東京駅復興(その2)よみがえった赤レンガ駅舎はどう評価されてきたか

東京駅復興(その2)

よみがえった赤レンガ駅舎は

どう評価されてきたか

伊達 美徳

●赤レンガの東京駅舎はどう評価されてきたか

1.建築あるいは景観保全への視点が未だない時代

(1)修復直後の頃の評価

1947年3月15日をもって、国鉄としては東京駅丸の内赤レンガ駅舎(以下「赤レンガ駅舎」という)の修復工事が一応の形を見せたとして一段落しているが、それで終わったのではなかった。

というよりも、それ以後も間断なく修復工事が続いているのが実情であるといってよい。そして今、その大きな区切りの計画として、復原工事開始となっているのである。

1947年から今の時点まで、赤レンガ駅舎は70年代半ばまでは存続が話題とならずむしろ改築が話題となったが、70年代後半から存続が世間的な話題となってきて、戦災から修復した赤レンガ駅舎の評価を問われてきた。それは戦後日本の経済、社会そして思想の動きを反映しており、まことに興味深いものがある。

まずは、修復中と直後の頃のジャーナリズムの記事を見よう。

1945年10月5日読売新聞東京版は、「東京駅戦災の姿」の出だしで、空襲で屋根がなくなった航空写真(ライフ誌提供が時代をあらわす)を掲載している。同紙は1946年7月11日に「東京駅回想へ頼もしい援軍」として、進駐軍がクレーンとブルどーザーで応援してくれたことを報じている。大林組が苦労して3階部分の撤去を手仕事でやっているがはかどらないので、アメリカ式の重機を持ってきてくれたのである。

1946年2月8日朝日新聞東京版は、二階建てになる〝暫定東京駅”三月頃から着工」と題して書いている。

『・・近代ルネッサンス式建築の昔なつかしの形に復旧せよとの要望もあったが、運輸省の方針は根本的な新建築に決定、それにとりかかるまでの暫定的な修理をすることになったもの。・・・なほ、本格的な新建築はまづ現在の操車場を順次尾久、品川に移しホームの新設工事等をすすめつつ今後五年位の内に現在の乗降両口を残して中央部を断ち切りその跡へ近代的本屋の新築工事を始める予定だ』

この戦争直後の国鉄からの情報は、おそらく戦中から練られていていた計画だろうが、その後の各種の動きを見ると、この方針は少なくとも1980年代半ばまでは、国鉄において公式に維持されていたと思われる。

これにそって1946年11月には八重洲口整備を行うことが報道されて、外堀に面していた操車場の移転が始まり、外堀を埋め立てて、1954年には八重洲の鉄道会館と駅前広場が完成、以後、丸の内側の計画が取り沙汰されるのである。

1948年11月14日の朝日新聞東京版に「面目を一新の東京駅 九分通り完成」との見出しで、赤レンガ駅舎とともに八重洲にも便利になったことを報じているが、赤レンガ駅舎について特に論評はない。

1949年10月22日朝日新聞東京版は、「完成はいつの日か 金づまり・東京駅〝新装〝」として、

『・・・都の表玄関東京駅は9分通り出来上がった、明るく高い丸屋根、見上げるばかりの六角柱(今のところコンクリートの生地のまま)・・いずれも昔以上の豪壮さだ。・・・』

と、内部を褒めている。

専門家の論評は、建築家の薬師寺厚が1948年に述べている。

『復興工事のでたついでに、東京駅についても一寸ふれる。未だ完成していないが内部はさっぱりしていって仲々よいと思ふが、外部は3階をこわしたため全体のプロポーションがくずれてやりにくかったと同情するし、木構造という点で制約もあったろうが、両側のドームは何だか恐ろしく不愛想な恰好をしてゐる。もっとうまいやり方があたろうにと思われる。辰野博士の大作だが日本銀行程傑作ではないから、それ程腹が立たない。』(公共建築の動向『新建築』1948年5月号)

伊藤ていじ著「谷間の花が見えなかった時」(1982 彰国社)は、1914年竣工の東京駅の設計に、辰野金吾のもとでたずさわった松本與作の評伝である。このなかに赤レンガ駅舎に関する次のような記述がある。

『・・・松本與作が傍らで見ていて、辰野金吾が最もデザインに苦労したもののひとつはドームの部分であったという。実際のところドームは、中央停車場の最大の見どころであったことは、誰の目にも明らかであろう。しかし残念なことに今日の東京駅のこのドームはなくなり、見るも哀れな屋根になり果てている。しかし資材も払底し応急処置を施さなければならなかった敗戦直後にあって、これ以上よい明暗があったとも思えない。ただこの仮屋根は木造で今その寿命は来ている。』

ここまでは、建築史家の伊藤ていじの論である。そして次のように続く。

『そしてこの仮屋根で補修された直後のある日、国鉄ビル内の窓から松本與作と国鉄技師の伊藤滋とは東京駅舎を眺めわたしながら、こう語りあったものだ。「いやになっちゃうね。変な格好になってしまって。」・・・』

この言葉の時期も不明だし、言ったのが松本か伊藤かわからないが、松本ならば修復デザインにそれなりに努力した伊藤には辛らいものがあったろうし、伊藤滋ならば原設計者の松本與作にはこういうしかなかっただろう。

(2)1958年東京駅改造計画

「東京駅平面計画の変遷」(川栄一郎「東工 18巻-1号 1965?」)と題する論文ががある。それによると、1938年頃より軍事上の観点から東京下関間に、いわゆる弾丸列車計画が始められており、これが新幹線の元になり、東京駅改造計画の元になっている。戦前に一部は用地確保もしていた。

この弾丸列車の東京のターミナル案は、東京駅、新宿駅等の数案が検討されていた様である。それは都市計画上の課題とともに、防空上、特に皇居との関係が議論されていたらしい。

敗戦により計画は一時中断していたが、1956年ごろから検討が再開し、『丸の内本屋の改築も含めて東京駅の将来構想が議論されるようになり、数多くの案と多数の会議が重ねられた』(東京駅の計画の変遷)。16案ものなかに、丸の内本屋を24階にする案もあった。

この案の詳細は、「東京駅の将来計画 主として問題点について」と題する論文で、国鉄東京工事局建築課長の井原道継の名で発表されている(雑誌「鉄道建築ニュース」1958年8月号)。ここには八重洲側も含めての壮大な改築計画案が提案され、なかで丸の内駅舎は24階建ての超高層ビルとなっている(右図)。

これについて「鉄道建築ニュース」1977年7月号に関係者の座談会がある。十河信二国鉄総裁(新幹線の生みの親、在任1955~63年)の命で、新幹線ターミナルの検討に関係して東京駅改造計画づくりをしており、丸の内駅舎の建替えも描いたという。24階という階数は、八重洲鉄道会館が12階なので、その倍にせよと十河が言ったのだそうである。

当時は超高層技術は日本には未だない時代だったから、この24階についての技術的裏づけのために、武藤清(東大)や小林啓美(東工大)などの建築構造専門家による研究をしたが、それが基礎となり日本の超高層建築第1号の霞ヶ関ビルとなり、今日の超高層建築へと来た画期的なことであった。赤レンガ駅舎は思いもかけず、日本の超高層建築を生み出したのだ。

これに見るように、この時代は赤レンガ駅舎は建て直すことが当然のこととして考えられており、この建替え計画が一般ジャーナリズムに話題になることはなかったのである。超高層建築計画が話題になりそうなものだが、それは当時としては専門家だけの世界のことだったのだろう。世間では、新幹線計画(1964年開通)が話題であった。

国鉄は1959年に東京駅を新幹線ターミナルに正式に決定し、これのよる東京駅改造計画案の検討の結果、丸の内駅舎は八重口と同じように高層ビルに建替えることにしたのであった。

(3)1966年丸の内美観論争

主として八重洲側の大きな改造が続き、1964年に新幹線は開業した。丸の内側では総武線と横須賀線の乗り入れの地下駅が1968年に始まるが、その上の赤レンガ駅舎はそのままにされた。

これは赤レンガ駅舎の改築計画が明確でない中で、急がれた地下駅工事を優先させたためであった(十楽寺嘉彦の話「東京駅を語る」座談会「鉄道建築ニュース」1977年7月号)。

1966年10月に丸の内の保健会社東京海上火災が、皇居前広場に面する自社ビルを30階建て127mの超高層に建て直す建築計画の確認申請を東京都に出した。

これを契機にいわゆる「丸の内美観論争」が起きた。もちろん突然のことではなく、その前から話題にはなっており、東京都と東京海上の間で事前に超高層は困る、いや建てたいのやりとりが決裂した上のことであった。

東京駅そのものは話題にはならなかったが、このときからようやく街並み景観が世の話題となり、建築保存もその中でとりあげられるようになったことを注目したい。

東京海上ビルの超高層は紆余曲折を経て、100mの高さで1974年に実現した。以後しばらくは丸の内地区の建物の最高の高さは100mとするコードが、2003年の丸ビル改築で破られるまで存在した。

この美観論争で、丸の内は超高層もあるべきとする都市改造推進派(主として建築界、進歩的文化人)と、それまでの31m軒高のそろった静的景観保持派(主として保守的文化人、保守系政治家、丸の内の大地主である三菱地所)、皇居を見下ろすなと時の首相まで乗り出してきて、派手な論争があった。特に建築系は「建築の自由」を唱えたのであった。

この論争の中であぶりだされてきたのが、建築保存問題であった。ちょうど論争中に帝国ホテルと三菱1号館が、識者と建築学会の反対の声はあったが、さほどの世間的話題にならないままに取り壊されたこともあった。

まだまだ、世の中は景観や建築保存が潮流とはならない時代であった。建築関係者の認識も未熟な時代であり、後の建築保存の論客となる村松貞次郎(東大)は、「美観は亡霊である』あるいは『わたしは新しい丸の内地区の景観を期待する』と、誤解を招く言葉を書いている(「雑誌「国際建築」1966年12月号)。

また、当時の気鋭の建築評論家の浜口隆一は、丸の内には『文化財として保存しなければならないほどの建物は残っていないのである。これについては建築史家たちの意見もはっきり表明されてきた』とまで書いている有様である(「建築年報」日本建築学会1967年)。

その故かどうか、その後、第1銀行、勧業銀行、野村ビル、三菱銀行等の近代の名建築が取り壊されたのだった。

もうひとつあぶりだされたことは、「都市景観」である。ここで「美観」といわれる理由は、そのときの法律論争に「美観地区」がとり上げられたことによる。

超高層建築の高さが論争の話題となった理由には3つのことがあった。

①丸の内地区の軒高のそろったスタティックな街並みを維持するべき(一般論)

②皇居を見下ろすような高層建築は避けるべき(当時の佐藤栄作首相が言い出したようだ)

③超高層建築によって不動産市場を乱すのは困る(これは公ではないが三菱地所の立場)

これらのうち①は一般論としてごく普通に登場することである。ヨーロッパ近代都市をイメージしたまちづくりは、三菱地所によって営々と築かれてきた結果である。

③は、私の推測だけではないが、当然に三菱地所としては築いてきた丸の内ブランドの街並みの価値を超高層建築が乱すことを快しとしなかったろうし、今後このような巨大面積オフィスがいくつも登場すると不動産価値が下落すと予想したかもしれない。不動産業としては当然のことである。

②に関しては、保守派の中ではだれもがそう思っていたが、表向きは言い出せなかったらしい。東京海上側も気にして、宮内庁にお伺いに出かけて、差しつかえないという返事をもらったという。ところが10月に西村建設相が慎重論を述べ、これの裏には佐藤首相が皇居見下ろし反対を言ったらしいが、これでにわかに政治的様相を帯びてきた。

建設省の官僚は、建築界の立場で超高層推進方向で指導していたが、高さ規制せよとの首相そして大臣のお言葉で、突然に方針転換を迫られ慌てふためいたのであった。

そこで持ち出したのが古証文「美観地区」であった。実は戦前にこの美観地区指定をした理由が、当時の桜田門に新築中の警視庁の庁舎が皇居を見下ろす高さだとして、丸の内地区の高さ規制をかけたといういわく因縁によるのだから、歴史は繰り返したのである。ちなみに、戦前は警視庁が建築行政をしていた。

その高さ規制は、戦後は条例によることに変っていたが、都には美観条例がないままにきていた。では、美観地区条例をつくろうとなってどたばたしたのが、美観論争といわれる元である。結局、条例はできなかった。

しかし、美観の名で都市景観が、そして皇居との見る見られる関係で語られたことは、その後の都市景観づくりにもたらしたものがあったといえよう。

各地の自治体で「景観条例」を定め、法律にも「景観法」ができ、東京駅さえも重要文化財となった今の時代から見ると、1970年代前半までは日本は若い時代であった。

2.1977年東京駅改築・保存論争

(1)赤レンガ駅舎保存論が一般ジャーナルに登場

1977年3月16日、美濃部都知事が高木国鉄総裁が会談して、国鉄の提案する東京駅と丸ノ内一帯のオフィス街の再開発構想に賛意を示したことが報道された。この中に東京駅丸ノ内本屋(赤レンガ駅舎)の建替え計画もあって、保存と建替えに関して保存と改築の論争が、建築だけでなく一般ジャーナルにも登場した。

これまではなかった一般のジャーナル紙にも保存論争が登場したのは、外国人記者の指摘に端を発しているようだ。その4月20日に美濃部都知事が外人記者クラブでのスピーチに赤レンガ駅舎改築に触れたところ、外国人記者から「東京駅の赤レンガ駅舎は震災などをくぐりぬけてきた東京の名所。取り壊してしまうのはいかがなものか」と知事の真意を尋ね、知事が一瞬、言葉に詰まりながらも「非常に惜しい建物なので、明治村に再生するなど、何らかの形で保存したい」と答えた。その記者は更に「明治村には明治がいっぱいあるが、東京にはひとつしかない」と追い討ちをかけて、都知事は苦笑するばかりで「むしろ皆さんの意見を聞きたい」と頭を下げた(1977年4月21日読売新聞東京版)。

5月11日の読売新聞には、小金井市の市長が保存するから東京駅を引き取ろうと、提案したことが載っている。ただし、お金の裏づけはない。この記事の中に、東京駅建築の文化財的な評価について、文化庁建造物課の見解が書かれているのが興味深い。

『・・「今の駅舎は戦災などで当初の設計と違ってきている。原型は明治時代の洋風建築としてすばらしいものだったろうが、、。文化財として評価する場合、移転保存した時に復元できるのがポイント」と微妙な言い回し』

この考え方は、今も変わらないようで、現在すすめている復原計画もこの線上にあるのだろう。つまり、戦後の60年を超える歴史は文化庁のいう文化にあたらないというわけである。

建築系の雑誌に東京駅特集がいくつか組まれて、建築系(歴史、設計、評論、構造)、鉄道系、そのほか有識者たちが入り乱れて、改築派と保存派に分かれての論争は、はじめて華々しいものとなった。

だが、この年の11月には、有楽町駅前の東京都庁舎の移転検討が始まり、さっそくに保存論争が起きたが、これは建築界の中の小さな嵐であったようだ。丹下健三設計の戦後の名建築は簡単に壊されてしまった。戦後建築は特に保存の対象とはみなされていない時代だった。

77年5月29日読売社会面に、「古典ビル解体「待った」 文化庁が保存調査会…」と出して、東京駅の問題をきっかけとして文化庁は「近代建築保存対策調査・研究会」を設けて、これまで文化財行政の枠外にあったものの保存対策をすすめることになり、登録文化財制度の新設も考えられていると報道している。

(2)1977年東京駅論争保存派の意見

この年に出ていたいろいろな意見を整理してみる。

・資料<A>:日経アーキテクチェア77年8月8日号特集

「東京駅(丸の内本屋)赤レンガが物語る栄光と悲劇」一東京駅再生をこう考える

・資料<B>:雑誌「鉄道建築ニュース」77年7月号、11月号

・資料<C>:雑誌「新建築」77年9月号特集「東京駅を考えよう」

①稲垣栄三(東京大学教授・建築史学)<A>

…建て替えは蔀市の個性失う;見出せ、建築の価態再生法・・・

・手狭ま、機能が果たせなくなったという理由で取り壊すのは納得できない。

・東京駅は現代建築の持たない古典的な壁面構成や装飾を伝え、東京の玄関として大き な役割を果たしてきた。建て替えは都市の個性を失わせる。

・将来的に要求される機能の付加は広大な敷地全体の中で解決し、同時に明治大正建築 の遺産を継承すべきだ。

・我が国の建築家も今まで欠けていた、古い建築のカチを再生する手法の定着に知恵をしぼるべきだ。

②稲垣栄三「東京駅再生の論理」<77年4月21日朝日新聞文化欄>

○古くなったから建て替えるという主張は必ずしも納得できるものではない。

・本当に「機能が果せなくなった」のかどうか

・仮に機能上有効性を失ったとしても直ちに取壊して建て替えることに結びつくか。

○駅本屋の果たす役割は、大量の旅客を適切にさばく(内部の横能性)だけでなく、都市の玄関としての性格(外観上の特性)をもち、これらを切り離すことはできない。

・赤レンガの東京駅もそういう意図でたてられた。旅客をさばく機能は地下通路に委ねた。

○東京駅は巨大なゲートでありつづけるものだ。

・駅本屋は3つの口を開いているだけで、実際的な役割は巨大なゲートである。

・この機能の単純さの故に生きのぴてきたといえる。

・東京釈に今後さらに複雑な役割が課せられるとしても、大量の旅客を飲み込みはきだ すゲートとしての役割は依然として主要な任務である。今の東京釈はそれに十分耐えられるだけでなく、これ以上堂々とした玄関を望むことはできない。

○欧米で過去の遺産を現代都市に生かす試みが盛んにおこなわれている。

・古い建築の機能牲が失われたとき、取壊すのでなく、生活から隔離して文化財として保存するのでもなく、今の都市機能の中での古い建物のもつ多面的な意義を見出だし、それを今後の都市機能の中に積極的に活かそうという考えに基づいている。そこには、機能的な建築が都市を無性格無表情にしたことの反省、建て替えの繰返しが都市の歴史の積層牲を失わせることへの危機感がこめられている.

・形骸だけの保存でなく、もつ意味を探り、現代生活のなかに位置づける努力を伴う点で、歴史的遺産の正しい継承であり、遺産に対する現代の対応のしかたとして、今後どの国でも採用される普遍性を持つ。

・現実の要求の前に直ちに古いものの取壊しを考えるのは、最も安易で拙劣な方法で、都市の歴史への配慮を欠いた軽率な行為といわなくてはならない.

○都市の論理で保全せよ.

・将来東京駅に要請される複雑で影大な機能は広大な敷地全体の中で解決されるべきだ。

・戦前の駅には、都市の特色を考慮した愛すべき建物がいくつかあった。

・いまは新幹線の画一的駅舎のように、そうした配慮は見られない。

・駅はその都市のなかにとけこむべき公共建築の一つなのだ。

・国鉄は自己の論理だけでなく、ある部分では都市の論理に従わなければならない。

③黒川紀章(黒川紀章建築・都市設計事務所長)<A>

・硬直的な保存論には疑問も;財団作りなど具体策必要

・なるべく保存したほうがいい。

・東京駅はいろんな意味で人々の記憶の中に生きており、その記憶性が他と比べて非常に大きいことは、保存を考える上で無視できない。

・保存とはすぐれて創造的行為である。保存といっても、文化財のような完全保存から外壁保存などを経て最少限の記録保存に至るまで、色々な方法がある。

・あまり硬直して考えると、「保存」がかえって定着しない。

・本当に保存が必要なら保存財団でも作って、建物所有者に協力するなど具体策を講じないとかけ声倒れにおわる。

・市民レベルで保存を考えている米国の例にもっと学ぶべきだ。

④長谷川尭(武蔵野美術大学助教授 建築評論家)<「保存についてちかごろまた考えること」雑誌「新建築」77年10月号>

・赤レンガの駅の基本的性格は「皇居駅」であった。

・東京駅が、鉄道線持と皇居を凱旋道路で結ぶ軸線上に配置された都市デザイン的施設であり、皇居の空間と駅舎とは切り離すことのできない一対の都市意匠として構想され実現されたものであることを抜きに議論することはできない。

・視点が駅舎の側にひきつけられすぎた論が多いようだ。

・時代が変わり、社会的価値体系が変わったといって、かつての時代が真剣に取組んだ建築や都市的スケールの空間の定着を破壊してよいということはない。

・皇居と東京駅をむすぶワン・ペアの都市空間をどうすべきかについて、時間をかけて討議しなけれはならない。

・できるものなら東京駅は残したい。駅舎の老朽化については、徹底した改修補強を決意すれば、現代建築として新たに更生させることもそれはど難しい課題ではない。

・問題は、決断とそれを支える金の手配に尽きるだろう。

⑤磯村英一<77年4月13日読売3面「東京駅周辺を守れ」>

・都と国鉄の勝手な再開発許すな…

・東京駅は、他の一般の駅と建って、日本のシンボル的存在だ。都民だけでなく、多くの国民が東京駅を通ることで、日本=東京を意識してきたことが、被害を受けながらも維持されてきた支えとなっている。交通のためだけのものではない。

・“日本のひろば”である東京駅と周辺の空間が、国鉄と東京都の財政危機対策を背景として方向づけられるのは、日本のために不幸である。

⑥外国人新聞記者<77年4月21日読売社会面>

・明治のにおいなぜ消すの?:大改造プランの東京駅:

・外人記者団が猛追及:美濃部さんタジタジ…

⑦デービッド・ハウエルズ(建築家)「東京駅・丸の内を守ろう」<77年5月11日読売文化欄>

・威厳と緑の空間:再開発は八重洲の二の舞・・・

・近代悲劇の見本、八重洲側 ・由緒ある血筋の東京駅

・三菱の高層化が招くもの ・リバプールストリート駅も危機に

・建築家がなぜ反対しない?

⑧伊藤滋(東京大学都市工学科助教授)「都市計画と東京駅再建問題」<B>

・保存するなら外観は復原せよ。

・改築してより良い建築ができるなら丸の内全体を考えてコンペを行え。

・保存して低容積の犠牲分は、八重洲側等に容積移転して補償する方策を考えよ。

(2)改築派の意見

①国鉄の見解ー国鉄の基本的考えと姿勢一岡部達郎・国鉄建設医局長に聞く<A>

○全面的建て替え構想を打出した理由、狙い

・手狭になり、利用客に不便になっているので、一新して良好なサービスが提供できる駅に。

・丸の内本屋は乗降客1万2千人を想定した設計で、もはや限界。

・東北新幹線のため3本のホームが必要で、丸の内側の線増も必要。

・以上から、「全面的建て替えしかない」というのが、基本的考えだ.

○丸の内本屋を保存すべきだという声にたいして

・原型をとどめないので国鉄としては保存する価値があるのどうか疑問。

・保存する価値があるかどうか、将来計画とどう調和させるか、各界の専門家、国民各層の意見を十分意見をきいていきたい。近くそのための委員会を発足させたい。

②角本良平(元国鉄、交通評論家))<A>

・駅とは何かの考察を深めよ.再生実現は100年先の問題…

・保存にしても建て替えにしても、そもそも駅とは何かという本質的な考察が必要だ。

・東京駅のような中央駅の場合、乗降客を適切にさばく機能だけを十分備えた駅であること。

・乗降客がどの程度増えるかによるが、防災安全牲の観点から決めるべき。

・大事業であり早くて10年先の問題として腰をすえてえて取組むべきだ。

③武藤清(東京大学名誉教授・建築構造学)<A>

・原形のまま残っていないので、そのまま保存するのはうなずけない。

・近代的デザインと技術を駆使した立派な駅を作ったほうが良いのでは…。

・まず建物の耐力、安全性を総合的に調査しその結果を踏まえて検討すべき。

④太田和夫(前・鉄道建築協会会長)「東京駅改築論議」<B>

・保存はemotionalな郷愁に過ぎない。

・現駅舎は不便だし、一時しのぎ修復で危険だし、維持管理が大変。

⑤幸 圀夫(国鉄本社施設局建築課)「東京駅は保存すべきか」<B>

・丸の内本屋をこれ以上固定してゆけば東京駅の将来計画は、輸送の問題も含めてきわめていびつな形ですすめていかざるを得ない。

・現在の建物は傷んでおり維持管理が大変であり、これを外部の人が保存せよというのは身勝手というものだ。

・東京駅の文化的価値はほとんどなくなっている。現実を踏まえて改築か保存を決めよ。

⑥丸山昭治(国鉄東一工・調査課)「東京駅、きのう、きょう、あす」<B>

・駅本来の機能が低下している(輸送、接客施設、南北通路、応急修理、防災)

・周りの構想亜kでシンボル性が低下

・耐力に限界があり保存できない

・空襲で焼けて修復後は形が変わり建築史的に価値は議論が分かれる

(3)その他

①一般からの投稿意見<C>(新建築5月号で「東京駅を考えよう」と投稿を呼びかけたのに対して20点の応募あり)

・解体派(6点)、保存派(12点)、中間派(2点)

②国鉄内部からの多様な声「東京駅を考えよう」<B>

国鉄の建築関係者45名からの一言寄稿を載せているが、それらの意見を分類すると、改築賛成は19名、改築反対は17名(そのうち復原保全は3名、現形保全が14名)、

いずれともつかないもの9名である。

③朝日新聞コラム<77年6月21日朝日1面(天声人語)>

・復元論にも、はやりの超近代化建築にも疑念がある。

・国鉄は、建築家や利用者と議論を重ねて、第三の道をさぐるべきだ。

④小金井市長<77年5月1日読売都民版>

・東京駅移しちゃおう:ソックリ小金井公国へ:

・大音楽堂や美術館に:金がかかりすぎるのが難点ですが…

・小金井市長が「壊すなら、是非都内での保存を」と、国鉄と都に働きかけ予定

(4)77論争のまとめ

国鉄関係者を中心とする建替え推進側の理由は、次の2点に絞られる。

・現状は仮設的な修復で機能、構造、設備ともに危険である。

・建物の文化的価値は戦災から修復で喪失している。

国鉄は建て直し方針を内部決定しており、赤レンガ駅舎の存在をわざと貶めていた気配がある。「3、4年程度もてばよい仮設」だったから、駅の機能、建築構造、建築設備に限界が来ており、そしてついでに辰野金吾のデザインを改修したので意匠的にも駄目というのである。

1958年に、国鉄が丸の内赤レンガ駅舎の建替えから八重洲側も含めて、東京駅の大改造構想を世に発表したあたりから、その後にもくり返し起きてくる改造建替論議のたびに、そのキャンペーンにこの赤レンガ駅舎4大ダメ論を振り回して、改築やむなしとしてきている。

2007年の復原改修計画が進んでいる現時点から見ると、その論理は崩れたのだろうか、それとも建設技術の革新がそれを克服したというのだろうか。

一方、国鉄の全面建て替え構想に、丸の内本屋の保存の観点から共通してなげかけられる疑問は、「古くなった、現状に合わなくなったといって、すぐ取壊しに結びつけていいのか」という点である。

また、古い建築物を何らかの形で保存、あるいは再生利用する意義の中で、特に東京駅の場合特筆すべき点として、非常に多くの人々に長年親しまれてきたことによる、愛着性、シンボル牲、記憶性といったものの重要さが、共通して指摘されている。この点は、建て替えを擁護する意見のなかにも多く指摘されている。

一方、建築学上の、あるいは芸術的な価値の評価については、現在の形、創建当時の形、あるいは創建のいきさつなどについて、様々に意見がわかれ、どのように保存するかは、時間をかけて十分検討する必要あり、という点でのみ一致する。

注目すべきことは、国鉄のオフィシャル方針としては建て替えが決まっていたにもかかわらず、内部の建築関係者に復原あるいは原型保存の意見が、数多く出ていることである。しかも、この後に復原に決まるのであるが、この時点では現形保全派が多いことが興味深い。これは、それなりに修復された赤レンガ駅舎が、見慣れた形として評価されてきたことを意味すると見てよいだろう。

建て替えの理由となっている機能面安全面については、やろうと思えば古い建物でも補強などの対処の方法はある、と指摘されている。これは技術革新によって可能になったことが現段階では証明された。

また、東京大学の伊藤滋氏は、敷地を超える容積移転方法での保全策を提案しているが、これも伊藤自身が音頭をとって「特例容積率制度」を創設して実現させたのであった。これはまったくの余談だが、東京駅に関しては、同姓同名の二人の伊藤滋氏が登場するので、後世に混乱が起きないか心配である。

当時は一般論として、保存再生への所有者の理解、費用負担などの問題があって実現しないことが多いこと、また、古いものを現代都市に生かす実践がすすんでいる欧米と違ってって、一般市民や行政の理解・関心も低く、「保存」ということの難しい実感ものべられている。これは現在でも未だ課題は多いが、当時と比べると格段に進んでいるといえるだろう。

また、「保存」という行為について、文化財のような硬直的な概念でなく、大規模な改装、部分保存など、「古いものを現代に再生して活かす」というように広くとらえ、またそうとらえるべきだ、とするものが、ほとんどを占めている。これも、街並み保存や文化財登録制度の制度が進んできている。

1977年10月、日本建築学会が東京駅丸の内本屋保存要望書を国鉄総裁に提出。

1978年には、国鉄において東京駅丸の内本屋の保存・建替えに関する各種計画案を検討して提案(鉄道建築ニュース7月号)し、3月には東京駅丸の内本屋松杭の調査をしている。

1981年1月1日、国鉄は東京駅再開発構想発表した。丸ノ内本屋は35階建て30万平米の超高層ビルに建替えて国際会議場・各国出先機関・事務所等を、八重洲側は北地区は30階30万平米の事務所・店舗・ホテル等を、南地区は30階6万平米の自治体出先機関・店舗等を導入し、延面積で霞ヶ関ビルの4棟分の計画である。しかし、大赤字を抱えた国鉄は、分割民営化の波にもまれることになり、これは頓挫した。

1987年、国鉄3分割民営化が行われたが、折からの土地ブーム、開発ブーム、バブル経済突入で、国鉄の土地は鉄道運行にかかわるほかは大赤字を補填するために売却するものとした。その中でも超1等地の東京駅の土地の行方は大きな注目となり、政府で開発整備の検討の中で、1988年に「赤レンガ駅舎の現地での形態保全」の方針を出して、今日の保存復原への道が開くのであるが、それは稿を改めて書くこととしよう。(20071030)

参照:東京駅復興(その3)-よみがえった赤レンガ駅舎は現地形態保全がきまった

(只今執筆中)