都市計画教科書:都市を再生する

都市計画教科書:都市を再生する

初めて学ぶ都市計画」現況と展望編第7講

伊達美徳

7・1 21世紀の都市再生へ

(1)20世紀型都市づくりの変質

20世紀の日本は、人口の増加と近代工業の発展に対応するように、無秩序な拡大と高密度化で環境や景観に問題のある市街地が生まれつづけた。これをどのようにコントロールするか、それが20世紀の都市計画の基本的な役割であった。

しかし、21世紀日本は成熟社会となり、人口は安定から減少へ向かうとともに超高齢社会になろうとしている。産業も技術革新や国際化の影響を受けて設備投資に変化がおきている。

こうして20世紀に形成した建物や市街地は次第に見捨てられようとしているものも多くなりつつある。地方都市の中心市街地は空洞化が進み、各地の工業団地は売れ残るばかりか工場が海外に移転する。大都市近郊のニュータウンと呼ばれた大規模住宅団地では建物老朽化と住民高齢化で空き家が増加している。1970年代から全国各地の都市に大量に建ったマンションといわれる区分所有型共同住宅は、老朽化による建て替えに直面しながら暗礁の乗り上げ、加えて阪神淡路や中越大震災は都市の脆弱さを浮きぼりにするなど、20世紀型都市の諸問題が次々に露呈しつつある。

(2)都市の再生へ

建築や都市は人間のバイタリティある生産と文化の活動を支える装置であり、人がヒトとして生きる生態系の維持装置のひとつでもある。その装置機能が衰えようとするとき、これからも人間は生きていくために、装置の保全とともに修理や取替える動き、つまり建築と都市再生へのさまざまな多様な動きが起きている。

ひとつひとつの建物を修復する「コンバーション」や「建て替え」からはじまり、複数の建物群を道路や公園と合わせて総合的に再整備する「団地再生」や「拠点再開発」、産業構造の変化による「大規模跡地開発」、郊外開発の抑制と市街地のコンパクト化を進めて都市構造を変える「中心市街地再生」等の多様な動きがある。それらを総称してここでは「都市再生」という。

都市再生は大都市から中小地方都市にまで及ぶ日本全国各地の問題であり、今後の日本の人口減少と超高齢化そして産業構造の変化と国際化に対応するべき大きな課題として、生活と生産の空間の改造としてとらえるところに都市計画の役割がある。

===コラム●都市再生とは===============

都市の再生については、狭義にはずばりそのものの法律「都市再生特別措置法」(2002年)があるが、本稿で言う都市の再生とは、機能の低下した既成の都市をつくり直して、再び活力ある暮らしやすく働きやすい都市とする、広義の考え方を言う。

狭義の都市再生としての都市再生特別措置法の目玉は、これによる「都市再生特別地区」を指定した地区には、それまでに指定されている都市計画規制は原則として適用しないことができることである。既存の諸規制をはずして、その地区に最もふさわしい創造的なまちづくりをする趣旨である。1990年代後半からの経済不況対策の規制緩和政策であり、大都市・大規模開発偏重となり、都市環境への配慮などの点で、世の批判の的となっている面もある。

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7・2 住宅・住宅地の再生

(1)住宅の再生

広義の都市再生のもっとも単純なレベルは、その機能や構造が劣化して使うことが難しくなった建物を改修して使い続けるようにすることである。住宅では「リフォーム」と呼ばれ、最近では高齢 者世帯に対応するバリアーフリー改修が典型的である。

一方で主に大都市内で、オフィスビルを共同住宅等の全く異なる機能に改修して再利用する「コンバーション」の動きが起きている。

立地条件や建物仕様が不動産市場性として不利となった中小オフィスビルの新たな市場性を求める経済的な動きである。もっともこの修復再利用の手法は珍しいことではなく、たとえば駅舎を改修したパリの「オルセー美術館」や港湾荷約倉庫を商業施設に転用した「横浜赤煉瓦倉庫」等、記念的な建物で行われてきた。今日では企業の保養所を高齢者介護施設に改装するなど、ごく普通の建物にも及ぶようになりつつある。

その背景には、取り壊して建て替えることと比べて、再投資の経済性だけでなく、環境負荷の低減あるいは都市の文化的景観の保全への対応等の成熟社会の傾向が背景にある。

(写真:横浜赤煉瓦倉庫の商業施設)

「マンション」(mansion)とは、もともとは庭園のある豪邸をさすが、日本では住戸毎に所有権を分割して分譲された複数の小住宅が並列重層する区分所有型の建物をいう。

その特徴は、多くの権利者によって建物も土地も権利関係が細分化される複雑な状況にあることである。

その複雑な建築物は、日本各地の都市に1970年代から市街地内に公団や公社の公的供給主体に限らず民間事業者の開発で急増して来た。1981年に建築基準法改定で建築構造の耐震基準が厳しくなり、それ以前の共同住宅ビルは耐震性の問題ばかりか住戸規模や設備老朽化もあり、建替えの必要性が顕在化している。

2001年末時点で全国で約400万戸の共同住宅(分譲型、賃貸型を含めて)があり、約1000万人が住み、そのうち老朽化の目処となる築後30年のものは2011年には約100万戸になるという政府の調査がある。

特に1995年の阪神淡路大震災において区分所有型共同住宅の再建が非常に困難なことが露呈した。建替えるにせよ修復するにせよ、多くの権利者たちの合意が簡単ではないのである。そこで「区分所有法」改正と「マンション建替え円滑化法」(2002年)の制定をして、建替えのための権利者の同意条件を緩和した。

しかし、現実には多数多様な権利者たちが協力して建替えるのは資金や生活の違いで合意形成に多くの困難があり、建替え事例は少ない。

多くの建替え手法が、建替え後に床面積を増加し、それを第三者に販売することで建設費の捻出を図るのだが、既存建物が都市計画指定容積率よりも低く余剰分があれば可能だが、最近のものはそれがないものがほとんどである。阪神淡路被災共同住宅においても、これが建替えを困難にしていたので、建築基準法の特別措置を講じた。

どのような建物もいずれ老朽化するし、大地震があれば何らかの被害を免れないので、大規模修繕や建替えがいずれ必要となる。複数等が同一敷地にある区分所有型共同住宅団地は更に合意形成が難しい上に、近年は超高層分譲住宅のような大規模多数権利者の共同住宅開発はやむことなく、課題は今後も大きいのである。区分所有型共同住宅にのあり方については、住宅政策として再検討すべき時に来ている。

========事例:同潤会アパートの建替え=========

関東大震災(1923年)の復興策のひとつとして、内務省帝都復興院は罹災者に住宅供給と生活再建支援のために財団法人同潤会を設立。鉄筋コンクリート低中層共同賃貸住宅を都区内と横浜の被災地に、1926年から34年にかけて計108棟多く建設。平面、立面、設備、構造ともに先進的な日本の共同住宅の原点とも言うべき内容であった。

その後に居住者に売却し、区分所有型共同住宅として維持されてきたが、老朽化が進み、建て替えが順次進められてきている。

例えば、東京・渋谷区代官山アパート(36棟337戸)は2000年に商業業務施設と共同住宅(501戸)の「代官山アドレス」に、江東区清砂通りアパート(16棟、663戸)は2005年に共同住宅(266戸)と公益施設等の「イーストコモンズ清澄白河」に、渋谷区神宮前の青山アパート(10棟、138戸)は2006年に商業施設と共同住宅(36戸)の「表参道ヒルズ」に、それぞれ建替えた。

これらも含めていずれの建替えも、居住者の永年にわたる愛着と老朽化問題の間でゆれ続け、裁判や紛争も経ながら任意等価交換や市街地再開発事業の手法をもってこぎつけた。

(写真左:イーストコモンズ清澄白河 右:表参道ヒルズ)

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(2)住宅地の再生

ここでは20世紀に建設された大規模な住宅団地の再生をとりあげる。

国土交通省によると、1970年代までに全国で建てられた団地住宅は約3百万戸ある。それらは建築設備の老朽化、耐震強度の不足、現代の生活条件の変化に対応しない広さや間取り、エレベーターがなくて高齢者向きでないなどの各種の問題を抱えており、ほとんどは改修や建替えが必要とみられている。

たとえば東京・多摩ニュータウンでは、4階建て以上でエレベーターがない住宅は約6割、2万4千戸もあり、高齢者には住みづらく、空き家が増え、コミュニティの維持継続が課題となっている。

これまで公的機関(自治体、公団、公社)によって建てられた公営住宅・賃貸住宅団地では、全体的な改築計画を立てて、新たな環境の確保と住み替え住宅と新規住宅を建設し、順次に建て替えて住民が移り住むとともに、新規住宅の建設を行っている。併せて新規分譲住宅を建設する等により土地利用の更新と建て替え資金の調達等も行われてきている。

分譲した区分所有型共同住宅の建替えや改修の場合と比べて、賃貸型共同住宅のそれのほうが入居者の合意がしやすく、多くの実績を持ちつつある。

大規模な住宅団地の再生の必要性は、日本ばかりでなくアメリカやEU先進諸国の都市でも起きている。アメリカはスクラップアンドビルド型が中心だが、EUの諸都市での動きは、人口減少に対応して建替えよりも既存建物の修復保全的な手法あるいは一部撤去して環境を整える再生事例が多くなっている。

部分的な建替え、小規模住戸どうしを合体して戸当たりの床面積の拡大、エレベーターや廊下の付加、コミュニティースペースの確保、防災防犯的改良、設備の改善、景観の改良など、日本でも行われている手法に加えて特徴的なことは、一部を取り壊して公共施設や公園などに転換して、戸数減をしていること、そして公的資金を積極的に投入していることである。

日本における共同住宅や団地の建替えが各地で話題となるにつれ、その合意形成、資金調達、事業成立性等が容易でないこと、スクラップビルド型建設における大量の廃棄物の排出への環境問題などが認識されてきた。

更に人口減少時代を迎えて新規住宅供給の必要性の再検討も必要となり、戸数増加による建替え事業資金調達方法は行き詰まりを見せ、新たな再生手法が求められ、日本においてもEU諸国のような再生方法についての模索検討が一部には始まっている。しかし、日本の現段階では、戸数を削減するような制度的枠組みや支援策も今のところない。建築基準法も都市計画法も、減築や縮減・閉鎖の事態を予想していないのである。

==========事例:旧住宅公団団地の建替え ==========

武蔵野緑町団地は、東京都武蔵野市に1951年に日本住宅公団が建設した32棟1019戸の賃貸住宅団地。これを現在の都市再生機構が1991年から約11年をかけて5度の建設・入居をくり返して建替えをすすめて、今は都営住宅を含む約1200戸の住宅団地に生まれ変わった。住宅の平均規模は32㎡から58㎡に拡大、設備も向上。団地内に新に都営住宅を建設して低所得者層へ対応し、市の意向で老人健康保健施設も導入。建替えにあたっては、市・居住者・公団が精力的に話し合いをすすめ、コミュニティの継続や緑の環境の保全を目指し、土地利用・住棟配置・動線等の計画づくりや見直しをした。高層・高密度化しながらも、従前からの歩行動線を確保して地域ネットワークを維持し、並木道の緑を保存するなど豊かな団地環境を保った。

(写真は武蔵野緑町団地 左:建替前 右:建替後 都市再生機構提供)

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7・3 都市中心核の再生

(1)都市中心核の消長

都市においては、交通、商業・業務、文化・行政等の機能が多様に複合して集積する、その都市の中心核となる地区が存在する。その集積が都市に住み働く人々の活力を生み出している。

その中心核は、近代以前は門前町や市場あるいは港町に発生し、近代以降は駅前や市街地中心部に成立してきた。常にその活力を維持し続けるために、商店街に大型店、業務地区に高層ビル、高速交通網、道路や広場など、時代の変化に対応して機能や規模を更新し再生していく。

特に東京、横濱、名古屋、大阪、福岡のような大都市は複数の中心核を持ち、それらが競争しながら消長をする。あるいは都市を超えて広域的、国際的な中心機能を持つ中心核は、アジアの諸都市とも競争しながら常にその更新を進めている。

東京の中心核の消長を見よう。東京では戦前から、千代田区・丸の内地区が国際的なビジネスの、中央区・銀座地区が商業のそれぞれ中心としてのトップの位置を占めてきている。それらは常に更新しつつ時代に対応しているのであるが、それなりに消長はおきる。

東京の商業中心核の地位は台東区・浅草地区から銀座へと戦前に移ったのであるが、今の銀座は港区・六本木地区の追い上げを受けている。丸の内は常にビジネスセンターとしての地位を占めながらも、六本木や新橋などの追い上げを受けるばかりでなく、ビジネスが国際化した現今ではアジア諸地域大都市との競合下にもある。銀座も丸の内も次の時代に対応する展開を常にめざしている。

それらの力のある中心核は、単に建築更新のみではなく新たな都市生活圏の魅力となる機能をとり込もうとしている。

その典型は六本木地区の美術館やファッション産業あるいは先端企業の導入を積極的に進める文化交流核への動きである。かつては東京の文化中心核は官主導で文化施設を集積した上野地区であったが、今は民主導開発による六本木地区へ移行しつつある。

丸の内は、ビジネス機能に特化して発展したが、最近は積極的に商業機能を導入、働くビジネスマンばかりでなくショッピングや観光の都心としての魅力を形成しつつある。

(2)建築から街区そして地区の再生へ

都市の中心核の再生は、はじめは老朽化した建築物の建替えや道路広場などの再整備をそれぞれ個別に行うが、ポテンシャルが高まるに連れて敷地だけでなく街区全体の建築物の建替えと、周囲の道路や公開空地の公共施設整備も合わせて行うようになり、更に地区全体の計画の上で再生を進めるようになる。

東京都千代田区の丸の内地区では、20世紀初頭から業務中心として開発が始まった。建築物の高さは20世紀はじめまでは低層15m、次は31mから45mへ、そして21世紀初め今は100mか200mへと、時代の需要に対応して建替えてきている。建替えのたびに敷地や街区を統合して大規模建築とし、道路も付け替え拡幅を繰り返し、次第に建替えの間隔は短くなり最近では30年程度で建替えている。

東京・丸の内地区では、大地主が中心となって更新してきたため、建築からと意思規模への展開が時代に対応しつつ機動的に進んできた。

しかし一般には更新による再生は建築ごとの個別の動きとなりやすい。東京や大阪では超高層建築が林立する中心核が生れているが、敷地・建物ごとにデザインされるため、高さ、配置、意匠にほとんど共通するものがなく、群としてかならずしも快い景観にならない。

更に、敷地ごとの規制緩和策で、大規模化して乱立する超高層群の街が形成されて、地区内部だけでは完結しない交通・景観・環境等の都市的問題が露呈しつつある。

その地区固有のマスタープランをつくり、景観地区や地区計画等の土地利用規制誘導策、市街地開発事業による事業制度等を導入して、計画的に更新を進めることで、個別ビル再生から地区全体の再生へと向かうのである。それが都市計画である。

写真:東京千代田区・丸の内の超高層群

写真:乱立する超高層群(東京・港区)

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(3)大規模跡地活用による新中心化核の形成

時代の変化によって、市街地の中で大きな土地利用転換が起きることがしばしば生じる。特に産業系土地利用は経済変化や技術革新によって影響を受やすい。各地の繊維工場の閉鎖をはじめとして、工場の海外移転や技術革新による集約閉鎖などで工場跡地が生じてくる。1970年代から物資輸送が鉄道から自動車に比重が移り、貨物ヤードが不要となって市街地の中心部に大規模空き地が生じてきた。

このような産業の後退あるいは転換現象は一方では都市の衰退にもつながるので、この大規模跡地をどのように再活用するか、それが都市の再生に重要な役割を持っている。

全国各地の繊維工場の閉鎖は1970年代から起きてその多くはショッピング施設になった。流通革新の時代に対応する土地利用であったが一方で中心市街地の既存の商店街に悪影響も及ぼした。

東京では西新宿地区の浄水場跡地が、東京の新都心の形成となり、新たな活力を生み出した。鉄道ヤード跡地開発は、港区・汐留や品川駅東では東京の持つポテンシャルが新たなビジネス街を生み出し、大阪駅北地区や名古屋・笹島地区では完成すると都心構造に大きな変化を及ぼすほどの大規模さである。

横浜では都心部に接する造船工場の移転跡地と貨物ヤード跡地を、都心地区の拡大区域としてとりこむ「みなとみらい21」開発を進めている。商業、業務、居住、文化等の多様な機能を導入して、関内と横浜駅前に分散する都心の連携による発展をねらっている。

東京・六本木地区では「六本木ヒルズ」が既成市街地の再開発であったのに対し、2007年オープンの「東京ミッドタウン」は防衛庁跡地であり、「国立ギャラリー」は研究所等の跡地である。六本木地区の文化都心への傾向を促進する。

これらの大規模跡地は、周囲に密度の高い既成市街地があるので、再開発にあたって新たな発生大量交通の周囲の交通への影響、周囲の景観との調和、日陰・風害の影響、廃棄物の処理等の、機能・景観・環境等の関係を十分に留意した計画づくりが重要である。

多くの場合これらの開発にあたっては、都市計画の用途や容積率の指定変更を伴うとともに、地区計画等により地区に固有のコントロール策を定める。あるいは土地区画整理事業や市街地再開発事業のような、計画から完成までを法的に担保する事業制度を導入して開発を行う。

(左:横浜みなとみらい21地区 右:大阪駅北地区(2007年))

=========コラム:丸の内と銀座===========

丸の内においては1990年代になってからマスタープラン作成、今ではそれを法的に担保する地区計画が定めている。丸の内は都市開発に長い歴史を持つだけに、歴史的な文化財としての建築物もいくつかあり、それらの建替えと保全の調整の課題が起きている。

取り壊して建替えする場合に一部をイメージ的に再現した銀行協会ビル、一部を保全し一部を再現した日本工業倶楽部会館ビル、隣接建物と合体して容積移転して全体保全した明治生命館や第一生命ビル、街区を越えて容積移転により全体保全する東京駅丸の内駅舎など、いろいろな方法で建築と景観の保全策が行われ、超現代的超高層群にスパイスのように記念的建築物が混じる個性づけ戦略である。

東京の丸の内と並ぶ中心核の銀座地区では、江戸期からの老舗店舗も含む先端的な商業の街並みである。典型的な現代建築つまり広場と超高層は登場してこなかった。それぞれの地主等が個別に建替えつつも、長い伝統的な誇りがなせる暗黙のコントロールが働き、変化しないのではないが、変りつつも一種の風格ある街並みを継承してきた。しかし地区間の競争が激しくなると、新たな企業が新たな形の更新を持ち込もうとするようになり、老舗銀座イメージとぶつかる。暗黙のコントロールを公的な仕組みとする必要性が出て、銀座地区全体に都市計画として「街並み誘導型地区計画」を指定した。

丸の内が超高層誘導・広場整備型であるのに対し、銀座では超高層拒否・街並み整備型として伝統的風格のある街並み景観を継承しつつ徐々に変化しようと、丸の内・銀座の両地区の地区計画に特徴的な差異が、興味深い。

(図:銀座地区の地区計画における高さ制限の概略)

7・4 都市構造の再編成

(1)低密・外延化する地方都市

20世紀の都市計画は、人口増加と自動車の普及に対応して進む市街地の拡大圧力を、いかに適切にコントロールするかが命題であった。

市街地の拡大は、困った現象を地方都市にもたらしてきた。郊外部に立地した大規模店舗に街なかの商店街が負けて閉店してシャッター通りになった、市役所や病院などの公益施設が郊外に移って 通うのが不便になったなどなど、どこにも公共交通機関のアクセスは不十分なままで、自動車がないと暮らせない。

住宅も自動車があることを前提に、中心部から郊外に移っていくので、ますます中心部は空洞化する。郊外住宅地とはいえ、田園を虫食いにつぶして希薄に拡散しているからコミュニティ形成が難しい。

車を運転できない子どもは通学にも遊びにも誰かに車に乗せてもらうしかない。高齢者は病院に行くのさえ難しい。郊外に移った頃は若かった住民も高齢化して自身が買物にも医療にも困る。雪国では、郊外まで広く除雪する費用が財政を圧迫する。地方都市は人口減少になって郊外にも街にも空き家が増えている。

今、人口減少と超高齢化時代に突入して、この自動車がなければ暮らせないような、密度薄く外延化した非効率な生活圏と就業圏のままで、都市を維持するコスト負担に耐えることができるのだろうかという問題に直面しつつある。例えば雪国では 道路の除雪費が膨大となる。

これまでの拡大を促進する都市計画のあり方を見直し、かつての賑わいある便利な中心市街地を再生してコンパクトな生活圏を取り戻すべきとの考えが20世紀末からでてきた。

(2)まちづくり三法の失敗

1998年に「大規模店舗立地法」によって大型店の設置にあたっては、立地環境に配慮するように規制し、「中心市街地活性化法」によって中心部の活力再生を図り、更に「都市計画法」に郊外部への立地規制策(準都市計画区域、特定用途制限地区、特別用途地区指定等)を盛り込む改正をした。これらを合わせて通称「まちづくり三法」といわれたが、実態はほとんど再生への効果が発揮さなかった。

その原因は、大店立地法は狭い範囲で立地規制しか効果を発揮しないので広域立地規制には役立たず、中心市街地活性化法はこれまで失敗を繰り返した商店街振興策と変りなく、都市計画法による立地規制策制度はほとんどの地方自治体で政治的に適用できなかったことである。

特に都市計画の施策がなされなかったことについては、その決定権者である市町村長の都市計画への関心の薄さとともに、都市の将来を見据えないままに市町村相互の調整ができずに大型店誘致競争にはまりこんだことにある。郊外部の規制政策と中心部の再生政策が連動できないままに来たことに失敗の原因がある。

(3)コンパクトシティへ

この失敗したまちづくり三法の反省のもと、2006年に中心市街地活性化法を改正して、商業政策中心から市街地での生活圏づくり政策へと方向転換した。

同時に都市計画法も改正して、大型店のみではなく大規模な施設あるいは病院や福祉施設等の郊外立地規制を強化して、これまでの原則立地可とした方向を原則として立地不可に転換した。

つまり、商業系の地域指定のほかの地区に立地するには、自治体は規制を解除する新たな指定をする必要がある。これは都市計画が規制をすることができる施策から、規制を解除する施策に転換をしたのである。

こうして中心部の活性化促進策と郊外部の開発規制策とがようやくセットなり、コンパクトシティ政策が登場した。成功すれば21世紀型の便利な生活圏をもつ都市構造に再編成できるが、端緒についたばかりであり、自治体の長や住民がこの政策を採るかどうか、まだ見えないところがある。

(4)中心市街地の再編

このように都市構造を再編するには、空洞化した都市の中心市街地を魅力ある市街地にする総合的な再生策が必要である。商店街とともに住民が住み働き交流する場としての中心市街地再生のためには、都市構造にも関わるような整備も必要となる。

自然の成り行きで市街化して、狭い道路に悪い居住環境のままの広い中心部をもつ都市も多くある。そこでは前述のような拠点的な市街地再開発事業による整備もあれば、数十ヘクタールに及ぶ基盤構造から改造を行う土地区画整理事業もある。

いずれにしても中心市街地再生の鍵は、そこに魅力のある生活空間を再生することである。コンパクトシティの形成はそのひとつである。

========事例:浜松市中心市街地土地区画整理事業========

静岡県の中核都市・浜松市ではJR浜松駅を中心とする中心市街地のほとんどの区域を土地区画整理事業によって整備をしている。戦災復興により既に終了地区もあれば東地区のように進行中の地区もある。東地区は古くから市街化が進み戦災にあったが、整備未着手で戦前の細街路構成のままで、都心部の発展が阻害されていた。地区の健全な発展と活性化を目的として1987年から土地区画整理事業にとりかかった。街路や公園整備とともに官公庁が立地する「シビックコア地区」、静岡文化芸術大学等の教育施設の立地する「教育文化ゾーン」を設けている。

========事例:飯田市橋南地区再開発事業=======

長野県飯田市は人口約10万7千人の地方中心都市。中心市街地は1947年大火後に都市基盤整備済みだが商業も居住も空洞化は進んだ。生活・交流・仕事の体化したまちづくりをめざし、居住人口の回復をテーマに地域初の分譲共同住宅による拠点再開発に取り組んでいる。

=======事例:日田市豆田活性化事業=======

大分県日田市は人口6万2千人の小都市。JR 日田駅の南にある豆田町商店街は古くからの中心地であったが、1970年代から駅北の近代化した駅前商店街に押されて衰退の途をたどっていた。80年代後半から市民たちが中心となって、伝統的な街並みや地場産業を活かし、昔からの行事を復活し雛祭り等の新たなイベントも立ち上げた。地元主導まちづくりで商店街は再生し、今では年間約50 万人の観光客が訪れる拠点的な観光地として再生した。

本稿は、「初めて学ぶ都市計画(市ヶ谷出版社2008)に掲載した。