東京駅赤レンガ駅舎復元反対論の主題について

●東京駅復元反対論サイトの主題●

東京駅赤レンガ駅舎の景観の歴史的意味

伊達美徳

東京の丸の内にある東京駅の赤レンガ駅舎、それは日本に住むものならほとんどだれもが一度は通ったことがある有名な駅舎です。1914年に竣工し、1945年に戦災炎上、1947年修復復興、2012年戦前の姿に再現という、最初から4つの姿の変遷を経ています。

わたしは、1985年に、この東京駅とその周辺地区の再開発調査を行った経験から、赤レンガ駅舎については1947年の姿を保全していくべきと考えて、わたしの「まちもり通信」サイトにその論考を発表してきました。大学もこれをテーマのレクチャーもしてきました。

しかし、2007年5月、それを昔の姿に復原する工事が始まりました。2012年5月には新たな姿が現れました。外観を戦前の姿にコピーして再現したのです。

1914年から1945年まで32年間が最初の姿、1945年に太平洋戦争で空爆を受けた悲惨な姿が1947年まで3年間、そして修復して復興した戦後の姿が1947年から2007年まで61年間で、これが最も長い期間でした。

その最も長かった戦後の姿は、特に3階から上の部分が戦後に変わりましたから、下半身は第1次世界大戦の戦勝記念碑であり、上半身は太平洋戦争大空襲の悲劇の証人であり、そして 全体として敗戦後の日本復興の貴重なシンボルでした。それが消えました。

わたしたちの世代が見慣れた1947~2007年の東京駅の姿は、日本の二つの大戦争の愚行と悲惨、そして戦後復興の貴重な生き証人でした。

西には戦争の悲劇の記念碑として広島原爆ドームがあり、戦後の東京駅はそれにも匹敵する東の戦争記念碑 でした。もうほかには戦争記念の建造物は存在していませんでした。その故に、東京駅赤レンガ駅舎は復原せずに、戦後復興の姿で保全すべきでした。

それなのに、戦前の当初形態に復原して戦後の姿を消滅させたのは、とりもなおさず、戦争と戦後の歴史の証人を消し去ることになりました。戦後60余年は歴史でも文化でもないのか、重要文化財指定の意味はどこにあるか。

この東京駅こそは戦争という非文化と戦後の文化を体現しています。重要文化財指定の意味を、単に戦前様式建築のみに求めてはなりません。 戦争を超えた建築様式ととらえるべきです。建築保存とは、不動産の物的保存ではなく、文化の保存であり継承であるべきです。

しかも、今の東京駅の建築デザインのほうが、戦前よりも美しいのです。復原論者は建築家・辰野金吾ばかりを評価しているようですが、あの混沌とした戦争直後に、よくぞここま で修復をしたものだと、当時の鉄道省建築家の伊藤滋たちを、もっと評価するべきです。モダンとクラシックを融合した見事な保全のデザインというべきです。

古いほど良いものだという旧弊なる文化財観から、もう脱出してもよい成熟の時代であると思うのです。

わたしは復元反対をもう20年以上もここで唱え、諸大学での講義にも活用しましたが、意識して運動はしませんでした。運動されてきた復原論者たちも、それなりに復原の意味をお考えだろうと思うからです。でも、それがわたしには まだ見えていないのが残念です。

そして今、復原という新たな歴史が始ったことも、事実として認めなければなりません。今こそ東京駅復原の意味を、真剣に考えてほしいのです。(2014年7月12日)


東京駅丸の内駅舎への眺望景観の変遷

1929年

右に郵船ビルと丸ビル、左に東京海上ルで新丸ビルは未だない(引用:土木学会デジタルアーカイブス,震災復興市街地工事関係写真八号線工事,警視庁裏,昭和4年5月24日)。

1987年

右に建替後の郵船ビルと建替前の丸ビル、左に建替後の東京海上ビルと新丸ビル(伊達撮影)。赤レンガ駅舎のスカイラインを八重洲の鉄道会館が乱している。

2004年

右に建替後の丸ビル(伊達撮影)。

2012年

2012年10月の復元工事完成後の写真(伊達撮影)。せっかく八重洲の鉄道会館(大丸百貨店)を撤去し て、赤レンガ駅舎3階とドームのスカイラインを復原したのに、今度も八重洲側再開発(グラントウキョウサウスビル)の大丸デパートが 出っ張ってきて再び景観の邪魔をしている。

それは赤レンガ駅舎容積率一部身売りという身から出たサビのせいだが、もうちょっと設計を考えてもよさそうなものをと思う。どうせなら八重洲口側の開発は、横長高層建築を背景屏風の様に建てたら、赤レンガ駅舎が引き立ったはず、でももう手遅れ。

2030年推測

今後の京橋地区再開発を勝手に類推して作成してみたが、これでは赤レンガスカイラインはますます埋没してしまう。こうなると屏風建築なら京橋目隠しにもなってよかったのに、。(2012.10.29)