だれもが都市計画家になろう
ー暮らしの場にはいつも都市計画がー
2001年夏
伊達 美徳 DATE,Yosinori
建築史を学んで社会に出たが、それでは食えないのでたまたま防火帯共同建築を手がけ、防災街区、都市再開発とやるうちに、都市社会の真髄の協同まちづくり現場に。一方で都市計画から企画・政策へと上流に遡行。ニュータウンと郊外開発を目の敵に、既成市街地再整備一筋苦節40年、ついに会心作「ウェルシティ横須賀」(一生暮らせる健康生活都心)に至る。今年6月からNPO(認証申請中)日本都市計画家協会・常務理事兼事務局長なるボラパシリ(ボランティア使いっ走り)。
候補者は都市プランナー
今年千葉県知事の選挙に、都市プランナーの肩書きの候補者、若井康彦さんがいた。結果は惜敗だったが、都市プランナーという肩書きは、選挙では始めてかもしれない。その若井さんに、選挙の後で話を伺う機会があり、肩書きがはどのように選挙民にとらえられたか聞いてみた。
結論から言えば、総じてプラスには働かなかったそうだ。わかったことは、都市計画という言葉からは、緑を壊す開発行政、不動産業界の儲け仕事、無駄な公共投資などを連想させ、また都市という言葉そのもののイメージも決してプラスイメージではなかったようだ。全県をまわった彼のとらえた皮膚感覚だから、これは確かだろう。
とすれば、都市計画家なんて悪徳不動産屋の手先と思われているかもしれぬとは、わたしの慨嘆である。
実に、ゆゆしきことである。千葉県だから現に「都市」住民である選挙民がほとんどだろう。それがそう感じているならば、かれらの自己生活圏の否定ではないか。
ポピュリズム都市計画
日常にテレビを見ない(見放した)からよく分からないが、ジュンちゃんとかマキコとか、それにアユとかヒカルとかいう政治家?が今のテレビの人気者らしい。それが新聞で読むと、なんと都市再生なる重要政策を出しているではないか。
ここで出てくる都市は、千葉県選挙民の考える都市とは違うのか。いや、ポピュリズムには、政策よりもムードで、都市なる言葉をだれも見ていないのかもしれない。
人口8万人のある地方都市で2年前、これからの暮らしの場について市民にアンケートしたことがある。郊外開発地がよいか、整備した中心市街地がよいか、その回答のなんと3分の2が郊外を選んだ。
ご多分にもれずそこの中心市街地は空洞化、郊外田畑はミニ乱開発の連続、バイパス道路沿いは醜い商業風景が続く。でも、というかだからと言うか、郊外開発を望む市民の声に応えているらしく、都市計画で白地地域になんの開発規制もしてない。
また別の人口8万の地方都市。県立病院が街の真ん中にあるが老朽化したので建て替える、ついては大駐車場を確保するために郊外の田んぼの中に移転したいという。おなじみ空洞化と高齢化が進むが、それでも中心部に最も多くの住民がいるのはかわりはない。
まず反対の声をあげて、高齢社会では日常生活の場の中に病院が必要であるとうたったのは中心商店街である。だが地元新聞には、商店街が衰退するから病院移転反対の声、と書かれてしまった。さて、これからどうなるか、市民の見識と力量が問われている。
貧して貪する都市計画
公共事業の発注方式に、インタネット入札がもてはやされている。建設業社が談合し難くなって何十億円か節約になったという記事が新聞に出る。一方で、コンピューターソフトウェア開発では、予定価格数千万円が十円とかで入札されて決まることもある。税金が助かったと役人は言う。
どこか、おかしい。そもそも安ければ市民は得するのか。建設業だって損してやらないだろうから、どこか手を抜くだろう、十円入札にはなにか裏があると思うのが普通の庶民感覚だ。
ある公社が大規模都市開発について、基本計画だけ決めて、その後は建設工事完成まで一切を提案型入札した。安くきまって喜んだが、事業が進むにつれて発注者側の考えとのずれが大きくなり、どんどん追加を出さざるを得なくなった。結局は安くはなかった。
発注役人には、事前に判定する能力と、事業になって監視する能力を問われているはずだが、果たしてやっているか。
都市計画のように、これからどうするか到達点がわからないので考えようという仕事を、一定の技術水準への到達点が決まっている建設工事と同じように、入札でプランナーを決めるようになってきた。
全国で今中心市街地活性化基本計画が作られてきている。いくつか見たが、ほとんど同じ内容で、都市名さえ変えれば全国どこでも使えそうなものもある。それよりはましだが、都市計画マスタープランにもおなじような感もある。おざなりのアンケートで市民参加の体裁をつくろい、現状を縫い合わせて計画のごとく見せる。
それで作る街に住む市民は、それで良いのか。貧して貪する都市計画である。行政も専門家も、そして市民も、もっとしっかりしなくっちゃ。
だれもが都市計画家に
そもそも都市計画に専門家が要る(居る)のだろうか。都市計画とは市民誰もの日常生活圏を規定する生活の約束事であり、人間が土地の上で生きるかぎり生まれたときから都市計画というお釈迦さまの手のひらから逃れられない運命にある。
それは生まれたときから人間はものを食って生きてきたのに似ている。だれも食事の専門家とか、生きる専門家などといわない。自覚しなくとも食事の専門家であり生きる専門家だ。その生きる専門家として、都市計画家だってあるのだ。
もちろん、料亭料理人とか家政学教授とかの専門家はいる。それと同じように都市計画官僚もいれば、都市プランナーという職業で生計を営む専門家がいる。
だが、都市計画に関しては、例えば医者とか科学者のような専門家とその他大勢という、段違いの関係ではない。都市計画専門家とその他大勢との境目は、ある日主婦がコックになって家庭料理風レストランを始めるごとく、かなり怪しいというべきである。かく言う私だって、出自は相当に怪しい。怪しくても、どうどうと(?)都市計画家と名乗っているのだ。
そもそもを言えば、日本の近代都市計画が、道路やら河川やら区画整理やらの土木事業技術だったことが、日本の都市計画の出自を誤らせたのだ。もちろん、それが日本の近代化に必要だったからだが、今やそれら物はそろった。人口減少時代はこれまでとは全く違う都市計画のはずだ。これまで生きて来た市民は、これまでの都市計画の中で生きられないおそれに直面している。
だから、だれもが今のうちに都市計画家になって、就業生活圏を作り直しておかないと、次世代が危ないのだが、多くの市民はまだ気がついていない様だ。
だが一方で、まちづくりが人口に膾炙して、今や、まち直し、まち繕い、まち起こし、まち壊し等、多面的に都市計画が語られるようになったことが、希望的展開を期待させ、良い意味でのポピュリズムである。
NPO日本都市計画家協会
ここで宣伝だが、この会報『都市計画家』を出している日本都市計画家協会は、もうすぐNPO法人(特定非営利活動法人)になる。
これまで7年間の活動を経て、社団や財団法人でなくNPO法人を選んだのは、NPOの本質であるだれにも垣根のない、まちづくり活動の展開のためである。職業プランナー、街歩きの好きなオバさまたち、明日をになう学生たち、だれもが都市計画家だ。
流行りの格好よさそうな言葉では、市民参加の都市計画だが、逆にいえば都市計画家の市民社会への参画である。
それが一過性のポピュリズムや貧して貪する都市計画でなく、人口減少、高齢化、少子化、食料不足、エネルギー不足、地球環境悪化と問題山積の21世紀日本に真剣に対処して、就業生活圏を再構築する都市計画のために必要なのだ。
先日、日本の都市計画官僚の供給源となっている東京大学都市工学科学生たち一クラスが、「ウェルシティ横須賀」(わたしの最近の会心作ともういべきまちづくり)を見学にやってきたので、よーく言っておいた。君たちはこれまでだれも経験したことない人口減少都市計画をやる世代だから、よろしく頼む、と。
福井県の小都市での講演会でも、人口が減っても安心な就業生活都市が生き残るのだから、今の中心街を大切にしてくださいと、市民に頼み込んだ。
(完20010624 会報『都市計画家』2001年夏号所載)