東京駅の赤煉瓦駅舎復原と韓国ソウルの旧朝鮮総督府撤去2006

東京駅の赤煉瓦駅舎復原と

韓国ソウルの旧朝鮮総督府撤去2006

伊達 美徳

●撤去された韓国負の歴史の証言者

8月15日は日本では終戦記念日、韓国では光復節つまり日本の植民地支配から脱した記念日であるのだが、1995年のこの日には、韓国国立 博物館の取り壊しの儀式が、政府要人や5万人もの市民が参加して行われた。中央ドームてっぺんの尖塔を、首切りのごとく切り落としたのだった。

なぜこれほどの大仰な儀式となったかと言うと、この博物館の建物は、日本による植民地支配の中枢たる旧朝鮮総督府の庁舎だったからだ。当時のキムヨムサ ム大統領が「日本帝国主義の残滓は一掃するべきだ」と決断をくだしたのだった。1996年にはすっかり姿を消した。

1926年に竣工したこの建物は、WEBフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば次のようにある。

「朝鮮総督府の建物として今日よく知られているのは、景福宮内部を破壊して造られ1926年に竣工した巨大な庁舎建築である。日本で事務所を開いていたド イツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計を行い、デ・ラランデの死後、日本人建築家が完成させた。風水思想に基づいて造営されていた景福宮(朝鮮王 朝の王宮、皇宮)の敷地内に建てられ、4階建てで中央に大きな吹き抜けを持つ重厚な建造物であった。

日本軍は宮殿正門の光化門を撤去し、宮殿内部を破壊し宮殿正面に総督府庁舎を建て、征服者が日本だということを示したため、街からは宮殿は見えなくなっ た。このことは、日本という征服者により韓国という国が消滅した屈辱の歴史の象徴とされている。

1948年8月大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は政府庁舎となり、中央庁と呼ばれた。その後、旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、 歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論が行われたが、韓国の国立中央博物館として利用されることになった。その後も、屈辱の歴史の象徴である ことには変わりはなかったため、保存か解体かの論議はしばしば再燃した。

最終的には、かつての王宮をふさぐ形で建てられていることから、反対意見を押し切って、旧・王宮前からの撤去が決まった。移築も検討されたが、莫大な費 用がかかるため、1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は全て解体された。尖塔部分は現在は天安市郊外の「独立記念館」で展示されている。跡地には庁舎建 設によって取り壊された王宮の一部が復元され、現在は同宮の正面入口となっている」

このようにこの建物は韓国人にとっては癪の種であったのだが、では全ての植民地時代の建物が撤去運動対象かといえば、そうではなくて、市庁舎や駅舎など その当時のものを大切に修復して使っている。この建物が取り壊されるには、それにはそれだけの理由があったのだ。

実は、この建物についても東京駅のごとく、長い間に何回も撤去か保存かの論争があったのだ。純粋に建築物としてみれば、確かにアジアの近代における様式建築のマイルストーンにもなるものと評価される高い質を持っているのだ。

だが、その出自が日本による支配の出先機関総督府という、あまりにも韓国にとっては癪の種だし、さらにまた立地と景観が旧王宮・景福宮と正門の間に立ち はだかるという、これまた民族感情を踏みにじっているのだ。もっとも、植民地統治の側からの論理では、まさのそれがふさわしい立地であり景観であったとい えよう。

だからこそ壊せという世論は起きるのは当然のことであるが、一方で、だからこそ保存せよ、という声も公然とあったようだ。

朝鮮総督府として使われた期間18年よりも、その戦後の米軍政庁舎、その後の韓国中央政府庁舎、国立中央博物館と変転して使われた時期のほうがはるかに 長期であることもあって、マスメディアによる世論調査でも、あるいは文化人たちの声も、近現代史を見つめる記念碑として、移築しても保存するべきとの声も かなりあったようだ。

1990年代から、歴史教科諸問題などで日韓摩擦が起きたりしたこともあって、大統領がその撤去を決断したのだった。韓国の人たちが、植民地化という悲 惨な歴史の記憶の象徴を消滅させるにあたって、最後は大統領が登場して政治的な判断とせざるを得なかったほどに激しい論争を経たのだった。

それに対して私たちは、太平洋戦争という悲惨きわまる記憶の記念碑たる東京駅赤煉瓦駅舎の今の姿を消すにあたって、それについてなにも論議どころか検討 した形跡も見られないのは、これは単に国民性の違いなのか、それともこの比較をとりあげる私がおかしいのだろうか。もしも私が韓国の人だったならば、だら こそ保存せよとする論だったことになる。

東京日本橋の上空高架道路撤去の話題が、ソウルのチョンゲチョンに刺激された形跡も幾分かあるので、もうひとつの刺激をここに載せてみたのだ。

(写真は旧王宮内にたちはだかる在りし日の旧朝鮮総督府庁舎)

●撤去か保存かーゆれる歴史景観の保全

この旧朝鮮総督府庁舎が、撤去と保存の韓国のでの世論もゆれて、結局は撤去となったのだが、まさにこれは景観というものの本質をつく問題である。これの世論のゆれについて、日本の新聞報道(朝日、毎日)を追ってみる。

実は民主政権の慮泰愚大統領が登場する以前の軍事政権時代には、この建物は「歴史の生き証人」として重視され、保全されて来たのだそうである。

1991年1月22日に「旧朝鮮総督府を壊す計画」として当時の李御寧文相が慮泰愚大統領に報告したその年度の主要事業報告で明らかになったと報じてい る(朝日)。既に日本からの独立直後から韓国内で、植民地時代の象徴だから取り壊せ、いや侵略された歴史的事実を残せとの論争がありながらも使われてきた とある。

1993年8月9日に金泳三大統領が、「民族の輝かしい遺産を旧総督府に保存するのは間違っている」と、国立博物館として使われている旧朝鮮総督府の建 物を解体することを発表した。つまり91年から未だ取り壊されていなかったのだ。これには展示物を引き継ぐ新国立博物館の建設時期の問題もあったようだ。 そして次の94年6月16日、いよいよ撤去を来年の8月15日に始めると発表した。つまりその日は植民地解放50周年の独立記念日である。そして撤去工事 の入札もしたのであった。

しかし、実は新博物館の見込みが立っていないままであるために、単に民族感情に便乗する政治的演出であるという撤去反対の意見も雑誌「月刊朝鮮」に出された(毎日941206)。

1995年8月4日の毎日新聞には、「記者の目」(薄木秀夫・ソウル支局)の解説記事があり、移転保存論もあったが結局は少数意見であったようだ。ここに広島の原爆ドームの例を引きながらこの撤去問題を論じているので、そこをかいつまんで引用しよう。

原爆ドームはいまや世界に「ノーモア・ヒロシマ」を発信しているが、実はこれも撤去と保存でゆれたときがあった。1965年、崩壊の危機になっていて補 修が必要になったが、財政的に難しく、また一部の被爆者は見るのもイヤという声も出て、保存か撤去か世論を二分したことがあった。

結局、募金運動が展開されたことで補修費用が捻出されたことで保存となったが、決め手になったのは原爆の悲惨さの永久の語り部となってほしいという市民の熱い支持であったという。

いまや世界遺産となった原爆ドームには、このような背景があったのだ。悲惨な太平洋戦争の語り部は、もう原爆ドームだけになったようだが、どっこい、東 京駅赤煉瓦駅舎が東の語り部なのであるのだ。それも忘れ去られてきつつあるが、戦前の形に復原すれば影も形もなくなるのだ。

朝鮮総督府に話を戻すと、その撤去の足場も組みあがった1995年8月5日の「朝鮮日報」の第1面に、建物を保存せよとの意見広告が載った。意見をだし たのは、識者たちでつくる「国立中央博物館保存のための市民の集い」で、撤去は大統領が言う民族の意気の回復ではなく、植民地当地の証拠を隠滅する韓国現 代史の抹殺であり、撤去費と新博物館建設費は浪費であり、新博物館建設眼の撤去で現保存文化財の破損を招くというものであった。10日は反対集会もあっ た。

そして8月15日、劇的演出として爆破破壊せよという意見もあったが、結局は尖塔の切断という撤去開始の儀式が、大統領も出席して5万人もの市民とともに盛大に行われたのであった。

ところが1996年夏から本格的に撤去が始まる前の6月、「日帝侵略史博物館」として移転保存すべきという詩人の金芝河など文化人の意見が「朝鮮日報」 に紹介され、一種の保存キャンペーンとなったが、これに対して「親日派の仕業」という反日派団体からの声明が出たのだった。

96年6月1日の毎日新聞には、その前年の歴史・考古学者150人への世論調査で、移転保存45%、完全撤去38%、現状保存17%であったことが報じられていて興味深い。

いまはかつての王宮の景観が復原されて、まさに現代史から替わって近世の歴史的景観となっている。

上:1988年当時の旧朝鮮総督府、下:撤去された旧総督府跡地、景福宮が見渡せる

(毎日新聞961126より引用)

●景観とは心の風景

ここに載せた旧総督府庁舎撤去前と撤去後の写真を見ると、実にこの景観の本質がよく分かる。光化門と景福宮正殿の間に立ちはだかっていた旧庁舎の、王宮 の建築群とのあまりの差異に驚くほかない。王宮を占領した日本軍(総督は初代から常に軍人だった)の強圧的な姿勢を余すところなく景観として表現してい る。近代の植民地統治の景観としてこれほどに訴求力があるのは、ある面では見事というほかはない。

それゆえにこそ、現代韓国民としてはこの景観の保全を肯定することができず、旧庁舎の撤去となったことが、痛々しいほど分かるのである。保存論者のおおくが移転保全であったことも、よく分かるのである。

旧庁舎が建築物としてどれほど見事であろうとも、景観としては物理的にもあまりにも調和を欠いているし、それよりもなによりも植民地化した時代の屈辱的 なシンボル建築であったという、韓民族の心の問題としてソウル市民のあるいは韓国民の風景とはなりえないのであった。このように、景観とは心の風景でもあ るのだ。

だからわたしは東京駅の復原保全について、戦争と戦後復興のあの悲惨な時代の証言者という、心の風景としても重要な今の形の保全を訴えているのである。

東京駅赤煉瓦駅舎において、復原か現状保全かの論が話題になりにくいのは、広島の原爆ドームほどに悲惨さについて視覚的訴求力がないからだろう。それは つまり戦災後の復旧デザインのあまりの旨さに、昔からあの形と人々に思わせているからとも言える。もしかして、これを復原したとしても、そのことにほとん どの人が気がつかないかもしれない、とさえ思わせるのである。

それに比べて、この朝鮮総督府の風景は、景福宮に立ちはだかる傍若無人さ(もちろんそれは意識してのことであった)、王宮建築とのプロポーションの悪 さ、建築様式のあまりの違いは、東京日本橋の上空に覆いかぶさる高架道路の傍若無人さと実によく似ていることに気がつく。ついでにいっておくが、日本橋ば かりではなく常盤橋についても同じことなのである。

そして朝鮮総督府のような意図した傍若無人ではなく、こちらはまさに無神経の故に傍若無人な風景を作り上げたのであった。その後にこれはいけないと気がついて、綻びをつくろうような「美化工事」をするものだから、ますます妙なものとなってきている。

東京駅赤煉瓦駅舎復原、日本橋上空高架道路撤去、三菱一号館レプリカ復元等の歴史的景観の復元、特に現代史のそれとは何かについて、ソウルの旧朝鮮総督府庁舎撤去そして広島原爆ドーム保存の経緯は、重要な示唆を与えてくれるのである。

東京駅赤煉瓦駅舎復原に関しては既に始まっているらしいが、撤去の前に現在の形態の現代的意義について、きちんと評価をしてほしいものだ。仮設建築だっ たから(60年も仮設か)という一片の考えで、現建築の形態を改造しては、抹殺される戦後日本の現代史が泣くのである。近現代建築の重要文化財とはいった い何であるのか、問いかけているのである。

ところで撤去された旧朝鮮総督府庁舎の尖塔は、その後どうなったか。ソウル郊外にできた新国立中央博物館にもっていって、他の建物残骸の一部とともに庭 に植民地モニュメントとしてしつらえてあるそうだ。まさに歴史の重みに耐えかねて崩壊したのが、この総督府庁舎であった。(20060411)

参照⇒東京駅復原反対論考集