若狭:能舞台を求めて村里を巡る

若狭:能舞台を求めて村里を巡る

文・写真:伊達美徳

若狭へ行くと言ったら、何を思いつくだろうか。

日本海のリアス式海岸での海水浴や三方五湖観光か。それとも原子力発電所か。事故で名高い原子炉とおなじ「もんじゅ」という特急列車も走る。

旅の通なら鯖街道歩きだろう。もっと通になると…、能楽の舞台を訪ねての村里巡りだ。

小浜を治めた酒井氏の殿様が若狭能のスポンサーだったから、この街には立派な能舞台がある。最も古く由緒ある八幡神社に、2間半四方の本舞台、1間半の後座、長さ5間の橋掛りがつくという本格的なものだ。

いつもは板戸で囲ってあり、9月14・15日の例祭の放生会のときだけ松の絵のある舞台が姿を現すのだが、能楽が演じられることは久しく絶えていた。

ところが今年4月5日に、若狭に伝わる壬生狂言がこの舞台で演じられ、神社境内を湧かせた。江戸時代にここで市場が開かれて余興に狂言が演じられたそうだから、里帰り公演である。そのイベントの背景には、ボランティア市民たち「若狭を謳う会」(上原徳治代表)の活躍がある。

京都の壬生寺に伝わる有名な無言劇が、小浜の小さな集落の和久里にも伝わっているのだ。継承する住民たちの努力も大変なものであるという。

八幡神社は小浜の街発祥のかなめの位置にあるから、このあたりの町並みは歴史を感じさせる。山際の寺社群は緑を背景に美しいし、色町だった三丁町界隈の出格子や紅殻格子の町並みは風情がある。

古い商家の町並みは、いろいろ乱れていて首をかしげるかもしれないが、じっくりと見るとなかなか面白い。平入りで2階袖壁などの一定の約束事をもって家を建てたことが見えてきて、町並みに秩序感をもたらしている。

表は看板類で隠されていても、その後に実に立派な伝統的な家があることも多い。まちなみ発見を楽しめる町である。

京文化への縁の深さを

世阿弥とサバが証明する

室町時代の1434年のこと、世阿弥元清が暴君将軍足利義教の怒りに触れて佐渡島に流刑されたとき、ここ小浜港から船を出した。72歳のときだった。

世阿弥は足利義満の庇護を受けて、作家、演出家、俳優、理論家、教育者として、600年ちかくも能楽スーパースターの座を降りない人だ。

それにしても、現代とは比べものにならない超々高齢者だから、どんな思いで船出したのか想像もつかない。

世阿弥はこれ以前にも小浜を訪れているようで、京文化に縁の深い地なのだ。 さて、小浜に来たら鯖を買っていこう。むかし冷蔵庫なんてない時代、若狭でとれた鯖を腐らないように塩をして、鯖商人が背にかついで南に京へと運んだ。

京に着く頃ちょうど食べ頃の塩かげんになる。それが若狭名物となり、鯖街道ができたという。とすれば、塩サバは京都で買うべきか。でも、今の小浜の丸焼きサバも美味しい。

思い出したが、甲府名物の煮貝というアワビの醤油漬けがまったく同じようで、食文化は面白い。

名田庄村の能舞台に

応仁の乱の昔が偲ばれる

小浜の南に名田庄村がある。茅葺き屋根の美しい民家群が美しい山間の集落である。

夫だが、伝統芸能保存は芸も装束も面も並大抵の努力ではないようだ。

美浜町宮代の弥美神社のお祭で、倉座の能を見た。風祇能と名づける神事で、その時の見物客はたまたま東京からきて出くわした私たち数人だけだった。昼間のガラーンとした境内の舞台で、謡う人も舞う人もただただ神に捧げるための能の、見せ物でない素朴さに胸を打たれた。

なんだか大昔に猿楽といわれた能の原点をかいま見た気がして、ショー化した都会の薪能と比べたのだった。

寂しいが美しい農村

賑ぎわうが醜い漁村

それにしても夏の若狭を巡ると、村里の風景が明るいのに、どこか哀しかった。 山村集落は、狭い平地が谷沿いに奥まで続いて、夏の田圃は青々と豊かだ。その向うに茅や瓦の大きな屋根が、森を背負って風景にはめ込まれている。

日本の美しい農村風景の典型なのだが、あまりにも静かすぎる。滅多に人に出合わないが、出合うと老人ばかりで、子供の声が全く聞こえない。

その反対に、入り江にへばりつく漁村集落は、子供の声で一杯だ。派手な水着の若者もウロウロしている。今ちょうど夏休み、海水浴客で民宿は稼ぎ時だ。

それにしても漁村集落の醜さはどうだろう。わが家の庭先に民宿客間をにわかづくりでつぎ足し、負けずに客引き看板を派手に出す。そうでなくても狭い平地の漁村集落は、見てられない風景だ。

奇妙な日本的図式に

はまりこんだ風景が

では、若狭は貧しいのかといえば、実はそうではないらしい。どこの町も村も、道路や公共施設が立派なのだった。

それは多分、原子力発電所という特別な施設からの見返りなのだろうと容易に想像がつく。ある神社の境内には、空中の放射能測定機の箱が立っていた。

寂しく美しい農村と賑わう醜い漁村、能楽という権威と民俗の狭間の芸能、原発というエネルギーと環境の狭間の問題児など、どこか奇妙な日本的図式の中にはまり込んでいる風景が見えてくる。

それがなんだか哀しくなるのだった。そしてそれが若狭の魅力になっている。そうとしか思えないのだ。

若狭の歴史を背負う小浜に

町並みと能舞台を見る

若狭で一番大きい街は小浜市である。酒井藩の城下町だったし、北前船の商港として栄えた。

が複雑で、入江や谷あいの狭い囲まれた平地ごとに集落が独立してできている。若狭県といいたくなる。

若狭のどの町や村にも、森に囲まれた神社がある。境内には本殿のほうに向いて能舞台が建っていることが多い。

四本柱で支える屋根は茅葺きや瓦葺きでも、舞台は吹き放ちで風雨にさらされながら誰かが舞う時をひっそりと待っている。

今はひっそりだが、江戸時代はこの地方を治めた酒井の殿様が能を大好きだったので、村や町で能のクラブ(座という)を結成し、どこの神社でも盛んに演じた。

いちばん華やかだった江戸の一時期には、若狭一帯で年に80回ほども演能したので、プロ集団もいたほどである。

地域伝統の能楽を

今も守り続ける能楽の集団

時代は変わって、今では演能は多くて年6~7回ほどだろうか。それでもまだ若狭には能を舞う人がいる。

倉座という昔からの能楽集団が継続している。三方町の今井靖之助さんがリーダーの倉太

村里ごとの神社に

ひっそりと待つ能舞台

実は、若狭は日本の古典芸術の「能楽」の名所である。正確には、むかし若狭能といわれるくらい能が盛んだったので、今でも能舞台が各地に残っている。100棟くらいはあるらしく、密度日本一かもしれない。

若狭は福井県だといわれてもピンとこないほど、西に張り出していて独立的だ。しかも地形

この村には11棟もの能舞台がある。なかでも加茂神社の能舞台は、深い鎮守の森の中に四本柱が厚い茅葺きの屋根を支えながら、その背後の石段の上にある本殿と向かい合って立っている。

神社の近くの民家では、ちょうど茅葺き屋根の葺き替えをしていた。維持するのは大変だろう。

この名田庄村は昔、京の有名な陰陽師の安部一族が、応仁の乱を逃れて来た地で、今ではゆかりの施設がある。安部家の始祖の安部晴明は、魔物をペットにして使ったという伝説をもつ平安京のトリックスターだ。

なんと古い話だ、この辺りでは、この前の戦争とは千年昔のことか。そう思いながら見回すと、あたりが能狂言のおどろの世界にも見えてくる。

ものいわぬ動物たちが

どこでも迎えてくれた

能舞台巡りで若狭の各地の神社を片端から訪ねたが、別の面白い発見でつい脇見してしまった。それは、境内に棲みついてる「ものいわぬ動物たち」だ。

竜、犬、狐、猿、牛、馬など、神の使者なのか番兵か知らないし、どなたの手になる作品なのかも存じ上げない。

石や銅あるいは木造のおからだで鳴き声はないが、彼(彼女?)たちは実に豊かな表情で迎えてくれるのだった。

おなじみの狛犬さんは、ア、ウンと鳴きながら、風化してお顔も定かでない超高齢者から、お口が真っ赤な生まれたてまでそろっている。親子狛犬も発見した。

不思議だったのは、一体なんという動物がわからぬものも数多くいたことだ。それらは本殿の縁や裏に鎮座ましますことが多いのだが、どれも魅いられそうな愛嬌と神秘のあるお姿だった。(もっと動物みたいならここをクリック)

若狭はいろいろな意味で奥が深そうだ。

(この稿は、雑誌「まちなみ建築フォーラム」のために書いたものであるが、廃刊となって掲載されなかった。1997)