横須賀中心市街地形成史
●資料2 横須賀市中心市街地の歴史(年表)
JR横須賀駅周辺、汐入地域、中央地域、海辺ニュータウン等の動き
横須賀市中心市街地形成史-成立と施策
伊達 美徳
1.軍都の街として-開国から太平洋戦争終結まで
本市は人口43万人の首都圏南部の近郊都市で、三浦半島の中央に位置し、東西を海に面している。海岸部から狭い平地の市街地が丘陵にくさび状に入り込む谷戸ごとに分散している特異な地形である。
多くの海岸平地の市街地は、長い間に順次進めた海面埋立によって確保されてきた歴史をもっている。東京湾側で横須賀駅から米が浜通・日ノ出町にいたる平地部約100ヘクタールの区域は、 横須賀市 の主な都市機能が集中する市街地となっており、この区域を「中心市街地」と呼び慣わしてきている。
この区域の大部分は幕末頃からの埋立地で、その始まりは寒村であった横須賀湾の奥に、幕末期1865年「横須賀製鉄所」が設置されたことにある。
村落のあった汐入あるいは本町の横須賀湾を順次に埋立造成して用地を確保しながら横須賀製鉄所を建設し、1871明治政府に移行してから「横須賀造船所」、1903年からは「横須賀海軍工廠」となり、横須賀鎮守府、東京湾要塞司令部など軍事施設が次第に国防の重要性を持って広がっていった。
海軍工廠の大クレーンが立ち並ぶ造船ドックから戦艦が次々に建造されて出航するようになると、軍関係需要も増えて軍需産業都市として発展していく。市内には軍関係居住者が増加し、全国から訪れる人々も増える。
戦前で行政人口の最も多かった1943年は約36万人であったが、そのうち12万人近くが軍関係者であったとされる。
海軍基地の町として当初の本町周辺にできた市街地は次第に拡大するが、一方では軍施設の拡張に押されて、大滝町周辺を埋め立てて下町市街地を拡大して行った。
本町3丁目に1933年(昭和8)には「海軍下士官集会所」ができ、“海軍さん”の利用する高級料亭や水兵たちでにぎわう歓楽街が大 高城町 方面にも広がって、中心市街地は三浦半島の都市拠点となった。
現在の百貨店「さいか屋」は、本町に店を開いた「雑賀屋」に発して地域商業の核となってきた歴史は、横須賀の商業の力を象徴している。
横須賀市 の市域拡大、鉄道交通の発達、中心市街地の基盤整備など、その都市形成には軍需に伴うものが多い。
2.平和産業港湾都市として再出発―戦争終結から70年代まで
(1)米軍基地の街として
軍港都市として特殊な発展をしてきた本市は、1945年の太平洋戦争終結で、本市始まって以来の大きな打撃を受け、戦後経済の崩壊で中心市街地も衰退した。
これ以後は旧軍施設の平和産業施設への転換政策を進めることとなり、工場誘致により工業都市として発展することになる。本町臨海部の海軍工廠の一部は転換して、臨海公園や浦賀ドック造船所(後に住友重機械工業)となり、クレーンは再び動き出して「平和産業港湾都市」を標榜した街のシンボルとなる。
しかし1950年朝鮮戦争が勃発し、旧海軍工廠はその兵站基地として米軍に接収され、再び横須賀は軍都となり、今度はアメリカ兵たちがやってきた。
明日の命がわからない戦場に行く若い兵士たちが街に繰り出して、当時は価値が高かったドル札が街に舞い、産業には戦争特需も生み出し、地域経済のみならず日本経済も復興したのであった。
米軍基地前の旧海軍下士官兵集会所が米軍の娯楽施設「EMクラブ」となったために、ドブ板通りはスーベニアショップや歓楽飲食店で独特の風景が繰り広げられ、中心市街地全体がそのような街となった。
この20年後には、ベトナム戦争が起こり、同じようなことがあった。
EMクラブの劇場にはアメリカ本土から軍の慰問団としてミュージシャンたちがやってきて演奏し、ジャズやポップスに代表される日本の戦後文化のひとるの発祥地ともなった。
これは戦後の横須賀の新鮮なイメージ形成にもなったのであるが、一方でその後の冷戦時代を支える米軍基地の持つ複雑なイメージも中心市街地は抱かされたのであった。
(2)まちづくりがはじまる
1959年、中心市街地の中枢部の中央大通りに、横須賀中心市街地の商業者たちの結束による共同建築である「三笠ビル」が完成した。これはその頃全国各地での街づくり施策である「耐火建築促進法」による「建築防火帯事業」のひとつであった。
戦後の街を災害に強い燃えない街にしようとする事業であり、三笠ビルは全国的な模範となる事業であったとして評価されている。横須賀中心市街地整備への嚆矢となる積極的な動きが見えてきたといえよう。
日本は1960年代中ごろから高度成長期に入り、横須賀では70年代にかけて中央地域に京急中央駅ビル、丸井、西友、緑屋等の大型店舗が次々と開店して、横須賀中心市街地は三浦半島の商業業務中枢拠点としての地位を固めていった。
横須賀市 の行政人口は、終戦時に約20万人に下がっていたが、62年に30万人、77年に40万人をそれぞれ超えて増加をたどった。
その一方では、中心市街地を含む旧市(本庁)地区の人口は、1955年の約10万人をピークに減少の傾向をたどって、70年代末には8万人を切った。
行政人口全体の増加は、自動車時代を迎えて市街地の郊外開発に対応しており、本庁地区の減少は中心部から郊外への移動を示し、市街地の拡散的拡大を見せている。
1970年代に入って、基幹産業のひとつであった造船業は不況業種となり、一方では競合する東京、横浜、藤沢等の近隣他都市の市街地開発によって近代的な商業機能が備えられ交通網も整備されてくると、横須賀小売業からは消費の流出が進み商業の停滞傾向が見られるようになってきていた。
三浦半島のいわば安定閉鎖経済圏ともいえる状況に安住している内に、横須賀都心が横浜や東京と比べて遅れをとりつつあることに、地元経済界も市民も気づき始めた。
(3)大空閑地が発生
産業や流通の構造に変化がおき、1974年のオイルショックから不況が始まり、自動車交通時代による鉄道交通の相対的機能低下で国鉄横須賀駅貨物ヤードが廃止(1975)、そして造船工業も不況によって本町臨海部の住友重機造船所の閉鎖により(1978)、中心市街地フリンジ部には大規模な空閑地が発生して、その処分と再利用が話題になってきた。
特に住友重機跡地は不動産事業者にわたり、そこに大型小売店舗の進出も噂されてきた。70年代後半ころから全国的に大型店が開店する時代で、全国流通業と地元小売業者との軋轢による諸問題が各地で発生していた。
そうしたときに横須賀でも、関西資本のダイエーが住友重機跡地にショッピングセンターとして出店表明した。現在の「横須賀ショッパーズプラザ」である。
中心市街地にはもうひとつの大規模な空閑地が生れる予定があった。それは本町3丁目、京急汐入駅前のEMクラブとそれに隣接する市有地である。
このEMクラブは、米軍基地の一部である娯楽センターとして使われており、ドブ板通りを中心に基地の街特有の賑わいをもたらす中心となってもいたが、中心市街地の拠点となる位置にあって治安や風紀の問題も抱えていた。
横須賀市としては、本来は基地内にあるべき施設であり、ここを政府に返還させた後に本市の施設として利用したいと考えて返還運動を行ってきていた。
1965年に他の5つの米軍接収施設と合わせて国や米軍当局に返還要望を出したことにはじまり、1973年渡米した市長がアメリカ政府や米軍関係者に返還要請するなど返還運動を続けていた。
1979年についにEMクラブ等3施設の返還が日米合同委員会で合意に達して、その跡地利用は現実性のある課題となってきた。
EMクラブと住友重機跡地とは、国道16号をはさんで向かい合わせの位置にあり、これらが新開発されるならば、本町・汐入地区はもとより中心市街地全体に大きな影響を及ぼすものとなる。
それぞれ独自の計画で開発されるのではなく、それらの跡地利用も含めて中心市街地全体の将来像を総合的に描き、まちづくり計画として指導し誘導するべきとする空気が、地域商業者や市民たちに出てきたのであった。
1980年、新たな土地需要と既成市街地の整備のために安浦地区を埋め立てて新市街地を造成する協議会を立ち上げてその提言を受け、1982年港湾計画で「新港・安浦地区土地利用計画」を位置づけした。
84年から10年間の埋立工事を進め、中心市街地に隣接して巨大開発がおきることになるが、この時点ではまだ先がよく見えなかった。
1980年に本市は「人間都市横須賀」を基本理念とする「 横須賀市 基本構想」を策定して、人口増加する都市を計画的につくり上げていこうと、1990年行政人口を50万人とする将来都市像を示した。
そこには中心市街地関係として次のようなことをあげている。
・物流拠点としての安浦地先埋立て
・中心的繁華街を交通施設整備を伴う再開発により活力ある商店街に
・EMクラブ等の米軍基地返還予定地、住友重機械工業跡地等の有効利用
・本市購買力の流出対策として交通、商業ビル、共同店舗、駐車場、モール等の整備
3.中心市街地整備計画85の策定の直接的な動機と策定方針
(1)横須賀地域商業近代化地域計画
本町3丁目の住友重機跡地への大規模店舗進出は地域の大きな話題となって、特に地元商業者たちには脅威を感じてきた。
1981年、横須賀商工会議所が中心となって横須賀市とともに「商業近代化委員横須賀地域会部会」(石原舜介委員長)を立ち上げて、「横須賀地域商業近代化地域計画」の策定にとりかかった。
この商業近代化計画策定は、中小企業庁の事業として全国各地域で行われていたが、横須賀でも商業のかげり傾向、大型店進出表明などで大きな転換期を迎えようとしていることを認識した横須賀商工業界が、学識者、行政担当、専門家たちと協力して、計画的な街づくりに取り組む必要があるとの機運が出てきたことによるものである。
1982年に出された「横須賀地域商業近代化地域計画」は、商業界からのまちづくりビジョンであり、 横須賀市 全体の商業の将来像を具体的に示すものである。
その中で、中心市街地がある中央地区における大枠の整備方向が示されて、横須賀中心市街地整備計画への第1歩となったのである。
この地域計画策定の動機には、ダイエーという大型店進出への対応があった。報告書の中の大型店出店の環境については次のようにある(63ページ)。
「商店街アンケートによる大型店への対応は、直面している問題点として、第2位にとりあげ「大型店に客を取られる」に98商店街中57商店街が反応しているにもかかわらず、その対策は皆無の状態で、(中略)、経営者アンケートで困っている問題点は(中略)、1位:商店街の集客力が弱い、2位:大型店に客を取られる、3位:同業者が多すぎる」
しかしその一方、都市商業と既存大型店占拠率の分析では、県内の他の有力都市と比較して販売額も売り場も低い位置にあり、核店舗としての都市集客力から見て「横須賀の大型店の保有率は小さく、都市間競争に不利である」と指摘している(68ページ)。
この頃の 横須賀市 の商業力については、1980年「消費者行動調査」( 神奈川県 商工指導センター)を引用して、「最寄品の代表ともいうべき食料品では調査地域内で95.7%の消費が行われているのに対し、買回り品の性格を持つ高級衣料では46.9%が地域外に流出していることになる。主な流出先は横浜市であり、地域内から39.5%も流出している」とあり、都市間競争に打ち勝つ方策が求められている。
そして中心市街地の整備イメージとして、「ポートタウン・ヨコスカ」をテーマに、都市観光の育成、回遊と溜まりの演出、コミュニティ機能の導入、人と車の調和をあげ、主な計画としては、中央大通りのトランジットモールをはじめとするモールづくりよって、街の拠点整備と合わせてネットワークすることを提案している。
焦点となる本町の2つの跡地利用のうち、EMクラブ跡地利用については周辺と合わせて再開発を行い駅前交通拠点と文化や健康のコミュニティ拠点とすること、住友重機跡地利用については観光商業と地域文化等のリージョナル型の複合施設による拠点づくりを提案している。
中央駅周辺では中央駅前、市役所、三笠ビル、さいか屋などの再整備で拠点づくりをうたっている。
(2)中心市街地整備についての提言
1983年には、横須賀中心市街地の商業者や住民市民たち42人による「中心市街地整備計画協議会」(伊藤滋委員長)が結成された。
伊藤委員長のもとで検討会が何回も進められ、1983年、横須賀都心部の再生と活性化に関する方向について、市長に対する「中心市街地整備に関する提言」として提出した。 横須賀市 としては、まちづくりへの本格的な市民参加はこれが初めてと言ってもよい出来事であった。
提言には、幹線道路の整備、駅舎、駅前広場、駐車場、道路等の都市基盤施設の整備、商業環境の充実と都心としての魅力づくり、大学等の高等教育機関の充実、中心市街地人口の郊外流出の歯止め、EMクラブや住友重機跡地の中心市街地活性化のための有効な活用などの課題が提起されていた。
この提言のバックには、中心市街地に大きな影響を与えるであろう住友重機跡地のショッピングセンターが焦点にあり、近接するEMクラブ跡地もどのようになるか気がかりなことであり、それら汐入地域の新たなまちづくりとともに、中央地域へのバランスある投資を提言していた。
この時代は全国的に大型小売店舗支出事業者と地元小売業界との軋轢が生じていた時代であり、ダイエー出店は地元商業者としては認めることは到底できないものであるが、一方では商業地盤沈下の回復策も必要であり、住友重機跡地利用についてはあいまいな表現とされているのがその悩みを現している。
EMクラブは長年の運動が実って、1983年についに日本政府に返還され、いよいよ具体的な利用策が福祉施設とか公園とか話題となってきていた。
4.中心市街地整備計画を策定するための方針
1982年の商工業団体と行政組織の協力による提案「横須賀地域商業近代化地域計画」と、1984年の市民協議会からの提案「中心市街地整備に関する提言」という中心市街地整備に関する二つの提案を受けて、 横須賀市 の行政計画として策定したものが1985年の「 横須賀市 中心市街地盤備計画」であった。
このころ行政側としての中心市街地における直接的な課題としては、市役所庁舎の現地での建て替え、EMクラブ跡地の買受け、住友重機跡地の都市計画、本町山中線の延伸と国道16号整備、三笠公園の稲岡エリア拡張、そして当時は中心市街地の外であったが安浦埋立て事業等があった。
民間の事業とあわせての再開発的なまちづくりの課題となりつつあった地区は、国鉄貨物ヤード跡地、EMクラブとその周辺、住友重機跡地とその周辺、三笠ビル、さいか屋、横須賀中央駅及びその周辺などであった。
JR横須賀駅周辺に関しては、本町山中線の計画に伴って道路広場整備は必要であったが、広大な貨物ヤード跡地に関しては、気にはかかることであったが、この時点では国鉄民営化問題もあって先行きが見えなかった。
これらのいくつかの中心市街地における短期中期の課題を、それぞれが個別の案件として考えるのでなく、マスタープランとして全体を統合する必要があると考えたのであった。
そこで、国鉄(当時)横須賀駅から米が浜通り・日ノ出町までの約100ヘクタールの旧市街地に本町臨海部の住友重機跡地を加えた約100ヘクタールの区域を加えた区域をとり上げ、総合的な整備計画を行政計画として今後の整備事業の方針を策定することとした。
策定の方針は、次の通り。
・中心市街地全体の総合的マスタープランとすること
・公的整備と民間整備の役割分担を明確にすること
(民間事業の指導指針と公共事業の計画方針)
・市民、商業者、事業者等に積極的に広報すること
(3万部のPRパンフを発行)
・行政組織に中心市街地整備担当の部門をおくこと
(市街地整備計画課の設置)
こうして「横須賀市中心市街地整備計画」は、横須賀都心部約100ヘクタールの地域の活性化のためのマスタープランであり、主としてハードウェアにあたる内容を持っており、中心市街地を総合的に見直した上で将来構造を構築し、それぞれ独立的に起きていた各種の既定や新規のプロジェタトを、まちづくりの一連のものとして位置づけて、将来の展望を明確に示したのであった。
5.中心市街地整備計画85の現時点での評価
(省略)
●資料1
(この論考は、横須賀市中心市街地見直し計画調査2003の一部に手を入れたものである。2004.7.1)