梅月堂:山形モダン建築の再発見

山形梅月堂:山口文象モダン建築の再発見

伊達美徳

●山形モダン建築の再発見:山形梅月堂でシンポジウム(2009年1月12日)

●旧梅月堂シンポジウム

●旧梅月堂展覧会・オープンハウス

・日時 2009年1月12日(月・祝)~17日(日)11:00~17:00

日本建築学会東北支部山形支所事業2008

建築家・山口文象が1936年に設計した山形市七日町にある梅月堂、いまや彼のモダニズムデザインはこの梅月堂と黒部第2発電所だけが現存。

地方都市の中で生き続けるモダンデザイン,いわば「マレビト」としての建築の魅力を,山口作品を通して体験する展覧会,シンポジウムを,現地の梅月堂の建物内で開催。

梅月堂のできたころの山形、梅月堂がその後に山形で果たした役割、梅月堂と神楽坂との思いがけない縁、梅月堂設計した頃の日本建築会と山口文象などの話題を提供、当時の建築設計図や写真も公開展示。

●東京神楽坂紅谷と山形七日町梅月堂 (2008年8月24日)

・問い合わせ:東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科相羽研究室

tel. 023-627-2057 e-mail yaaiba@env.tuad.ac.jp

・日時 2009年1月11日(日)14:00~16:00

・講演:伊達美徳

・座談会:伊達美徳,相羽康郎 他

・進行:香川浩

・会場:YT梅月館(山形市七日町1-4-26)

・定員:30名(申込先着順)

山形の中心街である七日町の四つ角に、梅月堂(ばいげつどう)という和洋菓子と喫茶の店があった。

この梅月堂の建物は山口文象の設計であるが、今や彼のモダニズムデザイン作品で現存するのは、このほかに黒部第2発電所のみである。

そして東京の神楽坂に紅谷(べにや)という、やはり和洋菓子と喫茶の店があった。

このふたつが密接な関係にあったことが、ある在野の研究者によって分かった。

山形市の七日町交差点にある梅月堂は、この10年くらいのうちに廃業したらしく、今は、一階にテナントが営業していて2階以上は空き家となっている。

山形の七日町通りは、戦前から繁盛した商店街であり、いまでも瓦屋根、土蔵造りの立派な店舗も多くあるし、レンガタイルを張ったような洋風のしゃれた建物もたくさんあって、なかなかに建築的にも楽しい風景である。

そのなかで異彩を放つのがこの梅月堂であり、この建物は1936年に完成したが、建築家山口文象の設計によるもので、いわゆる豆腐に目鼻とも言うべき、1930年代当時は国際建築様式と言われた流行の超モダンデザインである。

いくら山形七日町が東北では仙台に対抗する大繁華街とはいえ、その時代の最先端過ぎるこの建物をよくもまあ建てたものである。当時の街並み風景から 見れば、かなり違和感があったはずだし、あるいは東京で流行の建築として評判になったかもしれない。逆にそれだけに商業的に話題となって繁盛につながったかも知れない。

当時の山口文象といえば、新進の流行作家とも言うべき建築家で、1932年にドイツ留学から帰り、1934年に日本歯科医専の設計で衝撃的なデビューをし、1936年には黒部第2発電所やダムを発表して、その頃から戦争が激化する43年ころまでが彼の人生で建築家として絶頂期であった。

その山口文象がどうして山形に縁があったのだろうか。

ここで神楽坂の紅谷の話につながるのだが、その頃の紅谷は神楽坂で商売に成功した一流の菓子店で喫茶店も経営していたが、その経営者が山形梅月堂経営者の五男坊だったのだ。

この紅谷と梅月堂とのつながりをわたしに教えてくださったのは、菓子屋の研究者(ほかにも研究されているのかもしれないが)で、紅谷の歴史を調査される谷口典子さんである。

谷口さんは在野の研究者で、紅谷研究で梅月堂との関係を調べるうちに、わたしの山口文象サイトに載せた「山形に梅月堂を見に」(本ページ下に採録)をご覧になって連絡をいただき、それでわたしもはじめて知ったのであった。

その谷口さんが精力的に調査された諸事情と、教えていただいた資料(「わが青春時代 山形市七日町商店街 商いへの出発点」山澤 進著1998みちのく書房発行)とを元に、わたしなりに整理するとこうである。

神楽坂紅谷は1897年に創業し、1945年の戦災で店が焼失するまで営業していた。その経営者は小川茂七といい、実質的には茂七一代限りであった。

茂七は1873年に山形市で生まれ、父は佐久間茂左衛門といいう。

1889年(明治22年)に、茂七の兄の佐久間茂登七が、和菓子製造販売業の梅月堂を山形市小姓町で創業した。そのころの小姓町は遊郭街であったから、その需要を見込んだ菓子屋だったのだろうか。

山形市観光協会のWEBサイトには、「明治17年から同30年頃までは市内の貸座敷業者が集結し、小姓町遊郭となり、明治、大正、昭和と、60年にわたって歓楽街として繁盛した」とある。とすれば梅月堂創業はその初期にあたる。

『昭和初期の小姓町商売屋図』と表題のある地図(作成経緯は不明、谷口さんが現在の小姓町にある菓子屋からもらったもの)があるが、これには 妓楼の並ぶ中に「梅月堂菓子工場」と描かれている。工場とあるのは当時は店売りではなくて、卸や配達専門であったのだろうか。 それとも製造販売をしていたのだろうか。

茂七は菓子づくりをここで修行したであろうが、1893年、20歳の時に東京・飯倉の風月堂に入った。ここで菓子づくりの修行をしていたのであろう。

紅谷と取引があった風月堂主人の斡旋であろうか、1897年、24歳のときに紅谷本店2代目の西岡幾次郎の妹つる(20歳)と結婚して、姓が変わって小川茂七となった。

小川姓はつるの母方の姓であろうかと思われるが、茂七は紅谷の婿養子となったのである。

そして茂七は、紅谷がこの年に開店した分店の神楽坂紅谷の店主になった。紅谷としては婿取りした妹に店を持たせてやったのだが、茂七は婿養子とはいえ、たった4年の修業の身だから、腕を見込まれての抜擢であ ったのだろう。

戦前の神楽坂は、銀座に匹敵する商業と文化の町であり、とくに関東大震災による被害が少なかったために大きく発展したのであった。 文化人たちが住んだことでも知られる。

神楽坂紅谷も順調に発展して、文化人諸氏が出入りする有名店となった。

1908年(明治41)、茂七は山形市七日町481番地の現・梅月堂の 建物がある位置である土地を購入し、その5年後に兄の茂登七の名義に変更している (土地登記簿台帳による)。

上記の山澤氏の著書にある大正初期の写真(31ページ)には、その位置に白い2階建て建物があって陶器店とある。この建物は、それ以前の建物が1911年の山形市北大火で焼け 、道路も広がって建て直したものであろうが、この地を手に入れてからしばらくは貸していたのだろう。

茂七は、東京なら銀座4丁目交差点(当時は尾張町交差点といったが)に匹敵する、山形市内随一の繁華街中心の七日町交差点角地を買い求め、故郷の実家である梅月堂をここに進出させる下地を作ったのであ った。

1925年(昭和元)、山形の佐久間家の養子・秀治が、この地に3階建てタイル張りの洋館を新築して、和洋菓子販売と喫茶室の梅月堂七日町店の営業を始めた。秀治は後に山形商業界のリーダーとなる。

小姓町店では茂登七が、菓子製造販売を続ける。

そうして1936年、再び道路拡幅に七日町の土地建物がかかることになり、梅月堂はそれまでの建物を壊して梅月堂ビルを建てたのであった。その設計が山口文象 であり、現在もある梅月館である。

建物は3階建てで、1階和洋菓子・パン・山形市名産食品販売、2階喫茶・アメリカ式軽食、3階ホール、屋上は展望台である。

真っ白なビルの交差点に向いたファサードは、キャンチレバーではねだした2階から上は全面ガラス張りという、当時としては大胆なデザインである。

屋上展望台というのも、当時のモダン建築の流行でもあったようだし、パーゴラ状の庇がモダンさを強調している。

奥行きのない変形敷地の小さな建物であるのに、それ以上に大きく見せている。

その当時の梅月堂が出した1936年10月14日山形新聞の1ページ全部を占める新聞広告を見ると、「明十五日開店/新築落成/東北に誇る唯一の近代式新興建築の粋」とある。

当時、ヨーロッパ流行のモダンデザインをとりいれる新興建築とか新興建築家という言葉があり、山口文象がまさにそれだった。

開店日には、当時の人気映画スターの高杉早苗や霧立のぼるなどを東京から招いて、開店イベントを盛り上げたことが新聞にある。

この設計者の山口文象といい、映画人気スターといい、これは茂七の仕掛けに違いないだろうと、谷口さんは推測なさるのだが、わたしもそう思う。

山口と茂七との接点は分からないが、山口の文化人好きからして、神楽坂になにか縁があったろうと推測することもできる。 多分、神楽坂にも出入りしていただろう小説家の林芙美子の家(現・林芙美子記念館、1941年完成)を、そう遠くない下落合に山口文象が設計している。

茂七は梅月堂で表に顔を出したかどうかはともかく、土地の手当てもしたこの地に流行モダン建築を建てて、故郷に錦を飾ったことであろう。

東京での流行情報や製菓技術など、梅月堂と神楽坂紅屋とは密接であったろう。山形梅月堂は、山形の一流レストランとして繁盛する。

山形梅月堂

七日町大通と旅籠町大通りに面した四辻角に変形三階建て鉄筋コンクリートの梅月堂がありました。昭和のはじめに建てられた白亜のモダンな建築で、改築以前は一階が菓子売り場の奥に喫茶室がありました。改築後は 二階がレストラン、三階がパーティーなどに用いられるホールとなっていました。

道路側を大きなガラス張りにした近代的建築で、終戦後まもなく占領軍に接収され、将校クラスの集会所になっていました。昭和二十二年に解除になりましたが、同じく接収を受けたミツマス百貨店は、ス ーベニールショップ(帰国兵たちのお土産店)となり、その翌年に返還されています。

三十年代、四十年代初めにかけては、梅月堂の二階のレストランで食事をするのが山形市民の一つの憧れでした。当時、私が所属した山形青年会議所の年末クリスマスと年一~二回家族パーティーがここの3階ホールで催されました。

(「わが青春時代 山形市七日町商店街 商いへの出発点」山澤進55ページ)

そして神楽坂紅谷も順調で、梅月堂の竣工した年に、茂七は息子に家督を譲り、町内会や菓子業界で活躍するが、そのころから日本は戦争時代に入って行き、景気は悪くなる。

戦争は激化し、東京は3月10日と5月25日の大空襲で神楽坂一帯は丸焼けとなって、茂七の 育てた神楽坂紅谷も灰燼となった。

そして茂七は、戦争疎開した故郷の山形で1945年3月18日に他界した。享年72歳であった。

以後、神楽坂紅谷は再開することはなかった。

一方の山形梅月堂は、戦後も山形市随一の菓子店、レストランとして栄えたのであった。

上記の山澤進氏の著書によれば、経営者の佐久間秀治は、近代的な感覚の持ち主で芸能趣味も豊富であったそうで、山形市専門店会の会長として活躍し、丸久デパートや山形グランホテルの設立にもかかわっている。

ここまでは谷口典子さんの調査を私の流儀でなぞったのだが、とにかく谷口さん本人による著述の登場を待っているところである。

わたしの古い手帳を調べたら、1976年12月と77年2月に山形梅月堂2階のレストランで、七日町地区の再開発計画策定の打ち合わせをしている。その計画の策定委員会の委員長が伊藤滋東大助教授で、わたしは コンサルタントのひとりとして出席した。委員会を3階ホールで開いたかどうか記憶がないが、多分そうだったろう。

その再開発計画の成果は、七日町通りの建物を建て直すときは1階を引っ込めて歩道を広くとるように都市計画を決めたこと、ずっと後年になって再開発ビルとして完成した七日町aZである。

そしてその28年後の2004年11月、伊藤滋さんは東大名誉教授となり(NPO)日本都市計画家協会会長に、わたしはその協会の常務理事・事務局長となっていて、協会主催のまちづくりイベントを山形市で開いたので、再訪したのであった。

山口文象設計の梅月堂の建物は梅月館という名となって健在だったが、梅月堂という店はなくなっていた。1、2階はコーヒー屋と居酒屋が入り、3階は空き家である。

聞けば、梅月堂は1997年に倒産したのだそうである。どのような事情かは知らない。山形の中心街も没落してきているのだろうか。

さて、この建物はこれからどうなるのだろうか。

東京駅前の中央郵便局と同じで、見たところシロウト眼にはどうってこともない建物であるから、派手な東京駅赤レンガ駅舎みたいに、一般からの保存の動きはおきにくいだろう。

最近、山形の建築家や大学の研究者が、この建物の再評価をしようとする動きがあることを知人から聞き、地元のテレビ局がその模様を放送したものも見たが、うれしいことである。

参照→http://gallery.mac.com/studiokagawa#100030

もっとも、そのTV放送のなかで建築史研究者が、この作品の評価で山口文象とコルビジュエをひきあいに出していたが、ちょっと違和感がある。ここはやっぱり山口文象の師グロピウスにしてほしかったなあ。

(080824、080917補綴)

●山口文象設計の梅月堂を再発見 (2004年12月2日)

約30年ぶりに山形市に行ってきた。目的は、梅月堂再発見と蔵の街並み拝見である。

山形市の繁華街の真ん中の七日町交差点の角、東京でいえば銀座4丁目角の三愛みたいなところに、山形梅月堂というレストランがある。いや、今は梅月堂なるレストランは廃業して、建物だけが「梅月館」と名を残して建っている。

その梅月館ビルは、わたしの建築の師匠であった山口文象が設計して、1936年にできたものであり、今も最初の姿をほとんど変えないで建っている。

山口文象の設計した建築は、洋風と和風の両方があり、どちらもうまいのだが、和風建築は今も比較的多くあるのに対して、洋風建築はいまやこの梅月館と黒部第2発電所のみである。

1936年の山口文象といえば、前年に出世作の日本歯科医科専門学校病院を発表して、一躍新進の前衛スター建築家となった年といえる。

そのような時の山口に、その当時の梅月堂の主人はどのような伝手があって、設計を依頼したのだろうか。それよりも、東京の前衛建築家に依頼した梅月堂主人とは、どのような人だったのだろうか。

七日町商店街には、戦前に建てた蔵や城風の和風建築、洋風ハイカラ装飾のついた看板建築と小規模ビルの老舗の商店建築を、今も見ることができる。梅月館の隣もまさにそうである。

その頃の日本の典型的な地方都市商店街の街並みのなかに、突如として真っ白な壁に大きなガラス窓ばかりでなんの装飾もない、いわば愛想のない「国際建築様式」が建ったのである。さて、当時の山形の人たちはこれをどう見たのだろうか。

この土地育ちの年配者に聞けば、子どもの頃は、梅月堂に洋食を食べに親に連れて行ってもらうのは、誇らしくも大きな楽しみだったとか。そんな立派な洋食屋さんが、どこの都市にでも一つは二つはあったものだ。

それが今では貸しビルとなって、一階は流行のスタンドコーヒーショップ、2階は洋風居酒屋、3階は空き室でテナント募集中であったのは、いかにも時代の流れらしい。

七日町商店街には、今も興味深い伝統的な意匠の店舗建築が数多くあり、特に土蔵造りの店は立派であり、いわゆる洋館もある。

山口設計の梅月館は、建築のプロの目から見れば、さすがにプロポーションの良さは卓抜であるが、一般には隣の看板建築のほうが目を引くであろう。

山口が後に起こした設計事務所のRIAには、山口の描い

→山口文象論サイト

た和紙の図面が保存されており、実は私は30年前に山形に来たときに、この梅月堂レストランで会議をしたこともあって、その後は気になりつつも再確認しないままになっていたのだが、今回の訪問で健在を再発見したのであった。 しかも嬉しいことに、山形でも歴史的な建築の保存運動が起きており、道路に面した梅月館の壁には、建築史家・近江栄氏の筆によるこのビルのいわれを記した銘板が貼り付けてあった。

さて、いつまでこの建物が保つのだろうか、気がかりなことではある。(041202)