都市再生―東京駅を生きた戦争記念碑に(2001)

都市再生―東京駅を生きた戦争記念碑に(2001)

伊達美徳

広島に戦争の記憶のシンボルの原爆ドームがあるが、東京駅の丸の内側にある赤レンガの駅舎がそれに匹敵する記念碑であることは意外に気づかれていない。

この誰もが知っている建物は、上半身は第二次大戦の、下半身には第一次大戦の、それぞれの記憶を刻みこんでいる。ところが今、それが壊されようとしている。

建物そのものが消えるのではなく、昔の姿に復元して、戦争の記憶を消そうとしているのである。その裏には、都市再生策にのって、復元という美名のように聞こえるやり方と引き換えに、大規模開発で利益追求が見えがくれする。

1914年12月、東京駅は開業式を迎えた。この年日本は連合国として参戦しドイツに宣戦布告、中国のドイツ領青島(チンタオ)を攻め落とした。

その凱旋将軍が、この駅から皇居に参内するイベントを開業式に合わせたのだ。まさに東京駅は、第一次大戦の戦勝記念碑だったのだ。

そして関東大震災にも耐えたが、1945年5月、空襲で炎上する。復興日本の交通網の中心として急ぎ復旧され、今の形となって多くの人々を迎え送りだしてきている。

炎上したが壁や床は焼け残ったから、それに屋根を掛け、内装して使っている。戦前と大きく変わったところは、両サイドにある大屋根の形が丸型から台形に、三階建てが二階建てに、いくつかの尖塔がなくなったことである。

東京都心では今、ミニバブル時代のようなビルブームであり、またまた東京駅とその周辺の開発がとりざたされている。日本都市計画学会に、都市学者や事業者などが参加して、その開発検討委員会ができたそうだ。

ここで問題なのは、赤レンガ駅舎を戦前の形に復元を前提としているらしいことである。東京都知事とJR東日本社長との会談で、駅の上の再開発と、赤レンガ駅舎復元が合意されたとの報道は昨年あった。

東京都の21世紀のアメニティタウンなる政策にも、その復元がうたわれている。1988年ごろから活躍している「赤レンガの東京駅を愛する会」という市民運動団体は、復元をJRの快挙としてエールを送っている。

だが、美名に聞こえる復元によって当初の形態に戻すということは、戦後の歴史が抹殺されることを意味する。第二次大戦の戦災を記憶するものは、日本にどれほどあるのだろうか。広島長崎だけにそれを預けている間に、全国で失われているだろう。

東京駅という、だれもが知っている、しかも日常的に使っている建物こそ、戦争の記念碑として今の姿を保っていてほしい。

反論があるだろう。今は戦争直後の応急処置で本来の姿ではないし、耐震耐火に問題があるから、修復復元せよ、と。

では、本当に応急処置だっただろうか。応急ならば立派な台形大屋根も、ホールの丸天井も、柱の装飾も要らなかったはずだ。

ここには極端に物資不足の時代における国鉄の建築家たちの復興への意気込みが、ありありと見える。だからこそ、それから半世紀を越えて使われたのだ。耐震耐火に問題あるならば、補強すればよい。なにしろ関東大震災に耐えた建物だ。

生きてきた戦争の記念碑、そこが凍結した原爆ドームと大きく違う意義あるところである。復元の可否を、単純な技術論ではなく、文化論として広く論じてほしい。

いま重要政策とされる都市再生とは、都市の文化を再生することでもあるはずだ。開発政策との単純な取り引きで、戦後の歴史を滅失してはならない。(0112)

(注:小論は、朝日新聞の「私の視点」に投稿したが、採用されなかった原稿である)