戦後復興街並みをつくった市井の人々- 書評:初田香成著「都市の戦後‐雑踏の中の都市計画と建築」

戦後復興街並みをつくった市井の人々

書評:初田香成著「都市の戦後‐雑踏の中の都市計画と建築」

伊達美徳

●戦後がようやく歴史に

わたしは今は横浜都心に住んでいるが、徘徊老人の散歩で歩くこのあたりには、戦後復興の「防火建築帯」が今も現役で、街並みを構成している。

それら地味な建築群は、何の評価も与えられずに、次第に建て替えられていくのを見ていて、あの何もない時代にこれを建て続けたこの街の人々の努力を、なんらかの記録だけでもしようとは、誰も思わないのかと気にしていた。

そのようなところに、戦後都市復興を都市と建築を結びつけ、それを成した過程で現場に登場する人々、特に民側にも目を向けた立場から書いている本が出た。 この類のものは、これまでは制度と事業の結果を書いたものがほとんどであるに比べて、私自身が現場で生きてきたので興味深く読んだ。まさに私自身の社会での成長史を読むような気分になったある。

戦後66年、どうやら戦後も研究対象となる歴史になってきたらしい。ということはわたしも古老になったということでもある。やむをえない。

表紙の新橋駅烏森口の広場前のごちゃごちゃ街並みが懐かしい。

あの頃に現場に身を置いていたものにとっては、その後の若者が歴史としてこれを叙述するのを読むのは、これを読むいまの自分とあの頃の自分の間を時間航行する気分になった。

●うらやましい父子鷹

序章の出だしに吉祥寺の街の図が出てくる。著者は、自然発生的に構成する雑踏の街、吉祥寺のような街の土地と建物のありようの成立を追いたいというのだ。

実を言うと、わたしは1970年前後の30歳台前半を吉祥寺防火建築帯の現場に入れこんでいた。だから、どのような分析がでてくるかとひも解いたのだが、本文にはなくて期待が外れた。

著者は吉祥寺が自然遷移的にメタモルフォーゼしているととらえているようだが、わたしがやっていた仕事はまさに街を人為的に街を動かすことであった。できはよくないが街の将来像マスタープランもあったのだ。

結果が計画的に見えないのはよいのか悪いのか、これも含めて吉祥寺まちづくりの歴史的研究は既にあるのだろうか。著者には次はそれを書いてもらいたい。

序章に著者の研究の視点が書いてあるのだが、先行研究者のひとりに初田亨氏の名がでてきて、そうか、父君の都市研究の戦後版であるか、それにしても幸せな研究者親子であると,羨ましく微笑した。

●石川とともに鈴木も

著者は石川栄耀に思い入れがあるらしく、第1章「東京戦災復興計画と実現した空間」でたびたび登場するばかりか、第3章はまるまる石川論である。

露天商の整理の結果は、上野公園にもぐりこませた西郷会館や、渋谷川を埋めた上に持ってきたのんベい横丁とか、三原橋の下の商店街とか、盛り場の現場に入ってこれほど面白い仕事をした人は、役人では見当たらない。

その石川の意気込みは、第8章の新橋西口市街地改造事業に見る社会と空間にあるバラック飲み屋のビル内再現に引き継がれたとすれば、面白いことである。なお、大阪豊中では市場をこの形で入れた防災建築街区を早い時期に実現している。

石川を語るときに新宿歌舞伎町のことははずせないが、ここに鈴木喜兵衛という人物がいた。

重要なる役割を果たしたのに不幸にも消え去るのだが、彼に筆がまわらなかったのは、ほかにこれを書いた先行論文があるのだろうか。

もしそうだとしても、この書物はもう学位論文ではないのだから、市井の人のまちづくりへの意気込みを、著者の目で紹介してほしかった。鈴木は「歌舞伎町」という興味深い著書をのこしていて、わたしも持っているのだが、別の角度からも鈴木のことを知りたい。

同様に、全体に抑制した事実に徹する書き方からもう少し外れて、著者の批評眼もほしかった。次の著述に期待する。

●創宇社の今泉登場に喝采

わたしは1961年に社会に出て、初めての仕事が大阪立売堀の建築防火帯の建築の工事管理であった。設計にはタッチしていないから、計画段階は知らないが、考えると戦後不燃都市への記念すべき仕事であったのだ。

*参照→40年目の立売堀防火建築帯は健在

https://sites.google.com/site/machimorig0/itachibori

第4章「都市不燃化運動の生成と伝播」には、この防火建築帯の元になった耐火建築促進法の制定への業界の動きを追っており、わたしの社会への出だしの背景を教えてもらった。

今泉善一をひとつの章として採り上げてあるのに、わたしとしては感激した。

今泉善一のことは、不燃研の建築家として全国で防火建築帯をたくさん設計した人としてある程度は知っていたが、全く違うことを調べていて創宇社建築会メンバーとして登場してきて、その結びつきがはじめは不思議だった。

池辺陽と今泉との関係も不思議に思っていたが、この本で分った。

今泉と不燃研のことなどは、わたしも小町和義氏に聞いている。この本にも出てくる小町治男氏の兄である。

*参照→二人の建築家の戦中戦後

https://sites.google.com/site/machimorig0/komachi

石川と並んで今泉に大きく光を当てた著者に喝采である。実は今、若い研究者に創宇社建築会メーバーのその後を追ってくださることを期待しているのだ。かなり興味深い日本社会の深層がそこから見えそうなのだ。

不燃建築が今泉ならば、再開発は藤田邦昭となるだろう。次は藤田に光を当てることを期待するが、この役割は関西圏の研究者だろうか。

●大阪RIAのこと

補章「民間デベロッパーと再開発コンサルタントの誕生」には、わたしの名前も出てきた。ここは当事者として言うべきことがある。

RIAは60年代までは「住宅のリヤ」といわれていたのだ。それが今の「都市開発のRIA」になるには、その出だしは確かに大阪RIAの立売堀の建築防火帯事業であった。

わたしが社会に出た最初の仕事が、大阪のRIAでの防火建築帯事業の立売堀の現場であったが、それが後のわたしの都市計画への道となったわけではない。その数年後の群馬県太田とそれに続く吉祥寺の防災建築街区造成事業から、だんだんと都市へと傾いていった。

*参照太田:わが30歳の大仕事・南一番街の30年後の大変貌(2001)

大阪RIAが防火建築帯のような、大勢の建築主の意見をまとめてひとつの集合建築にする仕事をした理由は、営業基盤が薄くて建築設計の仕事がないところに、そのころ大阪府庁が防火建築帯事業をやりたかったが面倒なこれをやる建築家がいなくて、ちょうど支所長として東京からやってきた植田一豊さんがその才覚でこれに取り付いたということであろうと、わたしは見ている。

これには椚座正信氏と藤田邦昭氏が外と内で大きな役割を果している。

著者が渡辺豊和氏の著書から引用して、植田が山口文象とは異なる仕事をしたいという意欲があったから(389ページ)というのは、渡辺氏の言が当っていないと思う。植田一豊はとっくに山口文象を超えていたはずだからだ。

その頃、世に喧伝されていた先鋭建築家としての山口のイメージは、植田が実質的に率いるRIAという集団が生み出した幻影であり、実際は古典的な建築家を一歩もでない人であった。

植田は、多様な人々を相手とする共同化という再開発の仕事を、彼流の理論化して若手を育て、建築デザインへと昇華していった稀有な才の人であった。

●RIAと再開発

渡辺さんの著書からの引用の件では、もうひとつひっかかるところがある。

当時のRIAでは商業地の仕事に「たかがスーパー」という気持ちが事務所内にあったと渡辺は「証言している」として、当時のコンサルタント業務の不安定さの論拠としている(394ページ)。

その不安定さは事実としても、引用の仕方が違うと思う。

渡辺さんがその著書に書いているのはコンサルタント業務のことではなくて設計のことだし、設計にも「たかがスーパー」の雰囲気がRIAにあったとは、わたしは知らない。

総じて設計バカといいたいほど、原価意識もなくて何でもかでもがんばってしまっていたほうだろう。下手か上手いかは別として。

つい最近、RIA社員の会で昔を語る座談会を近藤正一さんとやったのだが、その中での近藤さんの今だから言える言葉を紹介しておく。

「住宅に代わって防火建築帯からはじまっていた再開発、要するに集合建築ですよね、それが多くなってくる。ああいう大勢を束ねる仕事って、それはものすごい時間もかかるし、どうなるか分かんないからね、やっぱりものすごい不安がありましたよね。

今のこんな都市開発の盛んな世の中になるとは思わなかったですね。だから、当時はその間にとにかくどんどん建築の仕事を何でも増やしていって、都市開発に対して僕は銃後の国民というかな、戦争へ出るのは再開発の連中で、われわれ銃後はとにかくできるだけ割合のいい仕事を取って、役所の仕事でも民間でもいいから、割合と単発で早くお金になるような、そういうのをやろうっていうので、それをかなり頑張ってやりましたね。

それでないとつながらないのですよね。再開発のひとつひとつが延々と長く続くから、そういう時代もありましたね」

RIAの不安な最前線は1980年頃からようやく自力でも食えそうになり、建築と都市の2部門の組織にしたのも、その頃であった。

●再開発事業の施行者

結章「戦後日本の都市の位相」の最後に、新橋バラック飲み屋街の公共施行再開発事業が、スラムクリアランス型ではなくて日本的な飲み屋街再現開発となってことについて、著者はこれが「公的主体が都市再開発から手を引く一因となった」としている。

だが、本当にそうだろうか。

たしかに再開発事業の施工者の数の比率では公共団体は減るのだが、その後も公共団体施行再開発事業は各地で成されている。

民間施行の再開発事業が、権利輻輳が少なくて採算のとりやすい立地でしか行なわないのに対して、数は少なくともやるべきところで公共団体施行は行なってきている。この「やるべきところ」が重要である。

生前に藤田邦昭がよく言っていた。「近頃はやりやすいところばかり再開発事業に仕立てよるわ、これは間違っとるで」

この動機の差が、都市再開発のその後のありように問題をもたらしてきていると、わたしは思っている。

著者は今後は再開発法以後をテーマとして取り組むならば、このあたりの分析をぜひお願いしたい。

●市井の街並み探求への期待

初田さんの研究のおかげで、どうやら1950年代から60年代が、都市建築の歴史に組み込まれようとして、評価の対象となりつつあるのは嬉しいことである。

戦後復興の都市建築は、市井の人々が自分の資力で、市井の建築家を使って、市井の街並みを作ってきたのである。その市井の景観とそれを作り上げた背景が論じられる時代が、ようやく来たことをとりあえず喜ぼう。

都市再開発は西から東へといわれるように、関西では早くからいろいろな再開発事業があった。そこには関東では見られないような工夫もあったというから、次は大阪物を著者に期待する。

そして地方都市の都心部でちょくちょく出くわして、懐かしいような気持ちで眺める防火建築帯や防災街区の建築群についても、その地域なりの再評価をされることも期待するのである。

最近、横浜都心の防火建築帯についても、再生的修復して使いこなす動きもでている。それはストック重視の時代の動きによる建築の再評価もあろうが、戦後復興建築にかけた市井の人々の意気込みの再評価もしてほしいものだ。 (2011.08.03)

*参照→日本の都市再開発史におけるコンサルタント

https://sites.google.com/site/machimorig0/saikaihatu-consul

*参照→◆前現代期都市建築の遺産価値について―その設計者として―(2012.09)

https://sites.google.com/site/dandysworldg/zengendai-tosikentiku