都市内高速道路の景観形成に関する文化的考察

(橋梁に関する技術講演会1987.05.14)

都市内高速道路の景観形成に関する文化史的考察

伊達美徳(RIA建築綜合研究所)

1.都市高速道路の景観的課題

都市内高速道路の持つ最も特徴的なことは、その沿道との関連性が全く無いか、あるいはあってもきわめて薄く、むしろマイナスの意味での関連する場合のほうが量的には遥かに多いという点であろう。

マクロなレベルではある地域への経済効果を大きく果たしているにもかかわらず、ミクロなレベルではその地域不経済が大きく前面にでるという宿命は、空港、新幹線、あるいは汚水処理場と似て、いわゆる都市の迷惑施設に分類される不幸を背負っている。

私は都市再開発あるいはまちづくりのプランナーとして、首都高速道路公団のいくつかの計画に関ってきたが、一般の都市再開発と首都高速道路関連の再開発の決定的な違いは、そこに設ける公共施設が地域整備に直接に経済効果をもたらすことにならないものを含むため、都市再開発は地元の生活を向上するためという基本原則に抵触せざるをえないと言う問題である。

一方、都市内高速道路の景観に関する調査研究は進んでおり、近年は誠に優美な形態の高架道が現れるようになり、まちづくりに関わるものとしては嬉しいものである。しかし、都市内高速道路のもつ地域不経済という根本的な点はこれとは無関係に成立しており、その優美さは地域の生活空間の持つ秩序と余りにもかけはなれた高度の秩序を表現して、そのギャップはかえって地域空間から反発さえもおきかねないのではないか。

景観という概念が、高速道路の構造物の形態デザインであり、その優美さという眺められる「物」としてとらえられているがぎりでは地域での摩擦の基本的な解決とは無関係であろう。それは塵芥処理場をどんなに優美につくっても塵芥を処理する機能はなくなるわけでないと同様で、美しい形態の高架道は騒音・排ガスをなくすものにはならない。

景観の概念は単一ではないが、ランドスケープという言葉が表面的にとられて、目に見える眺めとしてのみとらえられる傾向がある。景観とは勝れて生態的・社会的現象の産物であり、地域の総体のあらわれとしてとらえるべきである。ドイツ語のランドシャフトにはこの様な広い意味を持っているが、我が国では井手久登博士が「景域」と訳をあてている。これは、景観とは地域的な広がりがあり、そこに内包される具体的事象の認識があり、それらが時間的に変化し、しかも個々の具体的事物相互間および地域相互間には機能的力が働くという関係をとらえて、事物一空間一時間のシステムと見る立場である。

地域社会は異物も取込みつつ歴史的な時間の中で成長していき、景観はその生態的な動態においてこそ意義を持っている。高速道路という異物が今後どの様に地域の中に消化され、地域景観として生態になっていくのか、あるいはいつまでも異物として遂に除去されるものになるのか、覚悟がいるだろう。

サンフランシスコの一部では景観上の視点から高速道路の取壊しも論に上っているという。近年はアメリカにウォーターフロント計画が盛んになりつつある。それは港湾の流通形態の変化によって、かつての商業流通港湾が見捨てられて廃墟になり都市問題を生んでいることにたいしての都市的解決策として、水際空間を商業と娯楽の空間に改変し、人々をひきつける魅力ある空間にしようとするものである。このとき多くの都市で起ったことは港湾流通動脈として設けられていた高架道路の景観的な問題であるという。

ひとびとを水際に楽しくアクセスさせるこ、街と港の間の高架道路が遮蔽物となっているのである。シアトル、サンフランシス芥ボストン、ニューヨーク、トロント等いずれの都市もこの悩みをもっている。勿論、高架であるから動線を遮るものではないが、景観的な連続性を断たれるため、心理的にアクセスを拒む形になるのである。

私の経験でも、ニューヨークのサウスストリートシーポートではフルトンマーケットからピア17へ出るには高架道をくぐるのだが、若干の抵抗感を覚える。ボストンでもファニエルホールから水族館までは距離だけでなく高架道の下のとらえどころの無い空間を越えるのが別の空間に至る感をまぬがれない。ボルチモアではかなり広い道路がハーバープレイスとの間にあるのだが抵抗感はなかったように、その成功の一因は高速道路がハーバーサイドになかったことがあると見ても良いであろう。

これ等の高架道路は当初は港湾流通になければならない機能であったので、あとから地域の機能が変った時の条件で邪魔者扱いされるのは、高速道路にとって明確も知れないが、地域の秩序と高速道の関係を教えてくれる格好の教材となるものである。

このように考えてくるとき、高速道路の景観計画のよって立つべき所をもっと文化の視点にシフトするべきであろうというところから、都市内高速道路に類似する現象を過去にさぐることに私は興味をおぼえたのである。

その前に、都市内高速道路を現象としてとらえる場合の定義をしておかなければならない。

まず、都市の生活空間との関係が稀薄な別の秩序が働く空間であることである。これは生活体系の地上の秩序が別の流通体系の秩序に出会うということになる。二つの別の秩序が出会う空間が構成されることになる。ここにある種の境界領域を発生せしめることになる。

第2に長さを持つ空間であることである。一定の秩序がある空間で取囲まれた中に別個の秩序空間を構成することは、皇居とか社寺境内等多く見られるが、都市内高速道路は川のように広さよりも長さを持って秩序を切取るということが特色であろう。

政治的秩序が働いたため沿道の利用を制限した道として、平安京の朱雀大路そしてこれになぞらえた鎌倉の若宮大路をあげよう。都の中心軸を構成するシンボル道路であるが故に道が道として独立空間である必要があった。この道はそのためにまっぷたつに都市を分割するのであった。そしてその空間は時代の流れに変遷し、特に若宮大路は今その修景計画が始まろうとしており、現代に生きる歴史の道のありかたがとわれている面白い段階を迎えている。

また日光杉並木も政治的秩序の働いた例であろう。これは都市内ではないが東照宮という高い秩序にいたる道はこれまた高い秩序の空間であり、周辺の農業空間とは大きなギャップを持ち、この様な空間での道路緑化の持つ特殊な意味を考えてみたい。

この条件に対応する歴史的空間をとりあげるとすれば、近代では鉄道であろう。鉄道が敷設されるとき、その町の対応がどうであったかが、今日の都市形成に大きな影響を及ぼしていることは周知のことであり、誰かこの研究者があれば是非とも教授願いたい都市形成史であろう。特に鉄道の都心での高架下利用は、都市内高速道路の景観形成の先駆者たる歴史を刻んでいるといえよう。

また、都市内の川がこれにあたるであろう。川は古来より自然の秩序で流れておりこれを都市の生活の秩序に組人れるべく人々は苦労を重ねてきた人間の歴史がある。ふたつの秩序の出会いは多くの都市のドラマを生んでいる。

2.歴史上の“高速道路”の緑の意味

日本の歴史上の高速道路などというものが存在しないのいうまでもないが、ここでの意味は沿道と無縁の形、機能として作られた道路があればこれを“高速道路”のアナロジーとしてみようというわけである。

かつて日本の政治構造の中核を貫くシンボル道路としてつくられたいくつかの道があった。いまのシンボル道路といわれる道が都市のコミュニティーのシンボルとなる空間としてとらえられる様に、封建都市あるいは古代都城の支配権力に対応するシンボルとなる道があった。

古代は平安京の朱雀大路、中世は鎌倉の若宮大路、近世では日光杉並木、近代では明治神宮の表参道をそれぞれ代表としてあげる。これらに特徴的なことは、いずれも道の側から沿道の利用を拒否または制限していることである。

朱雀大路は京の都の中心軸であり、右京は唐の長安、左京は洛陽にそれぞれ擬せられるように、この道は京を分割する空間であった。この道に向かっては特別の高官の屋敷だけが門を構えることを許されていた。後の若宮大路には幕府だけが門を構えていたのと同様であろう。(ただし面白いことに、若宮大路ではもう一か所だけ遊び女のいる宿が門を開けていたという。)

右京の衰退が早くからおこって、朱雀大路そのものが京の西の境界帯になってしまう。今昔物語やそこから題材をとった芥川龍之介の小説「羅生門」にあるように、あれはてた大路の南端に鬼が棲みついたり、死体の捨て場になって、道の機能は失われてしまうのであったが、現代ではただの町中の道になってしまった。

若宮大路は中世の支配者、源頼朝が自ら采配をふるって築造したと、幕府の正史である 「吾妻鏡」に記されている中世の政治中心都市鎌倉のシンボル道路である。朱雀大路の幅84メートルには及ばないが、40乃至60めートルといわれる幅員は、狭い鎌倉の中では異様なスケールといえよう。北に八幡宮、南に由比が浜の相模湾、この間約1.8キロメートルをまっしぐらに駆抜けて、頼朝の眼は天下に号令すべく京の都へ、その象徴たる朱雀大路に連なる道であったろう。

そのためには、いやがうえにもシンボル性は強調されねばならない。京の都の秩序の空間は、鎌倉の狭い街の空間秩序から切離されなければならなかった。アウトスケール、直進性、中心性、両端のシンボル、鳥居、段葛、沿道利用制限等、いずれをとってもその象徴性を高める仕掛けであり、街から別格の秩序があたえられている。

ところで、この道の両側に昭和初期までは松並木が、道を覆うばかりの密度で植えられていた。この松並木が鎌倉時代からのものかどうかは分らないが、江戸時代にはあったとみられる。その並木は大路を明確に沿道から分離していたといえよう。

中世の鎌倉は政治中心都市としてかなりの過密都市であり、幕府の禁令に道に店や家を張出すな、道で相撲等して遊ぶな、道にごみや死体を捨てるななどという内容のものだ度々見られるように、道は盛んなる都市の活力の空間であった。だが、若宮大路は両サイドは土手状に盛りあがり、ここに入るための道路も限定されたいた。

もし松並木が当時もあったとすれば、ここは都市の生活空間から切離され、松並木はその分離のための塀にかわるものであったにちがいない。

緑の意味は決して憩いとか、潤いというものでなく、この道に象徴性を与えるための演出であり、権力の景観を形成するものであった。沿道にとっては多分邪魔な代物であったろう。

同様な道として、近世の徳川政権のシンボル空間となった日光東照宮への杉並木の街道がある。日光太郎杉と呼ばれる一時切倒されようとした事件で有名な巨木から東にむけて始まる街道は、亭々として杉並木の密閉空間をトンネル状に形成して、近年のモータリゼーションのなかで保存の困難さをもちながらも、その景観は見事なものである。

江戸の幕府から御成り道の日光街道、京の朝廷からの例幣使街道という近世の2大権力の支配中心と、その世界の創始者である徳川家康の日光廟とを結ぶ道は、何故に杉の並木であっったのだろうか。

杉並木の外に広がる田園風景と確然たる別個の空間を持つことが、権力支配の空間を結ぶべき象徴として必要であったことは想像に難くないであろう。杉はその幹の直ぐなること、常緑の密閉性で象徴空間を形成するには、まことに格好の材料である。空中からこの道をみてもそのまわりの田園の解放空間とは、明らかに異質である。まわりの田園にとっては日陰や枝落ちで迷惑な代物であるに違いない。

ここにも緑の意味は、緑によせる現代人の心情とは全く異なった次元がある。それは高速道路や鉄道と同様に、その空間と機能を保全する柵に他ならない。

ところで、この街道の並木の管理は、5街道は幕府の直轄であり、脇街道は各藩で行っていた。そして街道並木の両外側には、街道幅に応じて幅員のきまった免租地があったという。その幅は例えば幅6間の5街道の場合は並木から20間の幅であった。これは一種の迷惑料あるいは維持費とでもいうのであろうが、現代の高速道路の環境施設帯の幅(路肩から20メートル)と比較してはいかがであろうか。

道路の緑化が街にうるおいをあたえるとして、このところのまちづくりのメニューに必ず登場する。そして都市内の高架道路にも同様に緑化推進策があり、高架下の日光は当たらず雨も降らない所に何やら日本庭園らしき植込みやら水流が作られていることもある。基本的にこれ等の緑化の対応するところは、沿道環境の保全、向上のためとするのであるが、昔から有名な並本道の並木の意図されているところは、現代のそれとは大きく違うものがあったと思えるのである。

このほか、いくつかの歴史的に有名な並木道をあげると、日本では東海道の松並木、箱根の杉並木、明治神宮表参道のケヤキ並木等があり、外国ではパリのシャンゼリゼ、ベルリンのウンターデンリンデン、ロンドンのザモールなどだろう。

明治神宮の表参道は、幅員36メートル、長さ約1キロメートルの一直線で、美しいいけやきの並木が覆う道である。この道は明治神宮が大正9年(1920)に完成するのにあわせてつくられた、明治中央政府の権力のシンボル道路である。その形と築造の動機は、中世鎌倉の若宮大路と大きな違いはないし、緑のなせる意味も同様であろう。

そこが今、何やら怪しげな若者の奇妙な踊りの河原になり、そして竹下通りのような市を従えるのを見ると、沿道からの無縁の道はやはり境、公界の空間としてアジール性を持っていると知れるのである。

では、大阪御堂筋の公孫樹並木はどうか。幅員44メートルの見事なイチョウの御堂筋は商都大阪のシンボル道路であることは間違いないが、その由来、出来あがりの仕掛けが今まで述べた道とは大いに異なる。昭和12年(1937)に当時の市長関一は、沿道地域から工事賦課金をとって作るという、まさに大阪らしい実業の世界に道を最初から取込む作り方である。こうすれば道は沿道の市民と共に育てられることになり、沿道無縁とは正反対であり、事実その後名実、形質共に大阪のシンボルになりえた現代の道となった。

横浜の関内居留地に造成した明治期のシンボル通りである日本大通りの両側の植栽帯は、歩道と車道の間でなく、歩道と沿道敷地の間に設けられている。これはどうも、もともと日本人は街路樹は、沿道空間と道との区分のためのものという考えがあったのではないだろうかと思わせるのである。

3.都市の川と橋の無縁性

(1)川

都市の川として典型的に上げられるものは、京都の賀茂川、東京の隅田川、金沢の犀川、大阪の一連の堀川、福岡の那珂川等があろう。この中で大阪の堀川は都市の構造そのものとして作られた空間であるからこの場合は別として、加茂川と隅田川をとりあげる。

賀茂川は、平安京の東の青龍として川道を直している。当初は今日の様に都心に位置せず京の東の外れであったことはこの川の右岸の繁華街が京極ということに表されている。右京の衰微によって左京の進展が賀茂川を街の中心を流れさせることになった。ちなみに右京は唐の長安、左京は洛陽にそれぞれ擬せられていたが、左京のみが残り上洛という言葉が使われる様になったという。

では賀茂川沿岸部が住みよかったからかといえば、そこは権勢を誇った後白川法王さえも自由にならないと嘆いたほど有名な氾濫する川であり、自然の秩序の支配する住みにくい空間であった。ここは境界領域であり、無縁の地として河原者が住み付くところであった。河原者とは乞食、聖坊主、放浪者等の無縁のものが居る所であり、彼等は生きるために芸を見せていくばくかの稼ぎをするのであったが、これが芸能に発達し歌舞伎などの舞台芸術の世界に続くのである。あるいは商品を交換する市場がたった。

これらの空間を占めるものは、すべて定着性のない一過性という性格をもっていることに注意する必要がある。無主の空間は川の様に氾濫で常ならぬ空間であり、定着性を拒否する。だが、中世から近世にかけての治水技術は、常ならぬ空間を定着空間にかえるのである。

このように、二つの秩序の出会う空間は無主の空間として境界領域をうみだし、境界領域にはどちらの秩序からも疎外された者がふきたまる。そしてそこに新しい秩序を生出すのであった。例えば、芸能、市場等である。

隅田川も賀茂川ににて江戸の東を限る自然であった。そしてこの沿岸部もやはり支配の秩序でもなく生活の秩序にも属さない空間が構成されるのである。吉原遊郭、西本願寺等の遊びと信仰の場が多く集められるのだが、もともとこの二つは結付きがあるものだ。

そして向島や深川は郊外の行楽の地になっていくのだが、関東大震災の復興のときはもう境界としての地域ではなく、そこにかかる橋は歳の象徴としての役割も追うほどに成長するメジャーなゾーンになっているのであった。

しかし、現代の川はカミソリ護岸で、河原がなくなったために、川にはアジールが発生しにくくなり、現代の河原者たちはどこに行ったのであろうか。

(2)橋

都市高速道路は基本的には橋であると公団の技術者に教えられたことがある。この橋の意味は、ある地点からある地点をその中間を飛ばして連絡するということと、高架構造が橋梁の構造であるということの二つを含んでいる。

後者はともかくとして、前者はまさに都市高速道のもつ本質に迫る定義である。橋は端であり、端と端をつなぐものであり、古来より境界の空間の中でも実に重要な位置を占める存在である。それは川という自然の秩序と人間界の秩序とが境界領域をはさんで共存するのでなく、自然界の秩序にわけいって人間界の秩序が対置するものであり、そこには激しい葛藤が発生する。

人柱、橋姫等の伝説・民話は数多く柳田国男に紹介されているが、京都一条戻橋下には鬼が住んでいたということもあり、橋こそは境界領域に境界領域らしい存在を生み出すのである。今でも「橋の下」や筏の広場は自由人の住むところであり、高架道路は新しい自由大の空間を次々に都市内に供給していることは、それを意図しようとしまいと現実の事実である。高速道路が橋であれば、これは歴史的現象として境界領域を生み、そこにアジールを形成する宿命をおいつつあるかもしれない。

問題は現代のアジールは、その管理体制が強くなっているため、歴史の記憶あるいは社会の自然現象としてアジール化現象が働いて自由人が一時的な居を構えることと、これを追払うこととが日常茶飯事になっているため、かつて中世から近世にかけて起きたような河原者文化が芸能として育つひまがないのである。

そこで思いつくのは地下道である。東京の地下道には最近特に住人が多く見られる様になった。駅自身も境界領域の王者であるが、これに接続する新宿、東京、大手町等の地下街でない純粋の地下道の空間は、明らかに沿道から断切られて異質の秩序を都心に持っている。これも高速道路と似た空間の性質と言える。

水の流れの如く動く歩行者の動線から、辛うじてまぬがれている壁際の凹凸の間に生れる河原や、独立柱の陰にできる中洲にたたずみ、鑓小屋ならぬダンボールの小屋がけを営み、おそいくる洪水ならぬ清掃の撒き水にもめげずに、常ならぬ住空間を形づくろうとしている。

これはもう現代の河原でなくてなんであろうか。川に河原が無くなった現代は、ここから芸能が生れるのではないか。ひと昔前にアングラ芝居といわれた芸能が、広場、空地、境内からおきて、いまやメジャーに育ったものがあるように、もしかしたら新アングラ芸能が、文字通り地下道から起きてくるのではないかと期待さえされるのである。

ところで、やはり橋、川が芸能をうむ伝統はまだすたれていなかったことを最近確認できた。それは例の有名なミュージカル「キャッツ」が、新宿の甲州街道にかかる橋のたもとの河原にテントを構えていることである。橋の下は水でなく電車が流れているのであるが、紛れもなく現代の川であり、河原である。芸能はやはり河原におこることを確認したのであった。このテントは以前は西口の都有地でKDDの隣にあったが、そこも西口の狼雑な一見無秩序な空間と超高層の秩序性の高い空間との境界領域であった。

橋の話のついでに、私の所属する組織RIAの創立者である山口文象は、隅田川等の橋梁のデザインに関東大震災のあと復興局技師としてタッチしている。いくつかのコンテによるパースが残されている。

当時の日本は豊かであり、都市の環境としての美を橋の形に生かそうとする態度が土木技術者にあったということを、元東京都におられた鈴木貞男氏より聞いたことがある。今も豊かな日本に戻ったとすれば、環境としての美しさとともに、新しい時代に対応する総合的景観としてのありかたを追及する態度が求められているのであろう。

4.鉄道高架から高架道路へ

鉄道は明治以来の事業によって、都市内高架道の先駆者であり続けてきたと言えよう。上を走るものが列車でも自動車でも、本質的には地上の秩序に分け入って新しい秩序を都市に持ち込んだのである。それまではその地域から出るには徒歩が原則であり、それだけコミュニティは狭く緊密であったが、鉄道の速度はそれを拡大し、日本の秩序さえも変えた。特に、上り・下りの概念は、それまでは京都から東下りであったのを、西下・上京として逆転したのである

とにかく地域の持っていた秩序とは大きく異なる超日常秩序を日常生活空間に持込むものが鉄道であった。これは橋と川の関係を逆にしたものとみれば分りやすい。川の水流という自然の秩序にかわって人間の生活という日常社会の秩序を、人が渡る生活の秩序たる橋にかわって列車あるいは自動車という超日常の秩序、というように人間の立場と水の立場がいれかわったと見よう。

川の水が河原という洪水調整機能たる境界領域を都市に要求したように、人もそれを鉄道に求めることになるのであろうか。だが、その初め、鉄道そのものが境界空間の主人公であったのである。

明治13年から30年頃までの東京の地図に登場する鉄道をみると、今の東北本線は赤羽から続く武蔵野段丘の東端、本郷台の崖線に沿って上野で止っている。上野という東京の境界を終点とし、段丘崖線という地形上の境界を通っているのである。

また現在の中央線は甲武鉄道の名称で、今も明確に分るように江戸城の外堀というやはり境界空間にはいりこんでいる。この様な路線のとりかたは別に東京だけの特異なことではなく、名古屋でも城の堀を名鉄が走るし、高松、京都等も同じようなことが見られる。

鉄道が生活空間に市民権を得るには、やはり初期の河原者としての悲哀を経験しているのである。これが、同じ鉄道でも鉄道馬車から発展する路面電車にはそのようなことがないのは、その鉄道の秩序が明らかに日常の秩序の範躊であったからである。

今の都市高速道路が堀や川の上空あるいはその中を路線にしているのと全く同様の現象があったのであり、歴史はくりかえすのである。

ところで都市の日常空間に鉄道高架は市民権を得ているであろうか。私にはいまだ市民権を確固として得たとは見られないのである。日常の地上の秩序と、高架上の表音を発する鉄の移動箱の行交う空間の秩序とは、決してあいいれない。川にとってかわってこの間に新しい境界帯をうみだしている。

その境界帯とは、高架下のどこでもみられる狼雑な空間こそがそれであろう。戦争直後は浮浪児、パンパン、闇市等であり、今は一杯飲み屋、パチンコ屋、ポルノ映画、麻雀屋、市場、倉庫等の看板と荷物のひしめく活気と疲労とが入りまじった高架下空間は、まさに境界領域のアジールといえよう。

高架の上には世界に誇る時間厳守の列車が走り、その下には騒音と喧騒の世界がくりひろげられ、洪水が橋脚にぶつかるごとく、アジールに生きる活気が高架の柱列におしよせているに違いない。そこは表音と震動で定住空間にならない現代の河原である。

ところで都市内の鉄道の高架下利用をみるとき、高速道路関連では西銀座デパート等を下に持つ東京高速道路株式会社線を思い浮べるであろう。高速道路の高架下が都市の機能として現代の市場を形成し、正統派境界空間利用を示している。

鉄道の高架下ほどの迫力あるアジール性は持合せていないが、銀座の一角にありながらどうしても銀座になりきれない様なところがあるのは、その境界領域性の故であろうか。むしろその出自に見合う猥雑性の追及が不足しているのではないか。

鉄道にとっては都市内高架の緑化等は思いもよらない仕業であり、そこには都市に境界空間を持込み、ここに好むと好まざるにかかわらず狼雑な空間を形成している。それは時代のなせる結果とも思えないので、やはり二つの異なる秩序の出会いのなせる業であろう。

そういえば、ここは有楽町と銀座との間の川であったのだから。もともと境界であるのだ。ついでにいえば、山口文象の数寄屋橋も朝日新聞も無くなってしまった。そう、境界領域にあるものは常ならざるものであるとすれば、これは長くもったほうかもしれない。

さて、こうしで高架道路”のこしかたを歴史的に見てきたが、言えることは都心に新しい境界領域を生出しつつあるということである。この領域がこれからどの様に育って行くであろうか楽しみである。

おりからウォーターフロント時代をむかえて、今までの境界領域であった港の倉庫街が芸能の場になろうとしている様に、高架下空間はこれからどんな芸能を生出してくれるであろうか。それとも道路法の排他性はとても芸能などはあいいれない代物であろうか。

しかし、都市の景観要素として定着するべき時代が来るときには、緑の晴れ着やお土産だけのお客様の立場から、日常生活の景観に埋没することこそ、あるべき姿であろう。

そのための仕掛けとして、中世の境界性が有していた情念を、高架の下の空間に見たいと思うのである。

注:本稿は、首都高速道路公団における「橋梁に関する技術講演会」(1987年5月14日)での講演の草稿である。これを後に整理加筆して「景観再考ー建築と都市の狭間から」と題して、1992年に建設通信新聞に連載した。