体験的コンパクトタウン物語 伊達美徳

●シティとタウン

近ごろ「コンパクトシティ」なるものが、日本の都市計画で流行である。人口増加の高度成長やバルブ景気のころに、人間の住む街が田んぼや森を食い荒らして拡大していったが、人口減少と超高齢時代になって、街はそれほど広くは必要でないし不便でもあるし、そんなに広い街を維持管理する財政的余裕もない時代になり、街をコンパクトに縮めようというのである。

都市計画家として現場で活動してきたわたしは、そうしろと四半世紀も前から唱えているけれど、都市計画行政も市民も耳を貸さないで、街を野放図に広げてきた。今、世の中の方もやっと分かったらしい(と嘆きつつ威張る)。

それはよいのだが、わたしは同じことを「コンパクトタウン」と言ってきた。シティとなると市域の意味になりそうで、例えば行政区域をコンパクトにするのならば、市町村合併推進はアンチコンパクトタウン政策になる。本来の意味は、仕事場も含む生活行動のできるコンパクトな領域のことだろうから、タウンの方が用語としては適切である。

わたしは1999年に新発田市で、大小のコンパクトタウン群がネットワークする21世紀都市構想を策定したことがある。コンパクトタウン群が適切に散在しつつネットワークする都市を、コンパクトシティと言おう。

典型的なコンパクトタウンは、わたしの生まれ故郷の高梁盆地(高梁市)である。その盆地で少年期までを過ごし、青年期から東海道ベルトの諸都市をあちこち漂流、中年期に旧鎌倉(鎌倉市)に漂着、そして老年期を関外(横浜市)に暮らしている。

高梁盆地と旧鎌倉そして関外に共通するのは、眼や足を使って身体で領域を確認できる盆地景観であり、そこに人間活動機能がほぼすべてがそろうコンパクトタウンであることだ。だから体験的コンパクトタウン物語である。

●少年期は高梁盆地

まずは高梁盆地から物語をはじめよう。中国山地に発する高梁川は、南に流れていくつか盆地をつくりながら、倉敷の南で瀬戸内海にそそぐ。その中流域の高梁盆地は、南北2キロ半、東西1キロのサツマイモ形で、平地の街の西寄りを高梁川が北から南に流れて貫ける。

街の上流側北端の山頂に天守が現存する近世城郭跡があり、街の北半分が近世城下町、南半分が近代以降の市街である。街には大学から幼稚園までそろっていて、裁判所もある。ショピングセンターもあれば商店街もあるし、岡山―鳥取を結ぶ特急が停車する鉄道駅もある。

わたしの少年時代には映画館が3つもあった。映画と言えば、「男はつらいよ」シリーズに2回も登場した。映画の中の車寅次郎の義弟、つまり妹さくらの夫の生家がここの武家屋敷町にあるという設定である。

その義弟の生家の近くに、わたしの生家がある(こっちは設定じゃなくて本物)。そこは街を囲む丘陵の中腹にある古い神社で、山裾の道から鳥居をくぐり長い石段の坂道を昇って、緑濃い鎮守の森の中である。夏は蝉しぐれの中で涼しいが、落ち葉の掃除が大変だった。でも冬の焚火はよかったなあ。

最近になって調べてちょっと驚いたのは、この盆地内の居住人口は歴史的に見てもほぼ一定数であり、近世から現代まで1万人程度で推移していることだ。今では合併を重ねてとてつもなく広い市域の行政人口は減少する一方だが、その中心の盆地は環境収容能力を超えないように、コミュニティ機能維持のために減り過ぎないようにと、自然と人間の摂理が働いているのだろう。実に興味深いことだ。

考えてみると、この盆地は一生を暮らしやすいコンパクトタウンだった。

だが、少年のわたしは長ずるにつれて、知っている人ばかり、知っているところばかり、まわりは山ばかり、この井戸の底のような盆地の閉塞感に悩み、脱出願望が密かに確実に積み上っていた。

その頃、眠ると空飛ぶ夢をしょっちゅう見たものだ。丘の中腹の神社参道石段から水平に飛び出し、石段下の鳥居の上を飛び越え、盆地の街の屋根上空を自在に飛翔した。だが、盆地周囲の丘陵を飛び越える脱出は、夢の中でも不可能で目覚めるのが常だった。

5年前に幼馴染の歌集を編集して趣味のDTPにしたときに、その脱出願望を思い出して、こんな歌を詠んで歌集のあとがきに記した。

空翔ける少年の夢いくたびも 目覚めて盆地の森の奥底

大川よわれを連れ去れ濁流に いづくにてあれ空広ければ

家出する勇気のない少年ができる脱出方法はただひとつ、大学に進学することだった。その頃は幸いにして盆地内に大学がなかったので、少年期を終える直前に脱出に成功した。しかし、その後に漂流する街々はどこも茫漠と広がっていて、自分の暮らしの領域を認識できないのであった。盆地景観のもつ根本的な意味を次第に考えるようになったのだ。

ところで、コンパクトタウンなんて、大人はありがたがっても、青少年は閉塞感に悩み脱出願望が募るばかりだ……と考えていたが、ところが今はリアル空間のどこでもネットバーチャル空間に簡単に脱出できるから、閉塞感なんて無いかもなあと、今やネット徘徊閑老人になった昔少年は思う。

●中年期は旧鎌倉盆地

そして大学を出て社会人となり15年ほどの都市漂流を経て、不惑となって漂着したのが旧鎌倉だった。大船の新鎌倉ではなく、丘上の新開発地でもなく、旧鎌倉の端っこの谷戸の森の中であった。旧鎌倉の平地の街は東西南北2キロほど、3方が丘陵で一方が海だから、領域が確定していて盆地といってもよいだろう。

旧鎌倉は都市機能のすべてがそろうコンパクトタウンである。街もよかったし友人たちにも恵まれた。ここから息子たちは巣立って行った。

わたしは50歳でフリーランスになり、東京の五反田に仕事場をもった。鎌倉からの通勤をやめて、平日は東京の家、休日は鎌倉の家という2重生活をした。コンパクトタウンから毎週脱出して、なにもかもぎゅうぎゅうに詰め込んでいながら、とめどもない東京というアンチコンパクトタウンに住んだのだ。

少年期とは違って、望めばすぐに今いる街を脱出できるのが嬉しくて、東京ではあちこちの共同住宅の一戸を賃借しては、2年ほどで引っ越すことを繰り返すという人体実験をしていた。コンパクトタウン住まいと比較しつつ、超巨大都市の都心居住とはこういうものと身体で確認した。特に平日は疑似的ながら独身暮らしになったのが、よかったなあ(真夜中まで仕事をしたという意味)。

この鎌倉東京2拠点居住の頃にウェブサイト「まちもり通信」(http://goo.gl/TPE230)を始めたが、そのネーミングは街と森の2重生活から思いついた。だから自称隠居名「まちもり散人」。

なお、わたしのこれまでの人生で、単身赴任や東京平日別居を含めて1年以上暮らした家は10都市の18戸であり、ここにとりあげる3つのコンパクトタウンが、長く住んだ街トップ3である。

●老年期は横浜関外関内盆地

旧鎌倉で四半世紀、老年期に入ってきた。わたしの住家がコンパクトタウン縁辺部の森の中だったから、家人が中心部に買い物に出かけるのがつらくなったという。

そこでこんどは一足飛びに大都市の真ん中に暮らそうと、横浜都心の関外に引っ越した。森の中で庭にタヌキやリスがやってきて四季を通じて野鳥の鳴き声を聴く環境から、騒音と汚染空気とビルジャングルの中に移ったが、それで命が縮んでもちっとも惜しくない歳である。公的賃借共同住宅の空中陋屋を選んだのは、東京居住実験をもとに住宅管理や災害時を考慮した。仕事場に近くなり平日別居をやめた。

関外も関内と合わせてコンパクトタウン盆地である。山手や野毛山などの周りの丘陵が、わたしの生活圏領域を視覚的に認知させてくれるが、高梁や鎌倉との大きな違いはその丘陵に緑がなくて住家群がびっしりと建ち並ぶことだ。あんな斜面地の下から上まで住まなくてもよさそうなものを、エレベータがない超高層ビルに住むようなものだ。だが思い出せば、わたしの生家の神社がそうだった。

やがて仕事もしだいに減ってダラダラ隠居になり、ヒマなので近所を徘徊すれば、あらゆる生活機能がそろって、便利店3分、大型量販店5分、伊勢佐木モール10分、劇場映画館10分、区役所15分、中央図書館20分、用はないが野球場15分。大学がないのは惜しいが、今は都心隠居だからその気になれば、鉄道もバスも充実しているし、老人優待年間定期券もあるから、市大でも神大でも国大でも気軽に出かける。

特に老年期となれば、大小多様な医院病院が歩く範囲にそろっているのが嬉しい。一昨年に自転車で転んで腰椎骨折したときに、寝たきりになりそうな身で、よろよろと近所の病院に通って、身に染みてそう思った。野毛飲み屋街あたりで安酒に酔っ払っても歩いて帰宅可能だし、ウチに入れてもらえなくても1泊1200円の寿町ドヤ街があるから(実際に泊ったことがある)、不良老年期セイフティネットタウンだ。

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前掲の3枚の空中写真を見ると、旧鎌倉も関内関外もその広さが、生れ故郷の高梁盆地とそれほど大きくは違わない。意識して選んだのではないから、なにか自然の摂理が働いたか、都市計画家としての感性が働いたか、うん、そうにちがいない。

それで思い出したのが30年ほど前のこと、ドイツの古都ハイデルベルクを訪ねたときビックリ発見して叫んだ、「おお~、ここは故郷の高梁盆地そっくりだあ~」。当日、現地でこれを聞いた証人もいる。でも、訪ねたことがある同郷人や弟に聞いても、だれもまったく気が付かなかったと言うから、わたしの感性であるというしかない。

(2018/03/09「現代まちづくり塾・塾報44号」掲載原稿を一部補綴)

(『Q人会誌2018』掲載)