鎌倉・若宮大路 に関する論考と整備構想

鎌倉・若宮大路に関する論考と整備構想

伊達美徳

はじめに

鎌倉の谷戸に四半世紀暮らしていたが、年とったので横浜都心に移転した。

思えば鎌倉の暮らしは長かったし、その間にいかにも鎌倉人らしい人たち、

つまりいわゆる文化人から専門家など大勢の人々とつきあって、面白いことが多かった。

きっかけは、街づくり団体が募集したまちづくりの論文コンペに応募して、

一等賞をいただいたことであった。

鎌倉の街づくりにかんしていろいろと考え提案することも多かったが、

物理的に場所をとりあげて論じるには、若宮大路が一番面白い題材であった。

ここにその間に書いた若宮大路の論考や整備構想の提案など、いくつかをまとめて掲載する。

◆源頼朝の若宮大路 中世の意志の道 伊達美徳

ー道路緑化の文化史的考察ー

歴史の街である鎌倉(神奈川県)市街の要(かなめ)に位置する鶴ケ岡八幡宮は、悲劇の将軍源実朝の暗殺者がひそみ待ちうけたという大銀杏の古木で有名だが、もうひとりのこれも暗殺された将軍頼家は実朝の兄にあたる。この頼家をその母北条政子が懐妊したことに若宮大路の歴史ははじまる。

鎌倉市街の実に明解な都市軸を構成している道路がある。南の由比ケ浜の海岸から、北の山すそにある鶴ケ岡八幡宮にむけて一直線の大通りが若宮大路とよばれ、幅員20メートル余り、長さ約1.8キロメートルで、古都の道路はいずれも曲り、狭いなかで、異彩をはなっている。

この道は、1182年の春、源頼朝が妻政子の安産を祈願して崇敬する鶴ケ岡八幡宮の参詣道として築いて寄進したと「吾妻鏡」に記されている。頼朝自身で指揮し、東国武士団の諸将が石などを運んだという。現在も残る段葛(だんかつら)とよばれる道路中央部の盛土とその土止めの石による堤がそれをしのばせるものである。

頼朝はこのとき急に思いたった事業というわけではなく、すでにその3年前に鎌倉に入ってより東国経営の拠点としての都市づくりをはじめていた。曲がりくねった田舎道を直線状にするなど現代と同様の道づくりもさせているが、そのうちでも若宮大路は京の朱雀大路をイメージの基礎として、この地に覇者として東の都を築くことの意志の空間であった。

であればこそ、わが後継の出生祈願と諸将の直接参加による街づくりとが結びついていたのであった。

このようにして、この道は頼朝の支配への意志をこめてあればこそ、その形態はこの街にはアウトスケールでなければならなかった。交通という直接目的を超えて意志的空間の機能を負って出発したのであった。

その象徴性を演出する手法は、まずその道路の起終点のもつ象徴性の高さであるが、ここでは北に鶴ケ岡の社という宗教性の高い閉鎖空間を、南に由比ケ浜という相模湾の開放性の最も高い空間を結ぶという見事さである。

この広さで、この長さを直進することで、意思の力を与えている。それほど広くもない鎌倉の地形の中でこの直線は異形といってもよい。しかもこれに加えて、段葛あるいは置石とよぶ二列の土堤を道の中につくった。堤の間隔は約6間、高さ約2尺で、海から社頭まで全長にわたってつづいていた。

つまり道は三車線の形に分離され、石積みの分離帯が2筋つづいていたことになり、道の直進性の演出効果を高めていたにちがいない。

現在の段葛は神社寄りの500メートルほどが、若干形をかえているが残されており、堤の上の桜とつつじが道ゆく人を楽しませている。しかしこの植栽は明治・大正になってからである。それ以前は段葛(置石)の上には植栽を一切しなかったのに対し、大路の両側を密な松(クロマツ)並木がおおいかぶさるように植えられていた。

それは並木あるいは街路樹というような道路の修景的なイメージを超えて、大路はクロマツの林の中を切りさいてまっしぐらに海からかけ登っていたというべきであろう。それほどに豊かな緑の中の大路でありながら、逆に大路の中には現在のような緑は一切無いのであった。

いまではもうその松並木はないのだが、もしあったとしたら、その松籟に現代人は昔の人の自然と道路づくりの調和を聞くかもしれない。しかし私は思うのだが、頼朝の築こうとした若宮大路は松風に鳴る緑濃い自然と調和した道路ではなく、むしろ反自然とでもいうべき思想に裏うちされている。頼朝は道路づくりに熱心であったことは記録に多いのだが、他の道にはないこの若宮大路の異形さを読みとらねばならない。

鎌倉郷の田畑を切り裂いていた頼朝の意志の空間は、支配の確立につれてその都のシンボル空間として若宮大路は新たな空間機能を付与される。

しかし、この重要な歴史的環境である若宮大路にありながら、若宮大路にあることをどのようにとらえるか基本的な共通概念、共通の土俵の認識に欠けているように思います。

たとえば、若宮大路そのものがどれ程の歴史上の価値あるものか、簡単には知るよすがもありません。みんながやってくるアベニューでありながら、案内板ひとつありません。

歴史的な施設も、まちづくりの重要な景観として生かされていません。一の鳥居から八幡宮を望む美しい遠望景観をどれだけの人が知るでしょうか。

建築物は敷地ごとにそれぞれ勝手な装いで建ってきています。

すなわち、まちづくりに総合的な視点、いわゆるコンセプトを考える仕掛けがないのです。

いろいろな事柄が起きていますが、これを横につないぐ視点が今こそ必要です。今必要なことは市民のコンセンサスの琴線に触れるようなソフトなコンセプトであると私は思います。

●若宮大路をそっくりそのままミュージアムに

そこで私の提案ですが、『若宮大路ミュージアム・アベニュー』を提唱します。

「ミュージアム・アベニュー」とは、ある広い地域をそっくり博物館とする『エリア・ミュージアム(地域博物館)』の考えを、若宮大路という生きた本物のまちに適用しようとするものです。

ここでミュージアムの意味について「博物館」とすると、古色蒼然たる趣となって町を凍結するように誤解されてしまうので、「美術館」という言葉を使いたいと思います。

まちをそっくりそのまま、商業や生活の活動を持つままに、そこの人、家、道等が展示物であり、そこにやってきた人も車も展示物を構成するのです。

八幡宮から海までの一連の空間における環境を構成するものすべてをミュージアムという概念でまとめるのです。

もちろん、どこでもエリア・ミュージアムになるというわけにはいきません。そこには人々がやってきて求める特殊な情報を豊富に備えていなければならないからです。

その点、若宮大路には多くの貴重な情報源が豊富にありますから、エリア・ミュージアムの資格を十二分に備えています。

つまり、「若宮大路町並美術館」とでもいいましょうか、「ギャラリーの路」とでもいえばよいでしょうか。大路の道も商店も鳥居も段葛もみんな美術館にそっくり組込まれるのです。

近代美術館としては、県立美術館がすでにあります。

自然博物館としては、八幡宮裏山の緑の松林から照葉樹林への植生遷移、松や桜の並木の都市緑化、由比が浜の海岸砂丘の形成等を展示しています。

歴史博物館としては、八幡宮、段葛、幕府跡、一の鳥居、畠山重保の墓等が現物展示され、そしてここで起きた歴史的事件も見えない重要な展示です。

若宮大路そのものが巨大な展示ギャラリーで、町並の建築は彫刻や絵であり、現代作品もあれば古典もあり、抽象もあれば具象作品もあります。

町角には本物の彫刻もあります。商店、公民館や郵便局の前庭に、それぞれに小さな美術ギャラリーをつくるのです。そこには小学校の作品の屋外展示や、商店主の収集品や商品の力作が並ぶこともあるでしょう。

ミュージアムにはホールや講堂がつきものです。中央公民館や分館、学校あるいは結婚式場や宴会場があります。そこでの行事はミュージアムの公開講座でもあります。

●人々も祭りもミュージアムの作品

この美術館は一般のそれと違って、展示物を見る・見せるの関係が判然としません。見る側の市民は見せる側のイベント参加者になることもあり、観光客のファッションはそのまま見せる側の展示物にもなります。

ここは常設展示が続き季節のお祭りが企画展示なのですが、時代とともに変化する企画展示の継続とも言えます。

すなわちここは鎌倉の過去から現在そして未来を、すべて展示する美術館であり、博物館もあり、科学館かも知れません。だからミュージアムといいます。

さて、この「ミュージアム・アベニュー」は、まちづくりのコンセプトとしてソフトな概念をまちに網のようにかけるものです。

それでは、何も変らないではないか、と言われるかもしれません。

だが、これは今あるまちの動きを、「ミュージアム」というある種の高質概念で統一することによる効果を期待しているのです。

若宮大路の歴史と風土のもたらす「ミュージアム」の概念は、市民、住民あるいは観光客にもソフトに理解され、コンセンサスの基調となると思うのです。

●歴史上の事件が起きた場所で

ところで、この『ミュージアム・アベニュー』は、今すぐにでも提唱することができるし、いくつかの事業を『ミュージアム・アベニュー事業』に位置づけることもできます。 ただし、それだけでは単なる相乗り事業に名前をつけただけです。独自の事業も必要です。

その事業は、観光客や市民への歴史とまちづくり教育とそのための場づくりです。ただし、私の提案する教育の場は学校や講座のような堅苦しいものではありません。

鎌倉の歴史、風土、観光、都市生活等を紹介する巨大画面の『ハイビジョンシアター』を大路のどこかにつくることです。

このシアターではいつも映像が流れていて、気軽に観光客も市民も入って見ることができます。段葛をつくるときの頼朝の陣頭指揮ぶり、和田合戦のスペクタクル、悲劇の源実朝の行列等が大路の歴史を語ります。

西行法師や弥次・喜多も登場します。その昔、その場所で本当にその事件が起きたのですから、臨場感があります。

町並や山並の変化を映像でみると、町と緑の関係が分ります。

若宮大路の商店の人はもちろん、多くの市民がまちづくりの主人公として映像に登場して、自分の町のPRをします。

ロビーの一角は土のままで、中世都市の発掘現場が展示されています。発掘への参加体験もできます。

このシアターは夜はレストランとなり、鎌倉の社交場になります。

このシアターをでると、もう鎌倉の「通」となり、大路を歩きながら現実世界で先程の映像の主人公に自分自身がなっています。

このシアターでのイベントが、まちを美術館として育てる思想を啓蒙します。

もうひとつの重要なミュージアム事業は、サインボードづくりです。分り易く、読んで面白く、良いデザインの、まちの案内板が必要です。

ローカルFMによる案内放送をして観光客に受信器を貸出すことも考えられます。『若宮大路ミュージアム・アベニューへようこそ』から始まって、美術館案内の形式をとることは言うまでもありません。

●市民がつくるミュージアム委員会

のである。環境保護運動を保護という守りの姿勢から、創りあげようという攻めの姿勢への転換の提案である。

都市における生活環境の保全が、私有地の山や宅地、寺社地に頼つていては限界がある。その意味では、「御谷騒動」に象欲される買取運動には敬服するのだが、むしろ今ある公共のスペースを積極的に生活環境対応のの空間へとつくりなおして、都市基盤にゆるぎのない条件としてはめこんで行くことが、実戦的な方法としてあると思う。

もちろん「攻め」るためには武器が必要であり、そのためには現在の諸制度を大いに活用するべきである。

例えば、都市景観整備モデル事業、広場公園事業、商業近代化事業、市街地再開発事業等の特別な資金導入による推進とともに、建築協定や地区計画制度等の規制誘導策を図るべきである。

以上で私の論は終りであるが、この論の提案を構想図として別添した。このプランの道路は現在の都市計画決定を踏まえて、その完成を前提条件としている。しかし都計道路が完成しなくても着手できるところから事業をすすめることができるはすである。

沿道住民の意見がもつとも要であることは承知の上で、一市民としての考え方のひとつとしてみていただきたい。(完)

<参考文献>

鎌倉紀行記歴覧(伏見功・現代旅行研究所)

鎌倉市史総説編(鎌倉市・青川弘丈館)

中世鎌倉の発堀(大三輪瀧彦・有隣堂〉

日本の歴史(7)(石井進・中央公論社)

都市デザイン白書1983(横浜市)

ふるさとの思出写真集47(澤寿郎)

鎌倉市の植生1973(宮脇昭)

全訳吾妻鏡

東海道名所図会(秋里籬島)

道路緑化に関する史的考察(伊達美徳・雑誌「道路と自然」)

中世鎌倉歴史地図(阿部・安田・雑誌「鎌倉市民」)

注:本論文は、鎌倉の都市計画市民懇談会(会長豊口克平)主催「第1回町づくり論文募集」(1984年)に応募して、応募34編の中で1等入選したものである。(「第1回町づくり論文募集入選作品集」昭和59年2月掲載)

◆『若宮大路ミュージアム・アベニュー』提案 伊達美徳

●若宮大路は鎌倉の中心軸

鎌倉の中央を貫く若宮大路、これをわがまちのシンボルとすることに誰も異議はないでしょう。

奈良も京都も都の中心軸・朱雀大路は今では消えているのに、ここ鎌倉の朱雀大路・若宮大路は頼朝の時代から今にいたるまでその形を保っていることは、まことに貴重なことです。

現代都市鎌倉となっても若宮大路は、交通、文化、商業、観光そして生活の場として都市の骨格構成に重要な役割を担っています。市民にも来訪者にも、こここそは鎌倉の中心であると意識されています。

この道には、段葛や一の鳥居の歴史的施設が保全され、沿道には中央公民館をはじめとするコミュニティーや教育の施設があって文化環境が形成されています。

うるおいある道づくり事業の道路修景も目に見えてきて、商業機能も活力を持って多くの建築活動がおきて美しい建築や奇抜な建築が建ちつつあります。

そして、お祭りやパレード等のイベントが一年中いろいろと、この大路を舞台に行われます。

このように今ここには、まちづくりの活動がみなぎっているのです。ところが、それらがいずれも独立的に進められていることに問題があります。

●横つながりに欠けるまちづくり

それぞれのまちづくり事業において、この環境でのありかたを真剣に考えているとは思います。

段葛により協調する直進性に加えて、密植した松林に囲われることで、周辺とは別種の象徴性の高い空間に昇華していった。海岸植生として見なれており、管理もしやすいクロマツ林を両側に育て、その自然の中を、全くの反自然の形態で人工的空間を貫いたのだった。もちろん現実の時間の順序はこの逆なのだけれども、そのようにみるとこの大路の自然と反自然の対応が理解しやすいだろう。

ところで現代の若宮大路はどうであろうか。松並木はすでに無く、鉄道高架と歩道橋が見通しをさえぎり、はげしい自動車交通と喧騒が加わり、シンボル性は失われた。都市の日常空間に埋没してしまった。段葛の桜並木に矮小化されたかっての若宮大路をしのぶのみである。

注:小論は、「道路と自然」1983年春号(1983.3 社団法人道路緑化保全協会)に掲載した。

◆まちづくりは守りから攻めへー若宮大路復原構想-

鎌倉市 伊達美徳 伊達太郎

1.中世鎌倉は、過密都市であつた

道路上や水路にはみだした違反建築、塵芥ばかりか死人さえも捨ててある道路、鋳物師の家からは硫黄の悪臭、そして夕食時には町中にただよう煮炊きの煙など、中世の大都市鎌倉は、繁栄につきまとう都市悪は公害もともにそなわつていた。

日本の政治中心として集中する人々に対し、もともと可住地の平面はすくないのだから、まるで袋の中にものをつめこんだような、と言われるくらい、ごちやごちやと重なりあつて暮しており、現代よりも環境は悪かつた。

山の上にこそ現代のように造成した宅地はなかつたとはいえ、谷戸の奥まで住みついていたことは、現代と同様であつた。その谷戸からつづく山は燃料の重要な供給源地であり、何年かおいて順に定期的に伐採されるので、クヌギやコナラの雑木と松ばかかりで、冬枯れには寒々とした景色であつた。松風ばかり吹いて、京から来た「十六夜日記」の主をさびしがらせる。

いまでこそ鎌倉の山々は常緑樹が優占しつつあつて、冬でも緑の稜線をみせるが、ほんの50年ほど前でさえ、里近くの山は薪炭供給の場であつたのだから、それだけに人々は自然のサイクルと関わって暮していたとも言えるのである。

中世の盛時の鎌倉の人口は定かではないが、4万人は居たであろうと推測しても、現在の旧鎌倉地域の人口とほゞ同じであり、可任地は現在より狭かったと見られるから、相当な過密都市であつただろう。なにしろ日本のビジネスセンターとして各地から訪れる客の数も相当なものであつたろうから、ますます過密な環境であつた。

2.中世の若宮大路は、今の倍余の広さだつた

ところで、その袋の中のような過密空間のまん中を若宮大路が貫通しているのだが、その幅広さが実に60メートルというのだから、アウトスケールもいいところである。なにしろ今の大路のいちばん広い下馬のあたりの倍の広さ、その他のところの三倍という幅員なのだから、この狭い鎌倉の中に異様と言ってよい。いつたいこれはどうして生れたことなのだろうか。

吾妻鏡に寿永元年(1182年)5月15日の記事がある。この日は鎌倉の都市計画にとつて記念すべき日であつた。

源頼朝はこの日、自ら指揮して若宮大路の築造をはじめたのであつた。北条時政らの諸将が土石を運ぶという大仕掛の儀式に加えて、妻政子が懐妊したのでその安産を祈願して段葛を八幡宮に寄進する、という名目をもつけたのであつた。

すなわちこれが単に土木事業としての道づくりではなく、政権への道づくりなのであつた。諸将の直接参加は東国武士団の団結を、わが後継(2代将軍頼家)の安産は権力の永続性をそれぞれ表現していた。

狭い鎌倉の地に、この広さ、この長きの超空間を築くことで、頼朝は中世に君臨しようとする意志を空間化してみせたのであつた。八幡宮社頭から段葛が浜辺の先までパースペクテイィブをもつて駆けて相模の海に消えたむこうに、頼朝の眼にうつっていたのは京のの朱雀大路であつたにちがいない。

であればこそ、ハレの空間として日常を超えたスケールでなければならないのだつた。

さて、そのような抽象論はさておいても、頼朝後の繁栄・過密の鎌倉で、この広大な空間は、都市のオープンスペースとしての役割をはたすことになる。

そこが都市防災の機能をもつたことは、たびたびの火災がこの大路を境にして焼け止まっている記事を、「吾妻鏡」や「北条九代記」にみることができる。

あるいは湿地であつたことからみて、洪水時にはま大路が遊水池の役割をはたしただろう。

更には軍事拠点としての都市防衛線であったことも、たぴたび戦場となったことからうかがえる。

そして当然のことながら、過密を緩和して憩の場にもなつたろうし、儀式や集り、芸能の場に使われたであろう。

中世鎌倉の過密を救つたのは、頼朝の意志の空間として築かれた若宮大路であつた。

例えとしてみれは、ニューヨーク・マンハッタンの過密を救つているセントラルパークに匹敵するものである。

3.現代の鎌倉に、若宮大路をセントラルパークとして復元する

中世の鎌倉の街は、人々が正に活気あふれていた。物売り、辻説法そして相撲など、幕府は禁令を出さねばならないほどだつた。

近世への鎌倉の没落で、若宮大路は田舎の村の参詣道となつて平静な時をすこしていたのだが、明治からのわが国近代化の波は、また鎌倉の街にも及んで、若宮大路の松並木の中は活気をもどすことになる。

そして鉄道高架、自動車の洪水、歩道橋などの現代の形が若宮大路になだれこんでくると、段葛は後退し、中世の半分にも及ばない幅に狭くなり、松並木の消失した裸の路では、もう頼朝の築いた象徴性は歴史物語の世界に去り、都市のオープンスペースの機能は高度成長下の生活に忘れさられたのであつた。

そしていま、鎌倉市のオープンスペースの状況を公園施設の配置状況にみると、旧市街部には愕然とするほどに公の緑空間が欠落してしまつている。周囲の山と社寺等の他人の緑とオープンスペースに頼っていて、気がついてみると身のまわりには公の空間が失われていたということである。

街中に緑が多いといつても、私有地の樹木では永続される保証もなければ、だれもがふれられるわけでもない。山の緑よりももつと頼りにならないものだ。

さて、現代都市の大きな課題は、コミュニティの形式であり、鎌倉にも新住民の流入するなかで、コミュニティの再生が課題となつている。そのためにはコミュニティ形成のための場づくりと、そして住むことに、訪れることに魅力のある街とならなければならない。

では魅力のある街とはどんな街だろう。ここに横浜市のレポートに鎌倉市にそのままあてはまる「まちの魅力のアイテム」がある。その「四季を感じるまち」、「舞台になるまち」、「にぎわいのあるまち」、「下町の魅力」、「静けさが必要なまち」、「まちのへそ」、「わかりやすいまち」、「肌埋こまかいまち」、「風格のあるまち」という各項目にあてはめて鎌倉のダウンタウンを再生する手がかりとししてみよう。

そのとき若宮大路こそは、まず第一にここにあげられるべき要因をそなえていることがわかる。若宮大路は鎌倉コミュニティの中心として復活する資格をそなえており、中世の大路が、現代の形をもつて復元されるべき時と場所を得ている。

交通の用のための「ケ」の空間になり下つた若宮大路に、再び現代の象徴空間として、その地位がもどされなければならない時が来ている。

4.若宮大路の復元を、市民の参加ですすめる

鎌倉コミュニティのシンボル空間として若宮大路が再生するためには、歴史にささえられた路として復元を行うことであり、そしてそれを現代における機能との調整による魅力づけを行うことである。

この街、この路にこめられた歴史のつみ重ねが人々の記憶の底にあり、それを再生することで街へのかかわりに時間をかけた愛着をも再生、生成するわけである。ここに復元の重要さががある。

復原の第一は、段葛である。現代の植え込みとなり、歩道や交通分離帯などに機能づけされつつも、この鳥居から延伸して一の鳥居をくぐり、由比ケ浜までも連続させよう。

復元の第二は、かつて大路をおゝつていた松並木に匹敵する上うな緑の樹木である。緑の大路として常緑樹を主体としながら、花木をまじえて季節感をもたせると共に、冬も緑の多い街としよう。山々が遷移により常緑の樹冠が稜線を形づくりつつあることに呼応して、街にも冬括れのない緑をつくる。

第三の復元は広場である。かつて中世の衝かどには「釘貫」(くぎぬき)と称する広場が要所にあったという。現代でも辻説法、物売り、相撲など街かどの広場で行なわれてよいはずなのだ。これに加えて子供が遊び、老人が憩い話合い、観光客が立ちどまり、若者達が語らう、現代の釘貫」を復活しよう。

復元の第四は、その行為の形式である。寿永元年の若宮大路を築きはじめのとき、頼朝の陣頭指揮で、藷将が土石を運んだという儀式は、現代流で言えば市民の直接参加であり、例えば子供も大人も一本づつの苗木を植えるということで、その生育とともに若宮大路の復元にかけた市民の情念も根を張り枝をつけて、大路はコミュニティの中心として、心の中に育つであろう。

こうして若宮大路はセントラルパークとして復活する。

5.環境保護運は「守り」から「攻め」に入つた

ここに提案した若宮大路の復元は、いわば良好な生活環境を公共の空間に創造しようとするも

また、民間の建物等でミュージアムのコンセプトにふさわしいものを認定して、行政から助成金を出すようにします。

その認定のために「若宮大路ミュージアム委員会」を地元の方を中心につくります。これは美術館の運営委員会のようなもので、委員長は館長と呼ぶ方がよいでしょう。

こうして、鎌倉の都心には一大ミュージアムが登場します。もちろん博物館法にさだめるような美術館ではありませんが…。(89.5.3)

(この稿は、鎌倉市の公募したまちづくり提案に応募して、最優秀賞を得た[鎌倉ミュージアムタウン制度」の補稿である。010203)

◆鎌倉の新しいグランドデザインを描く16 鎌倉プラン研究会

若宮大路に並木トンネルを復元 伊達美徳(9407「鎌倉朝日」掲載)

観音「つい先日まで櫻の花でしたのに、もう暑い夏になって緑がますます茂ってきましたたね」

大仏「では、今日は街の緑の代表として若宮大路の並木の話をしよう。去年の夏は山の緑の話をしたからね」

**

消えた松並木トンネル

鎌倉の平地の緑として典型的な植生は、海岸砂丘のクロマツである。かつてはトンネル状の松並木ガ若宮大路の両側にあった。

若宮大路の中の「段葛」は、1182年に頼朝の命により築かれたが、そのころ鎌倉の曲がりくねった道を計画的に整備したことが「吾妻鏡」にある。

鎌倉時代から若宮大路の松並木があったかどうか分からないが、海岸植生の典型のクロマツ群が、なんらかの形であったことは確かだろう。

江戸末期の絵図には松並木を見ることができるし、昭和の初期までは若宮大路の松並木はトンネル状に茂っていたようだ。

1953年に若宮大路を並木街道として、日光杉並木と並んで史跡指定の紹介に次のように述べられている。

『鶴岡八幡宮社殿より由比ガ浜にいたる参道を若宮大路と称し、寿永元年3月源頼朝開策に係り、鎌倉幕府の重要なる史蹟たり。今に道路の両側に松並木ありて風致を添ふ』

その松並木の土地は「並木敷」と弥して、民地と道との間に帯状にあったという。

第2次大戦末期の軍事需要による松根油(オイル代用燃料)や薪燃料採取、戦後のマツクイムシ被害、モして高度成長期のモータリゼイションョン(生活の自動車化)による道路整備が追い討ちをかけて、並木も衰え果てて今のような形になったのは、1960年代代以後のようである。

日光杉並木のほうは、戦争末期の強制供出に抵抗し守った有名な歴史があるのと比較して、こちらの松並木がいつのまにか消えたのには、どのような背景があるのだろうか。

復元するか松並木

1986年から若宮大路修景計画により、一部に松並木の復元的修景が進められている。環境が大きく変わった今の時代に、はたして往時のようなトンネルが復元すもであろうか心配だが、とにかく実験的にでもやって見ようと、二の鳥居近辺ではクロマツ植栽がされている。

かつての松並木はトンネル状に豪快に大路をおおっていたものだが、いま植えられた松ははたしてどうなるか。植えられたときは盆栽同然であったが、これから大きく育ってトンネルを復元してもらいたいものだ。

いつのころからか知らないが、都市公園や道路の植栽が、いかにも人工的な園芸のようになってしまっているのは好きでない。文字どおりもっと自然にまかせる姿があるような気がしてならない。

ついでに言えば、道路の植栽の選定基準に、”公害に強い樹種”ということがあるらしいのだが、樹木ばかり強くても人間が弱っては、本末転倒である。滑川の鯉のように、道路の植栽も環境の指標となるものであるペきだ。

日本流の並木道を

若宮大路には、一の鳥居近辺でエノキ、アラカシ、タブの常緑樹が大きな緑を印象的に見せている。また大路から見通す八幡宮の裏山も常緑広葉樹の森になっているように、今の時代に松に固執する必要もないだろう。

道路の街路樹は同一の樹種で通すという西欧造園派のやりかたではなく、常緑樹を基礎としながら各種の樹種を交えて、四季折々の変化ががある日本造園流ではどうだろう。鎌倉に適した樹種を選ぶべきで、好きだからといってシラカバやヤシなどを植えないことだ。

若宮大路を鎌倉の「フォレスト・ブルバール」(森林大通り)として、多様なな緑のトンネルに復元したい。それは森から海に続く「エコロジカル・コリドー」(生態回廊)となるはずだ。

**

観音「そうすると、丘陵の連続が緑の回廊であるように、街にも緑の回廊ができるのです ね」

大仏「そう。人間だけでなく動物たちも大路を通ることができるるのじゃよ」

●フオレスト・フルバールのイメージ図

◆鎌倉の新しいグランドデザインを描く17 鎌倉プラン研究会

若宮大路の段葛を海岸まで延長 伊達美徳(9408「鎌倉朝日」掲載)

観音「若宮大路の松並木は今は見る影もないけど、段葛の櫻とツツジはいいですね」

大仏「昔はなんにも植えてなかったな」

観音「えっ、あの有名な櫻並木はなかったのですか」

大仏「では、今日は段葛の話をしようかね」

* *

段葛は昔は裸の土手だった

若宮大路の段葛の植栽の始まりは、1917~18年に鎌倉同人会がサクラやツツジを植えた時といわれる。

段葛そのものの始まりは、北条政子がのちに将軍となる頼家を懐妊した1182年に、頼朝が安産祈願として鶴ケ岡八幡宮に奉納した、と吾妻鏡にある。

1833年発行の十返金一九作の絵草子「金草鞋」にある段葛の絵には、雑草が招かれているばかりである。

1882年の段葛の古写真にも植栽は見えないが、1896年発行の「鎌倉絵図」には段葛に並木が描かれているから、あるいは同人会以前にも植裁されたのかもしれない。

いずれにしても、江戸時代の各種の鎌倉絵図には若宮大路の両サイドの松並木はあっても、殴葛に植裁は見えない。

元来、段葛は植裁をするべきでないという約束事があったのだろう。

段葛は神のための道

江戸時代の絵図や明治の古写真を見ても、19世紀半ばまでは段葛の両端部に簡単な門型のバリケードが作ってあって、段葛に人が入っている様子は見られない。

つまり、それまでの段葛は、一般の人が通る道ではない特別の道であったのだ。

現に段葛の土地は今でも鶴ケ岡八幡宮所有の境内地であり、法的には道路ではない。 鎌倉時代は若宮大路全体が特別の道であり、これに面している屋敷でも出入ロを作ることを禁止されていたらしい。

その若宮大路の中でも更に段葛は格式が高く、儀式のための参道であり、神あるいは貴人のみの空間であったことは、その発祥のいわれからして十分にに推測できる。

そこは特別の空間であるため、境界を明示する石積みが必要であり、段葛で演じられる聖なる儀式を沿道の民衆に見せることが、支配の構造として必要であったのだろう。

強烈な軸線の景観

幕府の象徴空間として、強烈な軸線を明示する景観を形成することが求められたのだ。

もしそこに植栽があると葉張りが内外に繁り出してパースペクティフ(遠近図法)の遠望がきかなくなり、神の空間としての結界性があいまいになる。

現在よりもはるかに広かった若宮大路の両側で、松並木が空間を明確に規定して直線牲を強調するなかに、二筋の石積みの列が、パースペクティフを強調する2段構えの構成であったのだ。

もちろん段葛の機能的な役割を解釈すれは、御谷川の流路でもある足場の悪い大路の中に、歩きやすい参道が必要でつくったに違いないだろう。

しかし、道は即物的な機能ばかりで成り立つものではない。私たちは道路に街路樹があることを当然と思っているが、緑のないことが意味をもつこともあるのだ。

都市の舞台としての段葛

今の段葛は三の鳥居から二の鳥居の間までだが、ツツジの低木と櫻の並木が花と緑を私たちを楽しませてくれる。かつては一の鳥居まであった、いや海岸まであったという説もあるがはつきりしない。

ここで「現代の段葛」を再現することを提案する。

警察署からガードあたりまでの大路の中に、段葛のイメージを生かした分離帯を設けてバス専用乗降場のレーンとする。大路の広さも御谷川の上の建物を取り除けば十分にある。

駅前広場にはバスは入れないことにして、歩行者とタクシーの専用にする。

更に、海岸まで大路中央に段葛を作って、緑道あるいは中央分離帯にする。

市民たちが、観光客たちが、憩い、交流する街の舞台となる段葛を蘇らせたいものである。「フオレスト・フルバール(森の大通り)」と共に…。

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観音「これで駅前広場も安全になりますね」

大仏「段葛でファッションショーをやるといいね」

観音「私、モデルで出ます」

大仏「ム、ム・・・」 ・(明)