安藤忠雄の風景:あらかじめ発掘された遺跡よ!2009

安藤忠雄の風景-あらかじめ発掘された遺跡よ!

2009

伊達 美徳

建築家というものは、もともと自分がなりたかった職能なのに、なれなかったのでヒガミ根性で言うのだが、なかなかに独善的なものである。独善的でないとできない職能である。

機会あって、新潮社から出版した「建築家安藤忠雄」(2008年、安藤忠雄著)を読んだ。安藤の著書を読むのはこれがはじめてであるが、昔はわたしも建築をやっていたから、趣味として見る建築系の雑誌ではちょくちょく安藤建築に出会っている。

そこで感想を書くが、書評ではなくて、この本にある安藤建築の写真を見ての、よく言えば建築批評である。ただし、あくまでこの本の写真による印象批評である。

私が見たことのある安藤設計の建築は少ない。記憶にあるのは見た順に、どこか忘れたが(北野だったか)階段だらけの商業ビル、高梁市の「成羽美術館」、上野の「国際子ども図書館」、桐生市にある「ぐんま昆虫の森」のガラス温室、青山の「表参道ヒルズ」、渋谷の「地下鉄副都心線渋谷駅」の6つだけである。

それも建物を積極的に観にいったのは、表参道ヒルズだけである。といっても安藤建築に興味があったのではなくて、近頃の東京の市街地再開発事業としては超高層でないところが珍しくて行ったのと、元の青山同潤会アパートの処置がどうなったか知りたかったのだ。

上の6つのうちで、私がこれは上手いと思ったのは、上野公園にある「国際子ども図書館」だけである。1906年に建設した洋風様式建築の帝国図書館を修 復改装したものだが、ソリッドな旧建築と透明なガラスの新旧とりあいのバランス、中庭の空間的転生など見事である。だが、この本では全く語られていないの は、なぜだろうか。

1.あらかじめ発掘された遺跡

この本の建築写真を見ていくうちに、安藤建築は「遺跡」のように、しかも「あらかじめ発掘された遺跡」のように見えてきた。それは、この本の外部から写した建築写真、特に航空写真はどれも密林で発見された古代遺跡を思い出させるからである。

六甲の集合住宅という、神戸の斜面緑地に割込む建築がある。1987年から始めて、20年くらいかけて次第に拡張している。これは30年も前だったか、最初に発表されたときに建築の雑誌で見て、「なんてひどい都市自然の破壊!」と思ったことがある。

このような面倒で余計な工事費がかかる建築は普通はやらなかったのだが、その後に土地価格が高騰した大都市周辺の比較的安価だった斜面地の開発が進み、さらに建築基準法で地下部分が容積率不算入となったために斜面地マンションが流行しだした。そして周辺とのあまりにも異なる大規模建築、そして斜面緑地の喪失で、各地で紛争が頻発して、いまでは条例等で規制するようになってきている。

安藤の六甲プロジェクトはそのはしりであったのだ。神戸は平地が少なくまとまった緑が少ないところだが、六甲山麓の広く横につながる丘陵地斜面が目に入るから、平面よりも立体的な緑の量に癒されるのである。

安藤の「六甲の集合住宅」シリーズは、この立体的緑地を容赦なく剥ぎ取り堀入り、斜面の中に積み木細工建築をはめ込む。この本に航空写真が載せてあるが、あの建物の場所に両隣にあるよう緑地が続いていたときは、さぞ美しかったろうと思わせる。
見ていて、あの密林から発見されたカンボジアのアンコールや中米ユカタン半島のマヤ遺跡のように、連続する六甲の斜面緑地から発掘された古代遺跡を想起した。その無機質で人間臭さのないところが、神殿遺跡にそっくりである。

六甲ばかりではない。兵庫県立子ども館、兵庫県木の殿堂近つ飛鳥博物館、そして直島地下美術館などの、この本にある航空写真を見ると遺跡感はますます濃くなってくる。
日本だから密林ではないが、樹林の中に真円、楕円、方形、長直線などの自然には存在しない形態の建築が、自然の緑と対峙して明確にその形態を表出している。

もうひとつ上の世代の建築家たちだったら、自然にどうなじむかを考えるデザインをしたであろう。もっとも、屋根を山形にして山並みに調和したデザインにしました、などという安易なデザインをする建築家はわたしの好みではない。

直島の地下美術館も、発掘中の遺跡に見える。
これについては、「三方を海に囲まれた岬の上の敷地を選び、その美しい風景を壊さぬよう、地形に沿って埋め込まれたような建築」と安藤は書いている。
ということは、地下深く潜って地上の植生には影響を与えずかと思いきや、その航空写真を見ると工事のためか禿げた岬の丘の上には、あちこちに貼り薬かバ ンソウコウのごとく、しっかりと建築の形を地上にみせているのだ。つい最近に発見されて樹木を切り開き、発掘されつつある遺跡のごとくに見える。

近つ飛鳥博物館は、まさに遺跡発掘そのものである。樹林地を切り開いて覆いつくす何十万個ものピンコロ石をはりつめた広大な階段は、築造当時の玉石で全体を葺いていた姿が露出してその権威を表現していたという古代大王の古墳を模したと、安藤自身が言うのだから間違いない。まさに「あらかじめ発掘された遺跡」としてデザインされているのである。

古代遺跡の神殿群は、はじめから密林に覆われていたのではなく、開けた都市の大規模建築であったのだ。だから遺跡の景観は後世の認識でのみ視覚化されるのだが、安藤の設計する建築は、はじめから樹林の中の遺跡としての景観を形成している。それができ上がったとたんに新築遺跡景観を呈するという、いわば景 観としてのトートロジーにある。

そう思ってみれば、出世作とも言うべき「住吉の長屋」も遺跡に見えてくる。発掘したコンクリート造古代遺跡の箱の横に、現代になって木造家屋を添えて建てたように見えてくる。もちろん実態は逆で、木造の低い長屋の中間の一軒を抜き取って、代わりにコンクリートの箱を割込ませたのである。

さて、これから数百年経ってからのこと、山中の樹林の中に草とツタとコケに埋もれた遺跡を発見、5世紀の古代大王の古墳かと発掘してみると、なんと20世紀の安藤建築であったとなれば、まさに安藤のデザインが完成するのだ。

2.割込みデザイン

もうひとつ安藤建築の写真を見ていて感じたことは、彼の設計手法は「割込み」デザインであることだ。見ていて思いついた言葉で、こんな建築の専門用語があるのではない。
この「割込み」とは、お行儀よく並んでいる行列に、突然横から割り込んで秩序を乱す、その「割込み」である。
六甲の集合住宅、兵庫県立子ども館、兵庫県木の殿堂近つ飛鳥博物館、そして直島の地下美術館、いずれも周りの樹林地という自然の秩序に割込むのである。

住吉の長屋は、木造長屋にコンクリノッペラポー箱が文字通りに割込むのである。その住まい方が問題提起であると一般にはされているようだが、それは建築主の勝手で、どうぞお好きな様に、である。
問題は、木造長屋なりの街並みとしての秩序があるところに。ドカンとノッペラポーの箱を差し込まれたことだ。ご近所はどう思っているのだろうか。

これこそ、最近、訴訟沙汰となった漫画家媒図かずお自邸事件(赤白ストライプ模様の家を普通の住宅街に建てて近隣住民から塗りなおし要求の訴訟されたが媒図が勝訴)にも匹敵する代物である。あの赤白だんだら模様のイメージする商業的色彩とは正反対で、安藤建築は灰色一色のところが訴訟沙汰にはなりにくいが、その異端さには大差はない。

新たな建築は、いずれにしても既存の秩序に割り込まざるを得ないのだが、安藤建築はまわりの環境や景観と明確に対峙する形で強引に割込むのである。
それは対峙の持つ緊張感をもってよしとするか、反対にその対峙が不協和音を生む不快さとなるか、その環境におかれた人はどう受容あるいは拒否するのだろうか。

六甲の集合住宅は、完全なる横槍とも言うべき割込みである。立体的につながる斜面緑地に、積み木細工を横からはめ込んで、緑のネットワークを断ち切る。都市の景観としては決して好ましいものではない。
ところが、いったんその中に入ると、この住宅の窓からは、左右には“まだ削られていない”斜面緑地が見え、正面に神戸の家並みを超えて向うに遠く瀬戸の海を眺める展望が開けて、すばらしい景色である。この住宅からはそれが破壊した緑の景観の醜さは見えない。

かつてパリにエッフェル塔ができばかりの頃、それを蛇蝎のごとく嫌っていたモーパッサンが塔のレストランに居て知人から不審がられ、「ここならエッフェ ル塔が見えないから」といったことを想起させる。あのパリの19世紀半ばの街並みに割り込んだ近代工業の産物であるエッフェル塔のごとくに、六甲の集合住宅がいつの日か神戸のシンボルになるのだろうか。いや、崖地開発のプロトタイプになるか。

そして「直島の地下美術館」では、地中に割込んでいくのである。
直島といえば、わたしには特別の想い出があることは別に書いているが(少年の日の戦争)、終戦間もない夏の日、丸裸の島の台地の焼けた土の上に累々と並ぶ梵鐘 群の眺めは、今も白昼夢のように思いだされる。

その直島はベネッセの文化事業プロジェクトの地となり、安藤がたくさんの建築を設計している。中でも地中美術館が売り物らしいが、六甲が水平方向に山に割込むのに対して、これは垂直に地中という自然空間に割込んでいく。

地下というなら、なぜすっぽりと地中にしてしまわないのか。「地形に沿」わせずに地下深くに造れば、地表近い土や水そして植生などの生態にも景観にも影響が少ないはずである。俯瞰の写真を見る限りでは割り込まれた自然の「美しい風景」は明らかに壊れている。

同じ地下でも、斜面地の屋上蓮池の半地下寺院(淡路島水御堂)は、なかなかすばらしいと思う。地下の闇空間に西方浄土からの西日を割り込ませなければならないから半地下とし、屋根の蓮池の水面が参詣人の視線に入るためには地上レベルに必要だし、それなりに地下あるいは半地下であることが機能としても景観としても意義を持っている。

大阪中ノ島公会堂への提案も、歴史的建築の中に卵型劇場空間を割込ませるものである。もっとも、卵を割り込むと、黄身も白身も流れ出してしまって殻が散らばるものだが、。
東京の地下鉄の副都心線渋谷駅に、卵を割り込ませたと安藤は書いている。わたしは地下化して開通して間もないころに渋谷駅から地下鉄に乗った。地下の駅空間の現実は、そうと知らないものには卵にはとても見えなかったのは、わたしも後からそのことを知ったからだ。そういえば卵の殻のかけらがあちこちにあったような気がする。建築家の観念だけが浮遊しているらしい。

安藤建築の典型的な手法は、初めにまず闇を作り、そこに安藤の光を割り込ませていくのである。住吉の長屋、光の教会、地下美術館など、まずは暗箱をつくって、外から少しずつ破り切り裂いていく。決して陽光が明々と差し込んではいけないのである。

その闇に居る者は、空間を割込んで入れた安藤の光に支配される。それは西欧でも日本でも宗教空間を作った建築家の空間支配の技である。浄土寺浄土堂あるいは西欧の古典的な大聖堂に限らず、コルビュジェのロンシャン教会堂がそうであり、これを日本的に現代的に翻案する安藤の光を支配する腕前は、なかなかなものである。

彼がもっともやりたい建築は、大谷石の採掘による空間作りのように、巨大な石の中に掘り進んで作り上げる闇が支配する空間であろう。インディジョーンズシリーズのどれだったかに、そのような寺院遺跡があったことを思い出した。

3.植樹と安藤建築

面白いのは安藤の植樹運動である。それだけ自然に中に人工物を無理やり割り込ませている罪滅ぼしであろうか、震災後からの神戸での白い花咲く木の植樹運動「ひょうごグリーンネットワーク」や東京夢の島の「海の森」などをやっている。

植樹運動といえば、その元祖というか教祖は宮脇昭(植物生態学者、横浜国大名誉教授、国際生態学センター所長)である。その地域風土・地質に最も適した樹木の苗木づくりから初めて、小学生や市民参加で植樹をして運動は、いまや中国や東 南アジアまで広がっている。

安藤と宮脇に接点があるのかどうかしらないが、苗木を植えるのは同じでも樹種には違いがありそうだ。一方は生態学者だから土壌から潜在植生種を基本とするが、こちらは建築家だから花や樹形の見てくれの樹種を基本とするのだろうと思った。実際にそのとおりで、神戸では白い花の咲く木であった。

ネット検索して夢の島の「海の森」について調べると、「計画地の防風植栽は、東京都の沿岸部の潜在自然植生であるヤブツバキクラス域のイノデ-タブ群集 と、浜離宮の既存植生であるタブ林を参考に、環境条件に適合する樹種を中心に選択する」(海の森(仮称)構想「答申」2005年2月東京都港湾審議会)とある。

これはまさに宮脇流そのものである。それがどこから安藤流ということになったのだろうか。海の森構想を都知事に答申した港湾審議会の委員名簿に安藤の名が見えないから、東京オリンピック招致のための東京再編プロジェクトアドバイザーとして、知事側近の上位からの提案らしい。

森の中にある兵庫県立子どもの館といい、古墳をイメージする近つ飛鳥博物館といい、緑の大地をコンクリートで大きく覆い、あるいは切り裂く。そこに始めて安藤の空間が浮かび上がる。そうしなければ浮かび上がらないがごとくに安藤は書いている。

だが、六甲の集合住宅がいつの日かツタで覆われ、シラカシやタブやシイノキがこのコンクリートを覆い尽くして斜面緑地が復原したとき、密林の中の古代遺跡のごとくその下に潜む安藤の建築は存在感を迫力をもって見せるような気が、わたしにはするのである。

実はこの思いは、山口文象とRIAが設計した八王子の新制作座文化センターの宿舎の現実からの想起なのである。1962年のできたあの迫力あるむき出しのブルータルな宿舎建築群は、今は樹林の中に静かに眠っている遺跡になっているのだ。

(2009/02/03 伊達美徳)