大阪西区:立売堀防火建築帯は40年後も健在だった

藤江はファサードをカーテンウォールに直していました。福松の屋上の三角壁も健在でした。当時は新人でなにもわからなかったのですが、今見ると先輩の設計は実に美しいプロポーションであることが、隣近所の小ビル群と比べてよく分かました。

この共同ビルは、わが今の生業である都市計画をやるようになるルーツとなった「防火建築帯事業」です。この防火帯建築から「防災建築街区」が生まれ、そして「市街地再開発事業」へと発展していったのです。

40年たっても中小企業の中小ビルはそれなりに健在でしたが、御堂筋に出てみれば、「そごう本店」は閉まっていて、この村野藤吾作品の巨大建築はもうすぐこわされるとか、そんな時代です。(2002年4月)

大阪・西区:立売堀の防火建築帯は40年後も健在

(建築家の先輩への手紙)

伊達美徳

拝啓

お元気でいらっしゃいますか。ご無沙汰をお詫びします。

先日、大阪にいる92歳の母を見舞ったあと、ふと思いついて「立売堀」を訪ねました。1961年に私がRIA(当時の正式名称は「建築綜合研究所」、通称「RIA」で、リアといっていましたね)に入社して、初めて建築現場に行ったところです。

竣工は1962年だったでしょうか。あれから一度も訪ねたことなくて、40年目のセンチメンタルジャーニーでしたが、実はなかなか目的地にたどりつけませんでした。

まず、信濃橋のRIA大阪事務所のあった「飾大ビル」(RIA設計)からはじめようと出かけたのですが、ここにたどり着くのにウロウロと1時間。

でも、ちゃんとありました。1、2階に正面から見て右に天理教教会、左に事務所、3階から上は公団住宅と、40年前のままの姿で建っていました。

ビルのまん前に「大塩平八郎終焉の地」なる石碑が立っていたのが、ちょっと違うくらいのものでした。

そのあと立売堀にどうしてもたどり着けません。都市計画やっている身として、大概のところは迷わずにたどり着くことができるのに、大きな道路ができたりビルが建って変わったことは事実ですが、40年というギャップは埋めがたいようです。

あきらめて帰ろうと地下鉄駅に入りましたところ、ホームに地図がありそれを見ているうちに思い出し、引き返してたどり着くありさま。

そしてついに40年後の浦島太郎は、「SKビル」を発見しました。島田・藤江・福松・河辺(だったと記憶していますが)の4軒共同ビルは健在でした。島田酒店と福松産業はその名前で営業していましたが、藤江と河辺は名前が替わっていました。写真をごらんください。