越後・法末と阿波・祖谷
両山村の自然と生活を見る

越後・法末と阿波・祖谷

二つの山村の自然と生活を見る

伊達美徳 2005年 PDF版

 自然の中で暮らすとは、言葉としてはどこか優雅な状況を連想させるが、現実の山村の生活は自然との闘いである。緑が豊かだと自然をめでる人は多いが、日本は年間降水量1500mm、ヨーロッパと比べると3倍も降るのだから、ヨーロッパ人の文化感覚で見る自然とは大いに異なる。都会育ちの観念的な自然観から見ると、緑さえも暴力的なのだ。

 鎌倉でちょっとした山懐に生活していたが、梅雨時からの緑の萌え方は、燃えるといってよいほどに激しくなり、油断していると緑に生活空間が犯される感覚になって、怖い。
 農業とは決して自然と親しむことではなく、自然と闘い続けることであるとわかるのは、ほうっておくと畠はたちまちに雑草がはびこり、自然に帰ろうとしはじめる。畠や田んぼのような自然は実際に存在しなくて、あれは反自然の空間なのだ。自然に戻りたがる土地を無理やり畠という反自然状態に維持すること、それが農作なのである。

 こんなことを書きはじめたのも、この2005年10月、南北の二つの山村を訪ねて、これからの山村の生活について大いに考えさせられたからだ。

●北国の山村にて

 新潟県小国町(おぐにまち)は、ついこの間、長岡市と合併した。長岡市となった小国町法末(ほうすえ)集落は、昨年10月に中越大震災の被災地のひとつである。集落の住民たちの多くは、まだ避難場所の仮設住宅住まいをしているが、田畑を耕作には集落に通っている。

 一部の道路はまだ崩れているところがあって迂回路を使っているし、傾いたままの家もそのままになっていたりしながらも、道路や田畑、住宅などをとにかく元のように復旧するために動いている。中越震災地というと山古志村(やまこしむら=こちらも長岡市に合併した)ばかりが有名なようだが、こちらも実は大変なのである。

 さて、村づくりを今後どうするかという「復興」に向けては思案の最中である。もうすぐ雪がやってくる。降り積もる雪はそのままにしておくと4メートルも積もってしまうところだ。じっくりと雪に中で復興策を考えるか。

 緑よりももっとすごい自然の暴力は、地震がまさにそうであるし、豪雪もそうである。それに耐えつつ、逆用する知恵が人間にはあるので、このような棚田ばかりの小さな集落でも、人々は生きてゆけるのだろうと思う。棚田で収穫したコシヒカリを産地直売とてもとめてかえったが、じつに美味い味の飯だった。

 棚田は反自然の典型である。自然の斜面を切って水田という水平面を無理やりに作り出すのだが、そもそも自然に水平面は海面しかないのだ。そこには稲のみを生育させるのだが、自然には単一植生群はありえないので、雑草が生えてきて多様な自然に戻ろうとするのを、農薬などで自然化を阻止しつづけなければならない。

 もう高校生以下の少年少女は一人もいなくなったと嘆く老人たちがはびこる集落だが、これも種の多様性を失いつつある反自然的現象ではある。
 そこここの大きな屋根の住宅は、村の豊かさを感じさせる。もとは茅葺の大屋根がひとつだったのだろうが、今はカラーとたんをかぶせられて色とりどり、前後左右に張り出した形も色もとりどりの増築で、どこか太りすぎた老人を思わせる。集合するよりも田畑と森を前後にして点在するので、あまり大きくは感じないのだが、実はどの家も優に床面積100坪以上はあって当たり前のようだし、敷地も農地などを含めると広大だろう。

 住民の多くは兼業農家だろうが、付加価値の高い新潟コシヒカリ産地として豊かさなようだ。現に武蔵野市と提携して、棚田の米作りに都市住民を参加させて、積極的な生産者と消費者を結ぶ生産と販売方法の開拓をしている。

 観光施設としては、廃校した小学校を宿泊施設にあてているが、その施設の状況から見ても、特に積極的でもなさそうなのは、観光で食わなくとも豊かだからであろうか。

 やはり大きな課題は、高齢かがすすみ、若者がいなくなり、加えて地震災害により、今後とも集落の維持をできるだろうかということである。日本の山村の共通する課題だろうが、地震という引き金がどう働くか、それが見えないのだ。震災復興を契機にして、新たな集落の再生の道があるのだろうか。

●南国の秘境にて

 徳島県の祖谷渓谷をさかのぼって、西祖谷山村(にしいややまそん)と東祖谷山村を訪ねてきた。まだ紅葉の来ない初秋の深い渓谷にそって、2日間約40キロメートルを歩いたのである。歩けばこそ見えるものがあった。

 四国太郎の吉野川の支流である祖谷川(いやがわ)は、巨大なV字方の峡谷がえんえんと上流奥深くまで続き、めったに平地はないから、人々は細い幅の河岸と斜面地に張りつくように暮らしている。それも集落として固まることが難しい地形なので散在している。多分、集合しても支える収穫を得るほどの土地の力がないことにもよるとも思う。

 こんな山深くに人がいるのだろうかと思うほどに歩けば、名勝の祖谷の蔓橋に至る。とたんになにやら猥雑な観光地めいて来る。あばら家同然のお土産屋や高層の温泉旅館が突然道端に建っていたりするのであるが、平地がないから集まりようがない。

 実は蔓橋があるくらいは知っていたが、観光地になっているとは知らなかったので、なんと蔓橋を渡る観光客が年間30万人だそうで、こんな山奥にと、ちょっと驚いた。蔓橋ごときでこれほど人が集まるものだろうか、一体なにがあるというのか。

 西祖谷山村は人口1500人ほどの典型的な山村である。ここに西祖谷山村が策定した「地域再生計画」なるものの文章を引用する。

『西祖谷山村は、徳島県の南西部、吉野川の上流に位置し、総面積の93%を森林が占めており、地形はきわめて急峻であり、集落や農地も海抜200mから900mの急斜面に散在する山岳村で、日本三大秘境の1つに数えられております。

産業面では、スギ・ヒノキを主体とした豊富な森林資源を活用した林業が古くから本村の基幹産業の一翼を担ってきました。しかし、(中略)本村林業の総体的な活力の低下が懸念されています。(中略)観光面では、日本三奇橋の一つであり国指定重要有形民族文化財にも指定されている「祖谷のかずら橋」を有し、年間30万人の観光客が訪れる徳島県西部の観光拠点となっています。

この「祖谷のかずら橋」を核に、近年では、平成9年に温泉を利用した健康増進施設「祖谷秘境の湯」を整備し、「祖谷のかずら橋」に次ぐ本村の代表的観光拠点となっているほか、平成10年には「道の駅にしいや」を開設し、平成13年には「祖谷渓温泉ホテル秘境の湯」、平成15年には地域材をふんだんに使用した「祖谷ふれあい公園」を整備し、現在は「祖谷のかずら橋」周辺に大型バス駐車場を備えた「かずら橋イベント広場」を建設中です。』

 これに見るように、観光面に活路を見出そうとしているようだ。大歩危(おおぼけ)、小歩危観光から、祖谷渓谷観光へ、そして高知県へと抜けていく回遊コースになっているらしい。その秘境の湯とか言う温泉施設があっても、どこにでもあるにわか掘削温泉であって、どうということもなさそうだが、ここはどうも「秘境」がキイワードのようだ。

 確かにアプローチの祖谷渓谷をさかのぼれば秘境の感はあるのだが、私は歩いたから土讃線の祖谷口駅から1日がかりだったのを、車だと30分ほどである。秘境かなと、思うまもなく着いてしまうだろう。

 その秘境なるものは、東西祖谷山村のたった2本の「蔓橋」(かずらばし)という、実に素朴きわまる文化装置に支えられているのだ。そんなもの何回も見て何回も渡るものではあるまい。しかし30万人も集めるとなると、森林のほかには何の資源もない村を支えるのは蔓橋観光しかないとなる。

 これは戦術としては、なかなか秀でているといってよいだろう。温泉はほんのついでであろう。一点豪華?の一点突破主義であるので、コンセプトがじつに明快である。それが30万人を呼び込んでいるに違いない。

 この30万人がどれほど村にお金を落とし、どれほどの雇用を生んでいるのだろうか、興味あるのだがデータがない。今、この蔓橋のすぐそばの祖谷川を半分埋めるようにして、巨大なイベント広場と駐車場を工事中である。さて、これが吉とでるか、それとも、、。

●山村は観光で生きるのか

 観光の原義はいうまでもなく中国古代の書「易経」にあり、その地(国)の誇り(光)を見せて賓客をもてなすことである。だとすれば祖谷の光は、この地を育ててきた祖谷の水流の上にかかる文化交流の架け橋「蔓橋」なのである。

 その初源的なる素朴な形態と技術、そしてその架かる森林と水流の環境と合わせて総合的構成が、人々を歴史のかなたへ想いをはせさせ、この奥地まで呼び込み、不安定な足場をものともせずに渡らせる。これと同じものを東京の上野の博物館の中に復元しても、それに30万人もやっては来はしない。

 ところで地元の人々にとって、蔓橋は地域の誇りのひとつなのだろうか、単なる観光客を呼び寄せる装置なのだろうか。

 新潟県小国町法末の集落には、蔓橋のような名勝らしきものはなにもない。多年に積み重ねられた棚田があるばかりだが、そこにはコシヒカリが実り、これこそが法末の光なのである。賓客を食をもってしてもてなすに、これほどの美味いものはない。

 そしてこれは遠くの人々に届けることによってもてなすことができる。ここが、祖谷の蔓橋のごとく、そこを訪ねなければもてなしを受けられないものとは異なるところだ。逆に言えば、法末ではここを訪れても美味い飯を食わせるぐらいしか、観光となるものはないのである。

 さて、どちらがこれからの可能性を持っているだろうか。いずれの山村も、よほどのことがない限り、今後は定着人口の減少は避けることができない。そのよほどのことが何か分からないから、どこでも観光という一時的な人口導入を図るのだ。

 そのためにはせっせと観光施設というハードウェア作りをするようになる。蔓橋だけでは不安だから温泉を掘ろう、駐車場もイベント広場も作ろうということになる。上に引用した再生計画によれば、中山間地域総合整備事業(多分、農林省の国庫補助事業だろう)として交流基盤施設20,000㎡(鉄筋コンクリート2階層)であり、駐車場(大型バス34台、乗用車327台)と「ふれあい交流広場物産館」(軽食コーナー、特産品販売施設)をつくっている。

 問題は、これが蔓橋のよって立つ景観をガラリと変えることであろう。宣伝文句の「秘境」かと思いきや、来て見れば蔓橋のほとりには巨大な清水の舞台まがいの土木構造物が立ちはだかって谷を埋めようとしているではないか。あの「光」はどこに行ったのか。

 機能的にはこれらが必要なのであろうが、蔓橋の景観を損なっては光も消え果るだろうと、おしまれてならない。地中に埋めるとか、もう少し離れた場所にするとか、考えられなかったのか。

 「秘境」を秘境として売り出すと、そのとたんに秘境は秘境でなくなってくるという、秘境観光は本来的にジレンマを抱えているのだ。

 さて、北国の法末である。こちらは秘境のジレンマになるほど、地理的に秘境でもないからその売出しはないだろう。しかし、地域に活力を取り戻すためには、観光を起こすことは必然的に必要なことになるだろう。そのとき、祖谷は教師となり、かつ反面教師となる可能性を持っている。

教師としてならば、蔓橋のように、ここしかないものを一点突破、一転豪華で作り出せばよい、それはなにか、深い雪の下で考えようと、今、地元に人たちは都会からの応援団と話し合う拠点を設けたのである。

 実は祖谷の蔓橋は、一度は消滅していたものを復元したのだそうである。観光とは、そうやって掘り出し、作り出すものでもある。

 もしかしたら中越大震災が観光資源になるかもしれない。不謹慎に思われることを覚悟で言えば、地すべり崩落でばっさりと切れた道路をそのままにして復旧せず、震災警鐘エコミュージアムはどうか。

 そう、エコミュージアムだから地元の人々は震災の語り部学芸員となり、地域の文化と風土をつたえるのだ。

 と、まあこんなことが4メートルもの雪の下で話し合われるかもしれない。(20051101)

参照⇒

「中山間地論」(まちもり通信:伊達美徳)

「まちもり通信」(「伊達美徳)