新潟・巻町:住民による住民のための観光

新潟・巻町を歩く

住民による住民のための観光

伊達 美徳

●路地サミットから

越後の小さな街で街歩きしていら、醤油蔵修理の市民イベントに出くわして、わたしもトンカチを握って杉板を打ち付けてきた。

新潟県の巻町に行ってきた。今は新潟市に合併して、西蒲区巻という地名であるが、読みにくい。 サイホクカンか。

新潟の人の発音を聞いていて、どうやらニシカンクマキらしい。蒲をなぜカンと読むのかと考えていて、そうか西蒲原郡(ニシカンバラグン)てのがあったような気がするから、その蒲原のカンであったか。

なぜ西蒲原区巻町にしなかったのだろうか。大昔はカマハラと言っていたのがカンバラになまったのだろう。

蒲だけ取り出してカンと読ませるのは邪道だ し、巻一字よりも巻町のほうが自然だが、地名ならしょうがないか。

よそ者には変だが、地元の人には当たり前なのだろう。

蒲原というごとく、巻町のあたり一体は蒲が生茂るズブズブの湿地帯であったのだろう。それがいまは豊かな米づくりの田園地帯となった。

その湿地帯の中の微高地に、いつのころからか集落が形成されて、その中の大きなひとつが今日の巻町なのであろう。

西蒲原群の郡庁舎が置かれて19世紀半ばからの地域的中心であり、また西川を流通経路とする物資集散地でもあった。今は西蒲区庁舎が置かれている。

巻町訪問は、「全国路地サミット」なる会議が新潟であり、そのエクスカーションで20数名の団体で訪ねたのであった。

この会議は、狭い路地好き人間たちが、年一回どこかの路地のある街に集って、裏路地をうろうろ歩き、その後は集ってあれこれと話し合い、夜は飲み屋で気勢を上げるのである。

マイナーな路地とメジャーなサミットの取り合わせは、単なる洒落である。

実は巻町については、わたしは何の予備知識もないままの初めての訪問であった。わたしの頭の中での巻町は、いつだったか原子力発電所で何か騒ぎがあったなあ、ってくらいなものである。

午前中は地元のボランティアガイドの方のご案内でグループ分けして歩き、昼食後に解散してからはわたしひとりで歩き回った。

ここに書くことは、現地で知ったこと、戻って調べたことによっている。たった5時間ほどの滞在で何かが分かるものではないが、ふらりと立ち寄ったひとりの観光客としての感想を書いておく。

●鯛車復活

案内人のせいかもしれないが、巻町は「鯛車」一色で塗りつぶされていた(ちょっと言いすぎだが)。

鯛車とは、60センチ立法ほどの鯛の形をした張子の行灯で、下に小さな木の車がついている。お盆の行事として、これに灯を入れて子供がごろごろと引っぱるのだそうだ。

これとほとんど同じものを新発田で見たことがある。新発田では「金魚台輪」といって、鯛ではなくて金魚の形をしていて、背丈ほどもある大きなものである。新発田諏訪神社のお祭りに、大人の曳く大きな台輪とともに、これを子供が曳くのである。

それと同じならば、越後では各地方にこのような工芸品と行事が伝わっているのだろう。そう思って案内の方に聞いてみると、三条と村上にあるが、もうほとんど廃れてしまったのだそうだ。新発田が例外的なのである。

ここ巻町の鯛車も60年代頃から廃れてしまっていたという。それをつい最近になって復活させたのだそうで、その復活張本人のひとりが案内人であったから、鯛車一色のガイドツアーになった。

復活を思いついたのが巻町出身の長岡造形大学生で、その卒業制作だった。蔵の中で埃をかぶっていた昔の鯛車を見つけ出してきて、その制作者を調べ、造りかたを研究して再現したのだった。

そしてこれを町興しにしようと企んだ若い役人とコンビを組んで、鯛車を自主制作して祭に出したり、制作教室を開いたり、学校での総合学習にとり入れたりしていると、昔はごろごろと曳いたことのある人たちが興味を示して、次第に輪が広が ってきた。

それがこの5年ほどのことらしい。

街の中心を貫く長すぎる商店街はいくつかに分かれていたが、今年の夏に「鯛車商店街」と統一名をつけてしまった。「まき鯛車商店街」と染めた幟旗が立ち並んでいる(この 幟旗はわたしの嫌いなもののひとつである、何しろ風景がうるさくなる)。

道の真ん中のあちこちある下水道のマンホール蓋にも、鯛車の形が彫り込んである。鯛車モチーフの饅頭やタイヤキの登場は、定番としてもちろんのことである。

面白いことである。まちづくりをひとつのテーマで推し進めているので、実に分かりやすい。

ただし、ふらりたちより観光客として言えば、鯛車はほとんど見えないのである。今回の訪問は案内していただいたので、あちこちで鯛車に出くわしたが、何も知らないとそうは行かないのである。観光資源として生かそうとするなら、何かが足りない。

もっとも、よそから来る観光客のための鯛車ではなくて、地域住民たちの生活の楽しみとして鯛車であるならば、それはそれで十分に立派なことであると思う。

よそ者のための非日常観光ではなくて、住む人たちの日常観光であるべきという視点は、実に大切なことだと、わたしは思っている。

観光の原義は、その地の誇りとなるなるものを見せて自慢することだから、そもそも地域住民が誇りとなるものがなければ成立しないのである。

ところで観光といえば、巻観光協会発行の観光案内パンフレットには、わずかに地元物産ページの片隅に小さな写真があるだけで、鯛車とも書いてない。ここに鯛車饅頭、鯛車焼、鯛車煎餅、鯛車最中、銘酒鯛車、鯛車ストラップ飾り、鯛車Tシャツが載る日は来るのだろうか。

●祭り

街の地図を見ると、まんなかを貫く“鯛車ストリート”の北端の突き当たりに諏訪神社が位置していて、よくある昔からの街づくりのパターンである。

鎌倉の若宮大路と鶴岡八幡宮、桐生の本町通りと天満宮のようなものであり、その神社の祭が地域を一気に沸き立たせる。

ここでも諏訪神社の祭が、新発田のように町を沸き立たせるのかと思って、地元ガイドの方に聞いたら、諏訪神社の祭りはなくて、市民祭りがあって神輿や町内の屋台が出るのだという。

神社の祭りでないのに神輿とは変だと思ったが、戻って調べてみると街のまんなかあたりにある巻神社(槙神明宮)の祭礼と分かった。

諏訪神社が街の北を押さえているとすれば、巻神社は中心あたりに、南は愛宕神社が押さえているのである。巻神社が一の宮らしい。

この巻神社の祭礼の日に合わせて市民がいろいろなイベントを重ねているらしい。神輿はもちろん、屋台、秋田の竿灯のような「やかた竿燈」、そして最近は復活した鯛車も登場して、大変な賑わいのようだ。

これはよそ者のための観光イベントではなくて、住民たちが自ら楽しむ祭りであるらしいことは、新発田の諏訪神社大祭と同じである。遠くに住む元住民たちも、この日には里帰りをするだろう。この祭りを住民が誇りに思えば、即ちそれが観光である。

祭りのときは、この鯛車商店街は完全に人で埋まるようだ。だが、わたしの訪ねたのは日曜日だったが、歩いている人がほとんどいなかった。歩いているのはわたしたちの仲間だけであった。 どういうわけだろうか。

わたしたちとて、歩いているのは街歩きイベントで来ていて、歩き回ってあちこちみるのが用事だから歩いているのだが、それ以外に用事はないのである。

わたしは好きで歩いているのだが、普通の観光客だったら、ここでなにが楽しいだろうか。

この街歩きに入る前に、元消防署建物を改造した郷土資料館に立ち寄って、昔の見世物「のぞきからくり屋台」とその実演を見たのであった。

わたしが幼児の頃、街にあった稲荷神社の祭礼のときに、これと同じようなものを神社前の河原に小屋掛けしてやっていた覚えがかすかにある。

その頃は、サーカス小屋 もあれば、蛇女とか首だけ女とか大いたちとかの奇妙な見世物小屋があった。蝦蟇の油売りとか透視眼がね売りとかの怪しげな口上香具師もいた。

巻町でも、あんな街外れの殺風景な消防自動車の車庫の中で見せるよりも、例えば諏訪神社の境内に小屋掛けして、その中で見せてくれると見世物らしい立地だし、街の活性化にもなるだろうと、わたしは思う。

ついでに車庫の中の「のぞきからくり」の隣には、雑然と展示なのか収納なのか分からない状態の埃をかぶった大量の蒐集民具の類も、あれではまるで生きていない。鯛車商店街の各店の前にでも置いてはどうか。それなりに懐かしがって見る人がいるだろうし、使い方を教えてくれる人もいるだろう。

そう、街そのものを資料館にするのである。空き家もたくさんあるようだから、郷土資料館街としては最適である。

●街並み

街を資料館とするならば、街並みこそが郷土資料の生きた第一級の展示品なのである。

鯛車ストリートをひとりで端から端まで歩いたが、けっこう興味深い街並みの姿であった。いわゆる町並み保存に値するほどの伝統的な街並みではないが、それでもかつての姿を偲ばせる町屋がけっこうある。

平入りと妻入りが混在しているのだが、どちらが本流なのだろうか。妻入りよりも平入りのほうが間口が広いようだ。

いずれにしてもこのような街道筋の街にあるように、間口が狭くて奥行きの深い短冊方の敷地であるから、奥のほうはまた別の建物があり、中庭があったりするのだろう。

鯛車商店街の通りを背骨にして、横骨のように狭い路地が出ているし、敷地の奥に入る長い通路もある。

興味深いと思ったのは、歩道(公道部分か敷地か分からないが)の上に雁木というかアーケードがかかっているところが多いのだが、その上にせり出している家がたくさんあることだ。

それらが連続していないのだが、もしこれが連続しているとイタリヤの歴史都市ボローニャのポルティコである。あんなふうに連続して建てると、各家のファサードも見えて雁木も続く特徴ある街並みになるのだがなあと、思ったのであった。

商店街の中ほどに「交流館囲炉裏」となづけた、お休みどころがある。最近の開館らしい。

これがあるのは良いのだが、よそ者の勝手な言い草として読んでもらうが、黄色いパラペット看板建築は巻町に似合わない、せっかくならば巻町らしい伝統的な町屋にしてほしかった。

歩いていると、いまは空き家となっている大きな建物の壁を修理をしている一団の若者たちがいる。

聞けば、元は醤油の醸造所であったという。鯛車商店街の表通りには酒などの店を開き、その裏には醤油などの醸造工場であったが、とっくに閉鎖している空き家である。かつては新潟地域では名だたるブランドであったという。

醤油蔵、釜場、煉瓦造煙突などがあり、これの朽ち果てるのを惜しむ若者たちが集って、自分たちで修理することで街づくりへのきっかけをつかみたいのだそうだ。

「少しづつ、丁寧に、アクションを起せば、小さな違いが生まれ、前よりもよくなります。更にずーっと続けられたらもっと良くなります」

この「中吉川プロジェクト」の手作りパンフに、そう書いてある。

醤油蔵の中では、ここのご当主が商売の歴史を語っておられて、住民が大勢集っている。よそ者はわたしだけのようだ。

修理で壁に張り付ける杉板1枚千円、わたしもカンパして、板裏に墨黒々と署名して張りつける時に釘を3本打たせてもらった。

鯛車復活といい、醤油蔵修理といい、住民による住民のための観光が起きそうで、眠っていそうなこの街の、何かが変りそうな予感がする。

5年後の夏祭りの日に再訪したい、生きていてボケていなければ…。(20101026)

●謝辞:巻町歩きをご案内いただいた土田真清、阿部幸子、広野幸二の各氏に厚くお礼を申上げます。