中越山村で茅葺屋根の小屋を造る

中越山村で茅葺屋根の小屋を造る

伊達美徳

たった4坪の新築の小屋の屋根を、茅で葺く体験をした。

まったくもってすごい手間がかかったし、これほども大量の茅が必要なのかと あきれたが、自然のものをこれほどにとことん使いこなすとは、先人たちの知恵の塊であるとつくづく思った。

今やその知恵をどう伝承するべきか。

●茅葺屋根は次第に消える

中越の山村の法末(ほっせ)は、森と棚田と伝統家屋のある美しくも小さな集落である。

狭い谷間の道を詰めて登って行き、もう峠かもと思うあたりで急になだらかになって、ひょいと現れてくる集落はまるで別天地である。

1960年には住民577名、103世帯だったが、今は住民登録は100名くらいだろうが、実情は60~70名くらいで40世帯程度だろう。その7割近くが65歳以上で、いわゆる限界集落である。

2004年の中越震災で家屋被害があったが、それでも今も茅葺の家が少なくとも20棟はある。中には100年を超える昔に建てものもある。

とはいっても、昔の姿のままに建っているものはなくて、そのときどきの生活の要請に応じて変幻自在に増築し改装し、いずれも茅葺屋根のままでは維持が難しいので、茅の上にトタン板をかぶせている。

はじめは、茅葺サス構造の大屋根に、土間と和室四つ間取りの典型的な平入りの四角な建物が建ったのだろう。

次に、これに中門とよばれる妻入りの玄関が、直角に突き刺さる形で増築されて、平面はT型になる。

そのうちに、中門は玄関ばかりか台所や住室としても増築され、あるいは下屋が出て内縁側ができ、茅の屋根から突出して2階を増築するなど、次第に複雑さが増してくる。

今の姿を見てその成長過程を推測するのは、建築史学や民俗学的な面白さがある。その家族の歴史が屋根の形に現れているようで、見ているだけで想像をかき立てられる。

屋根を茅で葺くのはかなりの大仕事で、村の人々が助け合って結いと呼ばれる仕組みでやってきたことは日本各地にあったことだ。

新たに全部を葺いてから30年くらいは保つそうだが、このあたりの雪国では、屋根に積もった雪が凍って落ちるときに茅を引き抜いていくので、毎年どこかを修理しなければならない。

毎年雪が来る前に、茅を茅場で刈って雪の中に倒しておいて葉を枯れさせる。春になると束ねて屋根裏に保存し、補修に使うのである。補修ではもう効かないほどに茅や結束が弱ったなら、総葺き替えである。

このサイクルをこなしていくには、材料調達も大変だし、人手がいるし、重労働だし、技能も必要だ。ところがそれに鉄板をかぶせると、もうその必要がどれもなくなるのだ。年とった村人には冬も安心して過ごすことができるから、当然に波型トタン板をかぶせる。

こうして法末集落では2007年に、茅葺が見える最後の住宅がトタン板張りとなった。

トタン板張りとなっても茅葺屋根の基本的な形態は保っているから、奇妙な色さえ使わなければ、それなりに集落景観は維持されている。幸いに法末ではほとんどが茶色のトタンである。

●法末集落の茅葺民家の例 2005年10月22日撮影(中越震災1年後)

ここにある法末集落の中の民家は、最初は茅葺の大屋根を基本として新築し、後にいろいろと増築改築改装をし、茅にはトタン板をかぶせている。

茅の見える家はこの大橋正平氏宅だけであったが、2007年にトタンがかぶせられた

結局、6,7月の毎週末に毎回4~7人をかけて作業して、7月20日についに足湯オープンイベントに持ち込んだのであった。

これから周りを整備する必要がある。さっそくに村人が大きな木製の水車を作って、足湯の水の循環に使うとて持ち込んですえつけた。

足湯のまん前の棚田の持ち主は、その一部に花しょうぶやさくらんぼの木を植えた。

足湯は夕日を眺めるのに絶好の場所である。野良仕事の帰りにお茶を一服の楽しみだ。

●茅葺小屋が出来上がるまで

●傘寿の茅葺職人親方

集落の会議で、棚田の一角に足湯を作ろう、農作業の休憩の時や終った後に、みんなで憩う場所にしようとなった。中越震災復興支援の仲間たちも法末の住民を手伝うかたちで進めることとして、2007年から2年がかりのプロジェクトである。わたしは手伝いのそのまた手伝いである。茅葺作業を経験してみたかった。

ここには温泉は湧かないから、足湯のそばに炭焼き窯を作って、棚田への引き水の余りの湧水を炭焼き余熱で湯にして供給する計画となった。

足湯の上には四阿(あずまや)を建てることにして、どうせならその四阿をこの地の伝統的な茅葺屋根にしようとなった。四阿の平面は2間四角だが、屋根は軒の出や勾配を考えるとその3倍余の面積になるだろう。

はじめは炭焼き窯を覆う小屋を茅葺にしようという案もあったのだが、煙突から火の粉が出て火事になる恐れが高いので鉄板で葺き、足湯の四阿を茅葺にすることにした。

昨年(2007年)の後半に、足湯の本体と四阿の木造骨組みそして炭焼き小屋を、地元の大工さんや炭焼きに詳しい人が作った。四阿の屋根はとりあえずビニルシート葺きである。

11月に、炭焼きと足湯の実験をして成功した。そこでできた炭は、わたしたちの拠点民家で、冬の間の囲炉裏の火となり、まことに快適であった。

茅葺職人親方とその弟子(現・集落総代)は、どちらもわが拠点民家の隣の住人である。だからこそ茅葺をやろうという気になったのだ。

もっとも、80歳になる親方のほうは、地震の後は足の不自由な妻とともに街で暮らしているが、ときどき隣の家に電動アシスト自転車でやって来て野良仕事をしている。

さすがに今は茅葺の仕事はないらしいし、やる気もなかったらしいが、仲間が口説いたのである。はじめはシブシブだったそうだが、次第に乗り気になってきて、OKしてくださった。

現場では大張り切りで、わたしたちを指揮し、わたしたちが行けない日も仕事をして、どうやら生きがいとなったようだ。

昨年の仕事の最後は、雪が来る前に茅の用意をしておくようにと、親方の指示である。かつては屋根葺き用に茅場を各家で持っていたそうだ。いまでは茅場だったところでだけではなく、あちこちの耕作放棄地に茅が繁茂しつつある。

その茅場で刈った茅をその場に倒しておく。やがて雪が来て覆いつくしてしまったが、茅は葉が枯れて茎が硬くなっていくのだ。

そうやって、2メートルもの雪の中で、茅も足湯も炭焼き小屋も集落全体が冬の眠りに入った。

●茅で屋根を葺く

春になり雪が解けて茅葺始動である。

昨年(2007年)に収穫した茅の量では不足しそうなので、4月にさらに茅刈りをした。仲間の教える東京の大学生たちがやってきて、人海戦術である。

茅だけではなく、下地につかう竹が必要なので、ネマガリタケ(チシマザサ)の藪に入って、直径2~3センチ長さ2~3メートルくらいの竹の棒を沢山に切り取って用意した。

このあたりはモウソウチクやマダケのような大きな太い竹の藪は、豪雪の気候のせいで生育しにくいのか少なく、おもには細いネマガリタケ(チシマザサ)あるいはクマザサ の類の笹藪である。このクマザサの夏にでる新しい葉を取ってきて、粽や笹団子に使う。

5月になって、茅、竹、藁などの用意した材料を足湯のそばに集め、6月からいよいよ茅葺作業開始である。

街に住む親方を毎日送り迎えして、指導と作業をしてもらう。親方は地上では傘寿の老人だが、いったん屋根の足場に登ると身のこなしがあざやかとなる。

若い仲間は屋根の足場に登って手伝うが、わたしは地上での諸準備係である。むかしむかし学生のころは、山岳部で岩登りが大好きだったくらいだから、この程度の高所はなんともないはずが、高い足場はもういけないと覚った。

高さは怖くないのだが、もしもよろけることがあっても、足がそれに対応するように速やかに動かなくなっているのである。筋肉が衰えたのだ。情けないがそれが歳というもの、でも持久力はまだあるぞと、自らを慰撫する。

地上の仕事は、茅を1m内外の長さに切りそろえて束にし、屋根に運び上げることが主な仕事である。大きな押し切りでざくざくと切るのは気持ちよいが、ほこりは立つし、力はいるし、陽は暑いし、結構な労働である。

屋根の上では、竹を格子状に縦横に組んで木組みに取り付け、この上に軒先から順番に左右にそして上にと茅を置いては、組んだ竹に縄やビニル紐で縛り付け、縫い付けていく作業である。

長さ1mあまりもある大きな縫い針の目に縄あるいはビニル紐を通して、親方が上からブスリと突き刺し、屋根裏で待つ手伝い仲間が縄を抜き、親方は針を抜いて隣に差す。屋根裏ではその針の目に縄を通すと、親方が上から引き抜く。これを順に繰りかえして茅を縛り縫い締めつけるという、単純なる方法である。

屋根面や軒先あるいはケラバなどは、専用の木槌でたたいて茅の先をあらましそろえてから、専用のはさみで切りそろえていく。

軒先やケラバの切りそろえは、親方の腕前の見せどころのようだ。定規となる糸を張るのでもないのに、きれいにそろえられていく。

棟の収め方はいろいろな方法があるのは、各地の茅の屋根を見て分かるが、ここでは棟の上からかぶせる山形の木組みの箱を大工仕事でつくり、その上を杉皮で葺いたのであった。棟木は古い電柱を寝かせて乗せて、押さえと装飾にした。これででき上がりである。

デザインとしては、もうちょっと茅に厚みがあり、軒の出ももうちょっとあって、屋根全体がひとまわり大きいと良かった。

ふもとのあちこちの集落の田んぼの中に、「観音堂」と呼ばれる茅葺の小さな祠が建っているが、なかなかに美しいプロポーションである。実はそれを期待したのだが、ちょっと力及ばずだった。でも新築で茅葺なんて、もう今後はでないだろうとの思いもあり、満足である。

棚田の中に茅葺小屋を造った

木組みだけの四阿

手前に見える茅を載せる

軒先から順番に茅を葺いていく

棟を押さえる箱を取り付ける

棟の近くまで茅が葺きあがる

棟の箱の上に杉皮を葺く

棟飾りまでできあがった

完成

足湯から見る棚田の夕陽

参照→中越エイド:茅葺作業(茅葺の詳細 工程)

http://jsurp.net/chuetsu/kayabuki/kayabuki.html

●茅葺の技能をどう伝えるか

次第に葺き上がるのに立ち会っているは楽しかったが、結構な労働量でもあった。重労働ではないが、工業生産的な段取りではなくて親方の経験による 現場あたりだから、なにやかやいろいろな予期せぬ作業が発生する。そこが面白くもあった。

刈り取っておく茅の量が、親方にも見当つけにくかったらしい。昨年、法末集落の鉄板をかぶせたお宅の屋根裏にストックしてあった茅をもらい、まだ足りないので親方の知り合いから買いとったりもした。

茅の量は一体どれほど必要だったのだろうか。これが一軒の大きな農家だったらこの10倍以上も必要だから、材料も手間も大変な量であると想像できる。

地元の大工棟梁も現場当たり仕事が得意だから、仲間の建築家が描いた当初の設計図どおりにはできない。サス構造のはずが登り梁に母屋となり、寄せ棟のはずが切り妻で立ち上がってしまった。

柱の上に肘木があるので古典和風デザインもじりかと思ったら、柱の寸法が足りなかったので入れたとのこと。

途中で変更も出る。足湯から眺めの良い西側の真ん中に柱が立っていたのを、景色の邪魔だからとはずしたら、揺れが大きいので四隅に頬杖を入れた。

手伝うこちらも親方や棟梁の指示が良く分からずにうろうろすることもあったが、それなりにうまくやったと自負できる。

時々はこちらなりに工夫をして、鉄骨アングル押さえの上に竹をかぶせたり、露出している番線に棕櫚縄を巻いてカモフラージュしたり、白木は茶色ペンキ を塗ったりとかしてみる。昔の人もそうやって技能を向上していったはずだし、地域ごとの個性を生んだろう。

茅葺作業には専用の道具がいろいろとあるが、そのうちに使い方が分からなくなくなるにちがいない。今回の体験は、地域の伝統的な工法を少しでも後世に伝えることをしたいとの思いもあった。

集落内に「地域の宝館」なる資料館を設けるプロジェクトもある。ここに今回の映像とあわせて道具類を保管展示すると良いだろう。

材料は、茅、竹、藁、杉皮、板、材木までは自然材料で、ほとんど地域内で調達できるが、針金、ビニール紐、鉄アングル、葦簾(中国産)は外から の移入品である。

葦簾は屋根裏の化粧であり、自主制作も可能かもしれなかったが、安い中国産を買ってきた。日よけにも吊った。

よほどの思い入れのある人か変人でないと、普通の家で茅葺屋根をもう維持できないだろう。それは山に茅がないからではなく、手間が大変だからと分かる。重要文化財か、宗教建築だけになるのも無理はない。

そういえば、猪苗代湖畔の野口英世の生家は、茅葺で維持保存されていたが、おおきな鉄の屋根がその上空にかかっていた。

→参照:野口英世記念館を見て考える保存の風景

わが人生でこんな珍しい体験ができてうれしかった。次は、現実にある茅葺の家の中に入っていって、その間取りや構造の変遷から生活の歴史を探りたいものだ。建物が語る地域の生活史である。(080730、080803修)

関連ページ→中越法末四季物語