身延町丸畑:木喰の風景

木喰仏の風景

伊達 美徳

(2009/05/17)

1.微笑する仏

「微笑(みしょう)とは、仏教用語では男女交合の法悦の極の表情を言うこともある」

そう教えてくれている伊藤勇さんとわたしの目の前には、木喰上人がつくった「微笑仏(みしょうぶつ)」が5体並んでいる。

ここは山梨県身延町の丸畑(まるばたけ)という山村集落、18世紀末から19世紀初めにかけて全国に行脚し、1000体を超える木彫像を彫った僧・木喰行道 上人(もくじきぎょうどうしょうにん 以下「木喰」ということにする)の生家である。

その僧の縁者の末裔である伊藤さんは、押入れの上段を改造した仏壇にならぶ「五智如来」の列像を前に、その木喰の生涯、その作品、その仏道についての長年のご研究を語っている。

木喰の作る木像を「微笑仏」と名づけて「ミショウブツ」と呼ばせるようにしたのは宗教学者の小島通生氏だが(伊藤さんの話)、濁音が2つのビショウブツよりは語感がよい。たしかにその多くの像のもつ独特の笑みには、誰もが惹かれることはまちがいない。

わたしのはじめての木喰仏体験は、長岡市小国町太郎丸にある真福寺で「梨の木観音」だった。小さな祠の奥で、わが手にもつ灯りに浮かびででたそのお顔の笑みには、こちらが破顔一笑、一目で惹かれたものだ。

仏教ばかりか宗教全般にわたしは全く興味がないのだが、この微笑と書いてミショウと読ませるのは、仏教の経典にある言葉らしいが、それはどのようなことかと少し気になっていた。

丸畑で伊藤さんに出会って、その意味をたずねての回答が、この冒頭の言である。

今わが目の前の仏たちの放つ笑みは、きわめて個人的な性の発露でありながらも、実は万人に普遍的な悦びの表現なのか、、。

わたしは唖然とし、そして笑ってしまった。わが笑いには、意外性への驚きと同時に、性的な隠微さへの哂いもあったことも白状する。

ちょっと意外なのでもうすこし突っ込んで聞きたかったが、なりゆきによっては展開がアブナさそうである。この日は、まわりには今日はじめてあった山梨・山の会メンバーの紳士淑女がいらっしゃるので遠慮した。

そこで、あちこちWEB検索して仏教用語の微笑を調べ、後日に伊藤さんにさらに電話し、再訪して伺ったのであった。

「大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)」に、「拈華微笑(ねんげみしょう)」あるいは破顔微笑とあって、簡単にいえば以心伝心のこととある。性的な意味はないから違うようだ。

伊藤さんから「理趣経」にあると教えてもらった。「妙適悅淸句是菩薩位(みょうてきえっせいくでいぼさつい)とあって、その解説は「男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地」とあり、さらに「熙怡微 笑(きいみしょう)」という言葉 があり、これだそうである。

丸畑集落は、自治体の地域おこし事業らしく、「木喰の里」と名づけて、「微笑館」という木喰資料館を建てている。

これをミショウカンと読むのかと思ったら、案内看板にBISYOKANと書いているのだった。

さては、あのミショウが公共施設名ではマズイなあ、と気をまわした人がいたのか。関連→016-3つの展覧会

2.故郷の高僧

丸畑集落は木喰の里と名づけられているのだが、その木喰の故郷は木喰にも仏像にも必ずしも微笑をもって迎えられなかったようだ。

1800年の83歳となった木喰は、回国修行を成就した高僧の上人とって故郷丸畑に錦を飾る。木喰は故郷の村人たちの懇請により、その人生で一箇所で最多の9 9体もの群像を2年がかりで彫り上げたのだった。

そのうち83体が同時期に建立された四国堂の内に並んだのだが、それは壮観であったろう。

だが、その乞うた村人たちは、木喰支援から次第に脱落してしまって、完成開眼法要に準備にも当日にも誰ひとり姿も見せなかったと彼の自伝には書いて いる。

彼は85歳の冬に、故郷を失意の旅立ちをするのだが、そこにはどのような確執のドラマがあったのだろうか。

渾身の彫像群を創造して、その創作活動に花を咲かせたこの時はすでに85歳、平均寿命が40歳程度だったらしいその頃ならば、人間を超越するほどの長寿大先輩であ る(木喰行道の年齢はもう10歳若いとする説もあるが、現在からみれば大差はない)。

遊行する諸国では、木喰五行上人と呼ばれる高僧になっていたにもかかわらず、そこが故郷であればこそ地域社会に摩擦をもたらす何があったのだろうか。

生まれ故郷では、他国から放浪して来る遊行の高僧であるわけには行かずに、かといって地域に根を下ろした宗教的リーダーでもなし、放浪と定着の狭間に落ち込んだ木喰行道の悲劇が見える。

だが、その後の木喰行道の木彫活動は各地でさらに進展するのだから、後世のわたしたちはむしろ喜ぶべきか。

それから約100年後の1904年、村人たちの間でその群像の所有権を巡って、木喰生家の伊藤家当主と争いが起ったそうだ。

そして裁判沙汰の末に四国堂は解体して薪となり、仏像はほとんど他に売却されて四散し、残った数体の木喰仏は塵にまみれたままになったという。

微笑仏とはいいながら、なんとも人間臭いことだ。たしかに奈良の仏と比べるとなんともダサくて、実に人間臭い木喰仏である。

だが、考えようによっては、それらの四国堂仏は100年前の木喰のように、仏像たちもまた廻国の旅に出たのかもしれない。

1924年の正月に、甲府近くの家で偶然に木喰仏に出会ったのが、後に民芸運動を起こす柳宗悦である。

柳はその仏の微笑にうたれ、丸畑をその半年後の訪れて16体の木喰仏と木喰自筆の書を発見したことから、木喰仏が世に出る大きな展開が始まる。

だが、その発見を喜ぶと同時に、四国堂の解体と仏像の四散を大いに嘆く柳の手記がある。皮肉にも四散したからこそ、彼は木喰仏に出会うことができたのでもあったのだが、。

歴史にもしもはないが、もう5年早く柳が丸畑を訪れていたら、その後の木喰仏はずいぶん違った展開となっていただろう。

3.野と民の仏

木喰仏発見における柳の助手であった式場隆三郎によれば、柳が日本の民芸運動にのめりこんで行ったのは、この自伝に書かれた各地の木喰仏を捜し求める旅で、 各地の民家でさまざまの美しい民芸品に出合ったからだという。

木喰仏、丸畑、柳宗悦、民芸運動という展開を知ると、この丸畑の地に深い意義を深く思うのである。それにしても日本各地につぎつぎと木喰の彫像を発見していく柳宗悦の記録を読むと、その知的興奮がうらやましくなってくる。

四国堂は1978年に伊藤勇さんの努力で、全国からの浄財をもって再建された。子安観世音像と日本廻国供養の石碑が安置されているが、かつての80体群像の壮観を観ることはできない。

丸畑の木喰センターとも言うべき「微笑館」を訪ねて、わたしはちょっと引いてしまった。

外は殺風景な駐車場と公衆便所、一見和風の変哲もないコンクリ建物、中はガラスケース入りのレプリカばかり、木喰行道生涯ビデオとくれば、これは専門の展示業者に発注したのだろうが、どこででも出くわす観光施設なのであった。

もちろん本物もあるにはあったが、木彫が一体と木喰の書いた古文書であった。本物でなければいけないとは思わないが、あまりにも陳腐な内容と展示方法で期待をそがれた。

これに比べて木喰生家と四国堂は面白かった。それは微笑仏の本物に手に触れるほどに出会えたこともあるが、伊藤さんという案内人の特異なキャラクターに支えられているところが大きい。まさに木喰語り部であり、木喰ミュージアム学芸員である。

一方の微笑館が、あまりにもつまらなかったからとも言えるのだが、考えてみると木喰仏はいわば野の仏あるいは地の仏であり、麗々しくガラスケースに入れて鑑賞するものではないのだ。また、大寺院の奥深く鎮座してご開帳の時だけ姿を見せるものでもないのだ。

雨ざらしで木目が浮き出てひび割れた馬頭観音、囲炉裏の煙でいぶされて真っ黒な五智如来を見れば、それと分かるではないか。よそでは子供が水遊びの浮きにしたり、雪遊びの橇にしたともいう。まるで今のペットであり、ぬいぐるみ人形である。

かつて柏崎周辺で、十王堂などいくつかの木喰仏を訪ねたことがあるが、いくつかはその集落の片隅にある小さな祠にあって、町内会で管理をしているのであった。

どうぞ手に持ってみてよいですよ、背中の文字を読んでくださいよ、写真もどうぞと、気軽に見せてくださった。もちろん丸畑の木喰生家でもそうだった。

都会の美術館でライトのもとのガラスケース展示を見て、あれらは寺院の堂宇の奥にあるとばかりに思っていたので、この無造作なもてなしにこちらは 戸惑いつつおおいに感激するのであった。

そして木喰仏こそは、そのように民衆の中にあるものだと気がついたことだった。

4."木喰フィールドミュージアム丸畑"

ところで、柳宗悦が唱えた民芸とは、鑑賞のための美術品ではなく、「下手物」という日常生活で使う道具であり、その美は用に即している「用即美」であるという。

どうやらこれは木喰仏と言い換えてもよさそうだ。

とすれば、見えてくるものがある。そう、木喰のつくる木像は丸畑の地の家に、野に、畑に、祠に、人々の腕の中に、子供の遊びの友として、神でもあり仏でもあるし、子安観音はもしかしたらマリア像かもしれないし、古今東西どこにでも存在するものなのだ。

丸畑の山村集落全体が木喰仏の座なのだ。

「木喰の里」とは、"木喰フィールドミュージアム丸畑"のことなのである。

フィールドミュージアムとは、1970年代から唱えられた地域概念であり、ある地域全体をひとつのミュージアム(博物館、美術館、資料館等の包括概念)とみなして、その地域の自然と文化をあるコンセプトの下にネットワークして、住民は学芸員となって地域を支えていこうという生活運動であり、地域思想である。

つまり丸畑集落は、木喰仏とそれを生んだ風土をテーマとするフィールドミュージアムであり、微笑館はそのミュージアムのコア施設であり、木喰上人生家、永寿庵、山神社、マッコ堂などの木喰仏を巡って、丸畑の自然と文化をネットワークする大きなミュージアムが成立しているのである。

わたしはいかにもこと新しく語っているが、微笑館をつくるに当っては、多分、そのような"丸畑ミュージアム構想"が立案されたに違いないと思うのだ。 何の構想もなくてあのような公共投資をするはずがない。

それなのに、なにか全体に中途半端なままなのである。聞けば、微笑館を作る当時に自治体関係者、集落民、そして五智如来像を安置する永寿庵(宗教法人)の檀家との間で、思惑やら意図の違いがあって木喰仏像を帰属をめぐって、またも訴訟沙汰となるる争いが起きたのだそうだ。どうやらそれが尾を引いているらしい。

木喰は故郷を去った後に93歳で1910年に没したが、その後に200年にわたる人間臭い確執を置き土産にしたのだった。微笑仏のミショウ の意味の人間臭さとともに、まことに興味が尽きない人間ドラマのフィールドミュージアムである。

5.山村の文化

丸畑は典型的な山村である。山間のやや緩やかな斜面地に段々畑を作り、人家はさらに急な斜面に集まるのは、どこの山村でも見られるような風景である。

生活するとしてもわずかな農地で自給はできにくいだろう。 伊藤さんのお話では、現在の丸畑にある5集落合わせて32戸、50人、だれもが70歳前後だそうである。もうこれはいわゆる限界集落を超えているから、いつまでこの集落が維持できるか楽観は許されない。

各地のいくつかの山村を訪れて見てきたが、どこも生き続けるのは難しそうだ。

毎月のように行く長岡市の法末集落は約60戸の山村である。美味い米ができる棚田の農村として継続している。特に文化的な特徴はないが、中越震災復興を足がかりとして地域振興に力を入れている。参照→中越・法末四季物語

丸畑と同じ身延町の赤沢宿は、身延山の西に早川の上流の急斜面地にある孤立集落である。この集落の成り立ちは、久遠寺から奥の院を経て七面山に身延巡礼する人々の中継ぎの宿場町である。かつての数多くの旅館が密度高く立ち並ぶ斜面の集落は、重要伝統的建造物群として文化的街並み景観を維持している。

しかし、信仰は薄れ、自動車による移動が楽になったいまは、旅館営業は1軒のみである。 歴史的景観を資源とする観光で生きるしかないだろうが、生活基盤となる農地はないし街からは遠過ぎるから、継続は苦しいだろう。

宮崎県の高千穂町の秋元という40戸、120人の集落をたずねたことがある。有名な高千穂の夜神楽を、その集落のある家がその年の当番となって主催する(神楽宿という)ので、ツテをたどって見せてもらったのだ。

それはもうかなり山深いところであったが、100人を超える人々が全国あちこちから夜神楽見物にやって来る大イベントであった。この神楽宿のご主人は、町役場に勤めているそうだ。それにしても、よくこのような山村でこのような芸能が継承され、これほどの人がやってくるものかと、地域文化の力に感動したのだった。参照→070高千穂夜神楽

四国の祖谷山村に、祖谷川と吉野川の出会いから、2日かけて40キロを歩いて訪ねたことがある。平家落人伝説と蔓橋で有名なところである。この奥に人が居るのかと思うほどだったが、蔓橋を観光の目玉にして地域振興を図る 開発の様子がものすごかった。

温泉掘削、大駐車場、物産館、新設道路などの地域振興のための大工事は、目玉となる蔓橋の肝心の景観を台無しにしていた。ほとほと嫌気がさして2度と来たくないと思ったのだった。参照→自然と生活を二つの山村に見る(2005)

祖谷で思ったのと同じく山村が生き続けるためには、これほどの投資をする必要があるのだろうかと思ったのは、中越震災復興の地・山古志の集落群でもそうであった。参照→中越震災3年目の山古志を訪ねた(2007)

実はわたしの本音は、山村が生き続けることは、かなり特殊な状態でしか可能ではないだろうと思っている。政策は、生き続け策でなければ政治家も行政も言えないだろうが、無理やり生き続け策はかえって不幸を招いていると、わたしは考えている。そのことは別に書いている。参照→地域のしまいかたを考える(2007)

さて、丸畑である。木喰の里という文化のコンセプトは、この山村を継続する力となりうるのだろうか。

6.四国堂仏里帰り幻想

木喰行道は丸畑を基点として、1773年、56歳から歩き始めたようだが、北海道から鹿児島までくまなく巡っている。

伊能忠敬が日本地図をつくるために歩き出したのが1800年の56歳からだそうだから、どこかで行き交っているかもしれない。伊能の行程がウィキペディアに載っており、1803年に伊能は長岡あたりを通り、木喰行道は小千谷の小栗山に行っているから、可能性がないとはいえない。

調べていはいないが、菅江真澄はどうだっただろうか。

わたしの今の年齢の頃はどうしていたか見ると、70歳で宮崎の日向の国にまでいたり、ここの国分寺に10年間居ついて80歳で再興した後に日向 を出て、山陰、中国地方から四国に渡って一周、大阪へ渡り東海道を下り、清水から身延を経て、丸畑へ戻った時は83歳となっていた。

そのあとも85歳からまた旅に出るのだから、木喰行道は丸畑の人というよりも、全国区の人であるといってよい。とすると、実は木喰フィールドミュージアムとは、丸畑だけではなくて、列島4島に佐渡島を加えたほぼ日本全 土であるべきだろう。

全国各地の木喰仏のある地区はそれぞれに木喰ミュージアムであり、木喰の歩いた道はミュージアムトレイルであり、丸畑はそれらのコアミュージアムなのだ。

さてここからは、わたしの丸畑木喰幻想である。

毎年6月初めになると、丸畑の木喰の里は忙しい。6月5日は木喰上人の命日、微笑忌という。そして6月9日は柳宗悦が丸畑をはじめて訪れて、木喰上人を世に知らしめる大発見をした日である。

これを記念して、木喰四国堂仏里帰り法要と、全国木喰サミットの年中行事を行うのである。全国各地の木喰仏のある各地からの参加者が、木喰上人が歩いた道をそれぞれにたどって丸畑を訪れてくる。

そして、1802年から1919年まで四国堂にあったが全国に四散した仏像群が、この日だけは再建された四国堂に里帰りをしてくるのだ。

その制作者だった木喰上人が廻国しては丸畑に戻ったように、四国堂仏も廻国の旅に出ては、1年に1度は丸畑の四国堂に里帰りするのである。

常葉川のほとりに各地から集まってきた四国堂仏は、笈に背負われて行列を作り、山道をのぼって仏像群のふるさと丸畑に入り、四国堂に安置される。今、所在が分かる四国堂仏は39体、そのうち丸畑には8体があるから、31体の行列が静々と山道を登る。いや、失われ た像は復元しようか。それなら全部で83体だったから75体もの壮観な行列になる。

それは高千穂の夜神楽のように、なつかしい伝統行事となって毎年その日だけのハレの日が丸畑に訪れるのだ。思い出したが、高千穂でもその日の夜神楽のために村の神社から神楽宿に勧請する神霊鏡を、村人が背負って参列者の行列で往復していた。

柳宗悦の発見を記念する木喰サミットは、微笑館を会場にして、各地からの木喰研究者たちの報告や、木喰ファンたちの交流をおこなう。

さて、来た人たちの宿をどうしようか。

山形県の櫛引町には、黒川能と言う伝統芸能が伝えられていて、高千穂と同じように当番制で真冬に能楽を舞う行事がある。山村ではなくて農村だが、地区をあげての年中行事で、全国からファンが押し寄せる。もちろん旅館はないから、公民館がゲストセンターとなって、雑魚寝の宿ともなる。

丸畑の空き家や空き地のテントに泊めてもらうこともあるし、四国堂や永寿庵、あるいは木喰微笑館の会議室に雑魚寝で泊めてもらって、夜を徹して再会した群像を見入りつつ、山里の暮らしを語り合うのだ。

こうして丸畑に木喰の風景がよみがえったのである。

これはよそ者の勝手な幻想というか、200年の争いの渦に関係のない者のあらまほしき妄想・夢想である。(090404初稿、090421伊藤勇氏の指摘で修正)

参考資料

・「生誕290年木喰展 庶民の信仰―微笑仏」(2007~08展覧会図録)

・「柳宗悦全集第7巻」(柳宗悦 筑摩書房1981)

・「宿命の芸術」(式場隆三郎 昭和刊行会1943)

・「木喰仏のふる里」(伊藤勇 用陽書房1974)

・WEB身延町地域資料http://www3.town.minobu.lg.jp/lib/shiryou/mokujiki/index.html

・「木喰精舎」(全国木喰会)第21号(1993)、第26号(2008)

・「8世紀の人もうけの原点、北海道から鹿児島まで40年間にわたって旅と造仏を続けた木喰上人―山梨県下部の丸畑の生家をたずねる」(糸乘貞喜<よかネット>No.70 2004/7) http://www.yokanet.com/pdf/backnumber/no70/htm/net01.htm

参照⇒

「中山間地論」(まちもり通信:伊達美徳)

「まちもり通信」(「伊達美徳)