、七日町通り側に並んで2つの低い建物は、昭和の初めの風情を持っているから、梅月堂とは意匠的にギャップがあって昔を類推できる。

一方、七日町通りと直行する国道49号側に梅月堂に並ぶ街並みは、典型的な今日的都市的街並みであり、こちらは梅月堂と何のギャップもない。ないどころか、梅月堂はほんの昨日完成したごとくの、よい意味でも悪い意味でも街並みに溶け込んでいる。

つまり梅月堂は、昭和モダニズム時代から現代への橋渡しを、この四つ角を曲ることで見事に表現して見せているのである。モダニズム建築のもたらした今日的な意義の深さを改めて感じるのである。

それは商業建築として街並みの中にあればこそ分かることであった。その点では変転激しくて当然の街場の商業建築で、良くぞここまで保っていたものだと思う。

4.梅月館は山形文化のシンボルとなりえるか

さて、いまや山形第1級の洋菓子・レストランとして梅月堂はなくなり、建物の持ち主は不動産事業者に移り、1階にドトールコーヒーがテナント営業しているだけで、上の2層は空き家である。

山形の建築家たちは、この梅月堂の建物を保全したいと考えている。建築家にとっては、ある時代を風靡した建築家・山口文象の設計であること、いまや1930年代のモダニズム建築であること、この二つが保全の意義と考える。

だが、これではマニアックなレベル過ぎて、建築家や建築に対する意識の低い日本では、市民一般に理解はされにくいだろうと、わたしは思う。つまり、東京駅赤レンガ駅舎保全のように市民が動く保全運動になるものとは、この建物からはとても期待しにくい。

それは、東京駅は誰にも面白い様式建築だから市民運動になりえた、その東京駅のまん前にある中央郵便局は素人分かりしないモダニズム建築だから市民運動にはなりえていない、ということが参考となる。

だが、東京駅が市民運動になりえたのは、それもそうだったろうがそれよりも真の理由は、実はそこを東京だけでなく日本人の非常に多くが使ったし、しかも特別の経験があるという、人々の心象に深く刻まれた場所であったことによるものと、わたしは考えている。そこが中央郵便局と大違いである。

梅月堂はどうか。

今や山口文象を日本の建築家たちさえもほとんど知らない時代だし、山形市内にある擬洋風や洋風建築に比べると実に愛想のない、昨日建ったばかりと思うような表情のビルだし、山口文象の作品の中では位置が高いとはいえないし、ハードウェアとしては一般的には分が悪そうだ。

だが、地元の人に聞けば子どもの頃はなにか特別のときに親に連れて行ってもらった場所であり、大人になってからは何かお祝い事にパーティーをやった場であり、親しい人と特別の食事をした場であり、入院中にあの美味しい御菓子を見舞いにもらった記憶のあるところである等の、山形の人にとってそれぞれに心に刻む特別の思いがあるようだ。それは東京駅並みかもしれない。その市民たちの情念の塊が、梅月堂の建物保全へと導く可能性を持つだろうと思うのだ。

つまり山形の都市文化、生活文化のシンボルの一つとして梅月堂を位置づけることができるのだろうか、その掘り起こし作業をすること、そこに保全への重要な立脚点があると思うのだ。(090113初稿、090115訂補、090116訂補 、)

参照→東京神楽坂紅谷と山形七日町梅月堂http://homepage2.nifty.com/datey/bunzo/baigetudo.htm