日本の近現代都市再開発史におけるコンサルタントの発生1991

日本の都市再開発史におけるコンサルタント

1991

伊達美徳(伊達計画文化研究所)

はじめに

小論は、「日本の都市再開発史」(1991 全国市街地再開発協会刊行)に掲載したものである。

日本の都市再開発の歴史はさかのぼれば奈良時代から始まるが、近代都市になってからとすれば、1872年大火による銀座煉瓦街を嚆矢としよう。そして1881年からの東京市区改正、1913年からの関東大震災復興事業が挙げられる。

戦後は戦災復興土地区画整理事業にはじまったが、建物に関しては不燃化運動が1952年の大火建築促進法によって具体的にはじまった。土地だけを整理する事業から、建築物まで合わせての再開発は、1961年の市街地改造法と防災建築街区造成法に進み、さらに1969年の都市再開発法による市街地再開発事業の制度へと展開してきた。

ここでは、そのような都市再開発が土木から建築へと展開する歴史の中で、建築家たちがどのようにしてその世界に入って再開発コンサルタントとなっていったか、それを見たものである。

「日本の都市再開発史」は、総論から各編へと詳細わたる編集の中に、「再開発コンサルタントの歴史ー戦後の発生から現在まで」という、再開発に携わる職能についての章が立てられている。

この章は、優れた再開発コンサルタントであった柴田正昭氏(故人)による監修で、その中の「建築設計と再開発コンサルテーション」の項で、私が「建築設計業務と都市再開発」、都市デザイナーの土田旭氏が「アーバンデザインと再開発事業」について書いている。

ここまでは2004年1月に記したのであり、以下の文章が「日本の再開発史」に載せたものである。

建築設計業務と都市再開発

●建築設計から再開発コンサルタントへ

点としての建築設計から、線として面としての建築設計になるにつれて、複合する度合いが高くなり、かつての古典的な一つの機能を一つの形にいれるという建築設計の概念が崩れる。

それにつれて、建築家の側からも変化が起きる。多くの施主を同時に一つの建築にする技術的な設計手法の開発とともに、ソフトな設計条件を整えるあるいは設計以前の状況にも踏む込むことも多くなり、次第に設計者の中からコンサルタントあるいはコーディネーターが育っていく。

当初は行政担当職員の情熱に建築家が引きずられる関係で、事業化できるかどうか分からない段階から、権利者への説得材料として図面を書くことから始まった。この段階では事業の主体となるはずの権利者からは計画や設計のための報酬は取れないので、行政からの調査費によって、あるいは事業化したならば貰えるかもしれない設計料をあてにして作業を行うという、いわば成功報酬に頼るというリスクの多いものであった。

建築設計の業界では、契約を始めから結んで行うというような習慣が長い間なかったのであるが、共同建築では事前の作業が非常に多いのであるから、事業ができないとなるとその損失は大きい。

複合建築は設計変更が多い仕事であり、特に多くの権利者がある場合には一部の施主の変更が他にも影響を及ぼし、幾何級数的に変更作業が増加する。これがすべて建築技術に関わり同時に権利変換の内容に関わり、そして区分所有の仕組みに関わってくるので、建築家はいやでもそれらの仕組みを理解して、施主を説得するというコーディネーターーの役割にのめりこまざるを得ないことになる。

こうして建築設計者からコンサルタントが生れてきた。だが建築家として再開発に取り組む姿勢はどうなっているのだろう。

●防火建築帯の時代-建築家の運動としての再開発

1952年の不燃建築促進法によって建築家が実体的に再開発に参画することになったといってよいであろう。“不燃化運動”といわれる時代の防火帯建築は全国83都市、延べ間口長さ約40キロメートルができた。道に面して帯状に連続する防火帯の耐火建築物は、その後の防災建築街区造成事業の建築とともに、今でも各地の都心部にその連続するファサードがその時代のまちづくりへの意気込みを見せている。だが、それらは今、再・再開発の時代を迎えて建て替えられようとしている。

この防火帯の建築に最初に携わったのは、東京大学生産技術研究所(1951設立)の外郭団体であった(財)建設工学研究会であり、後に・日本不燃建築研究所(1957設立、所長今泉善一)に引き継がれたのであるが、この組織は防火帯建築の設計に最も多く携わり、わが国の都市再開発に真正面から取り組んだ設計事務所の草分けというべき存在である。

防火帯建築の数多くの成果の中でも有名なものは、1957年に完成した沼津市の「沼津センター街」である。わが国でも希な条例制定までした美観地区の指定をして、単に不燃化をこえて街づくりへの建築家の意気ごみがそそぎこまれている。

この時代の再開発建築は道路に面して所有する土地に対応して、それぞれの間口をもつ建築物を構造体のみが共同連続する“棟割り長屋”であったから、現在のように権利関係が立体的に建築設計におよぶような複雑さはほとんどなかった。

しかし、構造体の共同化による各戸のプランへの対応の方法、構造費用分担の方法、新しい相隣関係への対応等の一般建築にはなかった建築家の仕事があり、これに対応しての各戸の施主との対応は、そのまま再開発コンサルタントの仕事となる。

この事業には住宅金融公庫の中高層耐火建築融資が組み合わされることが多く、その申請手続きが複雑で建築技術的な内容であったため、設計者のコンサルタント的の仕事となるのであった。

●住宅公団市街地住宅の系譜-公と民の中間的役割

1955年に日本住宅公団の一般市街地住宅制度が生れて、市街地の中で下層階に土地権利者の施設、上層階に公団住宅を地上権設定して建設するという制度ができると、権利を立体的に建築化するという手法が出てくる。

公団という公的な技術者を抱えた機関の事業であるため、当初の権利調整とそれに伴う建築計画はは公団内で行われて、ある程度の条件が整ってから設計事務所に設計が発注された。

この公団での業務を担当した技術者から多くの再開発のコンサルタントが生まれ、後の公団再開発への基礎を作ったといえる。公団と共にこれらの事業を進めた設計事務所の中から後に再開発事業に深く関わるようになる事務所やコンサルタントが育っていった。

●防災建築街区の時代-共同建築のシステム化とプランナーの登場

1960年代から建築家が都市計画に発言することも多くなり、建築ジャーナリズムに再開発への提案もされるのだが、実際の再開発の現場は地道な努力の積み重ねが続けられる。 1961年に防災建築街区造成法が耐火建築促進法に替わって登場し、市街地改造法も制定された。事業への助成策も手厚くなって事業化へのドライブがかかるのだが、建築家は相も変わらぬボランティア的な努力が続けられる。

耐火建築から防災街区に変わっても基本的には民間の任意事業であるから、建築家は設計に至るまでの報酬は相変わらず不安定であり、行政の担当職員の努力でコンサルテーションがすすめられる一方で、その間での計画設計の作業を調査費の名目で行政から発注されるようになる。

この調査業務は実体的には建築家がコンサルテーションにも参加することを求められるものであり、また“現場の都市計画”とでもいうべきものに建築家が携わることになり、この時期から建築家が“ミクロの都市計画”に関わるのである。

横浜市や武蔵野市のように防災街区のために特別に財団法人の公社をつくって、公的ながらも柔軟に事業を応援する体制を整えて、ここから設計業務を発注することでコンサルテーションから設計まで、権利者にも設計社にもコンサルタントにもある種の安定的な進行システムを持つ自治体も出てきた。

設計方法も熟度が出てきて、これまでは総じてファサードを統一的に単調にまとめようとしていたのが、統一的な部分と各戸で変化のある部分とを分けてデザインして都市的な景観形成を志向するようにもなり、また繰返し設計に対応するシステム設計の方法が登場するようになった。

このころから景気が上昇し、建築設計の仕事も多くなって建築家あるいは設計事務所でも、再開発のような複合建築群を得意とするものと、単体建築の世界のみを対象とするものとに、設計業界が分れる傾向がみられるようになる。

防災街区でも立体的権利複合とした新大阪センイシティー、改良地区住宅で立体複合の坂出人工土地、単独事業ながら複合機能の新宿駅ビル等の、都市的な規模の大規模複合建築が出現し、これらはオーナーとのやり取りの中で建築家が力でねじふせながらデザインを練り上げていったといえよう。

これらの経験から、建築家が企画段階から参画する、つまりプランナーあるいはコンサルタントとしての役割が必要なことへと意識が展開していくのである。

●市街地改造法の系譜-公共建築でない公共建築設計

市街地改造法による都市再開発は公共団体の施行であるため、力の在る地方自治体が行うことが多く、権利調整等のコンサルテーションは行政の職員が行い、この場合の設計事務所の立場は原則として設計のみであり発注も正式にされるので、防災街区のようなリスクは少なかった。

しかし、通常はオーナーである公共団体は設計条件の決定権があるのが通常だが、この場合は実際のオーナーは別に多数いるので設計変更が多発する。公共団体発注の設計業務では特異であり、発注側にとっても設計事務所としても特殊な仕事であったといえる。

この点は、その後の都市再開発法による公共団体施行再開発事業でも同様であるが、事業の数が少なかったので、これによって設計事務所業界が特に新しい展開をしたとは見られない。

●商業近代化の系譜-店舗設計から街づくりへ

都市再開発のもう一つの系譜には、中所企業庁の系統の商業近代化による商店街整備の路線がある。

1967年に中小企業(振興)事業団による高度化資金貸付制度ができて、商店街の近代化や共同化が図られる。この近代化事業の商店街と都市再開発地区とは多くの都市で一致していたのである。

商業近代化地域計画は都心地区整備の一つのマスタープランの役割も果たしてきたが、この策定作業に建築家、商業コンサルタント及び商業デザイナーが必ず参画する体制となっている。

この仕事はまさに商店街の再開発の計画であり、コンサルテーションであり、その後の近代化事業にあたっては多くの場合に防災街区や市街地再開発事業と結びついて、建築設計あるいは店舗設計から商業再開発のコンサルタントへの道を開いたのである。

●都市再開発法の時代(その1)-建築設計から都市設計へ

市街地改造と防災街区を合わせて1969年に都市再開発法による市街地再開発事業が制度化されると、再開発ビルは複雑な権利関係、複雑な用途構成、公共施設と建築との取合い等の複合の度合いはますます増大した巨大建築になり、事業期間も長くかかるようになる。

基本構想、基本計画、基本設計そして実施設計に至る補助制度も充実して、設計事務所もリスクがある程度回避できるようになった。同時に補助要領が整備されて基本計画段階での図面作成が位置づけられて、建築家が当初段階から積極的に参画するようになった。

基本計画の段階での1/1000から1/500のスケールの計画図が、その事業を進展させるか否かのキイとなることがあり、建築家は現実を踏まえて都市とその事業の将来像を見通す提案能力を要求されるようになってきた。

権利変換技術が向上して一層複雑な方式がでてくると、区分所有法や権利変換への設計上での対応方法を理解できる設計者でなければ、再開発ビルの設計は困難になってきた。

長年にわたる再開発事業では、公共団体施行でも行政の担当者は定期的な人事異動で変っても、設計事務所の担当者は変らない。いや変ると設計内容が分らなくなるから変わることができないので、最も事情がわかっている者は設計者かコンサルタントであるということもある。

再開発ビルの設計者も次第に専門化してきた。これは建築設計だけでなく都市計画も要求されるので、広い判断能力と都市デザインへの能力のある建築家が対応することになるからである。更に複合する建築の設備は、設計でも管理でも特殊なものがあり、エンジニアリングの部門でも設計者の専門化が進んできた。

この様なノウハウをたくわえる必要があることから、1970年代から再開発事業に携わる設計事務所はある程度の特定化される傾向になってきた。更にそれらの設計事務所の内部においても設計部門の他に都市部門が発生して、再開発の計画やコンサルテーションを担当する部門が分れるようになってきた。

同時に、それまで設計事務所での再開発担当者が再開発コンサルタントとして独立して、計画とコンサルテーション専門の事務所を作ることも多くなって、それまで再開発の経験のない設計事務所と組んで仕事をする場合もでるようになった。

再開発事業のコンサルテーション作業のかなりの部分で、建築の図面が描ける、あるいは読める能力が必要であることが、このような傾向での再開発コンサルタント登場を促しているといえる。

東京では江東防災拠点再開発事業、大阪では阿倍野地区再開発事業という飛び抜けて大規模な再開発では、コンサルタントや設計事務所の共同企業体が結成されて、構想から事業までに関わる複数の設計事務所が人材を投入し、行政と共に長期にわたって関わってきた。これらに関わった設計界から、再開発の設計からコンサルタントにわたる再開発の多面的なノウハウを作りあるいは吸収して多くの人材が育っていった。

●都市再開発法の時代(その2)-都市建築のデザインへ

1973年に大規模小売店舗法が施行され、1980年代になるとそれまで再開発の中心的な大規模商業型はかげりを見せて、新しい企画を持った再開発が求められるようになる。ホールや図書館等の文化的な施設、緑豊かな広場や巨大なアトリウム等の公共的空間が登場するようになる。

こうなると再開発の設計者にも、多くの専門家が登場するようになる。再開発建築を総合的にコントロールするマネージャーの役割を果たす建築家と、ホール等の専門的な分野を得意とする建築家とが共同して取り組むようになる。

その他にもアーバンプランナー、インテリアデザイナー、ランドスケープアーキテクト等が、時には外国人専門家も加わる時代となってきた。

これまで多くの再開発建築は都心のランドマークとなる位置づけにありながら、再開発建築の持つ不動産事業としての経済条件や権利条件等に追われて、都市的な意義は十分に認められても記念碑的な造型、あるいは時代を開く意匠として認められる建築作品が見あたらないのは残念である。

設計界は都市再開発のプランナーとコンサルタントはある程度育ててきたが、肝心の都市的建築の建築家を育てたとは言いがたい。都市と建築の両方を見詰めて、再開発建築の造型として建築家になにができるかを真剣に考える時代になっている。

小論は、「日本の都市再開発史」(1991 全国市街地再開発協会刊行)に掲載した。