飛騨:高山盆地の中に未来が詰っている
飛騨:高山盆地の中に未来が詰っている
伊達美徳
●大好きな盆地
私は盆地が好きである。もともと生まれが盆地(岡山県高梁市)だからであろう。もっとも、そこにいる頃は早く抜け出したかったものだが、抜け出して半世紀近くもなるとその良さがつくづくよく分かる。
その盆地の飛騨高山に行ってきた。「まちづくり」と「ものづくり」をドッキングして、活力ある地域をつくろうという国土交通省の政策に関するアドバイザーとしてよばれた。まちづくり市民活動団体(高山市まちづくり・住まいづくり研究会)メンバーや、市役所の都市計画や産業政策担当の方たちと、いろいろ話し合ってきた。
まわりに山が囲み、縦に貫いて川が流れ、真中に昔からの街があって、その周りに田園が山すそまで広がる高山は典型的な盆地である。ほとんど歩ける範囲に、人間の生存と生活のための仕掛けが、なんでもフルセットで秩序良くそろっている。まさにコンパクトタウンのお手本である。
こんな大好きな都市では、アドバイスするべきことはほとんどない、困った。それでも高山の都市政策やら産業政策レポートを読んだり、ものづくり現場を見たり、街を歩きまわれば、それなりに気になることもある。
ここもご多分にもれず、中心市街地では人口減少と高齢化が進んでいるという。そして商店街の停滞である。そこで「中心市街地活性化基本計画」もつくっている。
かの有名な伝統的建造物群保存地区は、その中心市街地の中のさらに中心にあって、年に200万人以上の観光客を集めている。全国から訪れてくるような美しい街でありながら、それがどうして問題をはらむのか、そこに問題がありそうだ。
●否応なしに人口減少時代がやってくる
高山市の人口はこのところ増えつつある。だが、周辺の町村部をあわせた圏域人口は増えてないから、周辺部から移住して来ているらしい。
とすれば、いつかは高山市人口も減少に転じるはずであるから、基本的には人口減少を前提とする政策をとらなければならない。
困るが、力量あるデザインならば伝統形式にこだわらないで認めてもよいだろうと思う。
洋館が混じってもよいだろう、コンクリート打ちはなしデザインもよい、それが美しい意匠ならば、。そのほうが街並みに活気が出てくる。保存とは凍結ではない、街はそうやって歴史を刻んでいるのである。
ただし、力量ある建築家によるデザインとはどんなものか、それが難しいこともたしかである。下手に伝統デザインにこびた亜流和風現代建築も困りものであるから。下手なものをつくるくらいなら、マニュアル伝統意匠のほうがよいのは当然である。
実は本町の商店街にも、興味をそそられる街並み建築がある。特徴ある洋館風や看板建築がところどころに見受けられるのだが、それらは高山では見向きもされないのだろうか。惜しい。
高山の中心市街地は、歩くにはほどよい広さで、ほどよい坂道もあり、表の有名街並みばかりでなく、裏道に街並みを発見する楽しみもある。
安心して歩ける「ウォーキングシティ構想」もあるようだし、何でもそろっている中心市街地は、高齢者ばかりでなく子育て世代にも暮らして楽しそうな街となりそうである。
●街の中に地場産業を
1月24日は年1回だけの「二十四日市」の日である。歩行者専用になった本町商店街は、閑古鳥の鳴いていた前の日と打って変わってものすごい人出である。いつもこの3分の1でも人出があればよいのに。
考えてみれば、年間200万人以上が伝建地区を目当てに観光でやってきているはずだから、その客が回ってくるようにすればよい。
それには高山の商店街だからこそという、特徴がなければなるまい。そもそも高山には飛騨家具という有名ブランド品があるが、商店街にその店があっただろうか。春慶塗りや渋草などの焼き物の店もあるのだろうが、当日は人ごみで私には分からなかったのだろう。
では高山市の政策はどうか。「高山市都市基本計画」(2000.3)は、都市計画法によって定められた、これからの高山の都市づくりの基本となるものだが、盆地の土地利用をコンパクトにまとめようとする方向は当然であろう。
1994年に定めたものの改訂版であるが、その柔軟で機動的な見直し体制は好ましいことである。
だが、いくつかの気になる点を上げる。人口の延びについては67700人で頭打ちとしていることは現実的であるが、実はその先に減少が待っているはずである。それにどのように対応するか、地方都市は深刻な課題である。
楽観か悲観かというのではなく、積極的に減少を受け入れて、減少しても高齢化しても豊かな生活圏を保つにはどうするか、その視点がほしい。
●用途純化策と幹線道路沿道整備は慎重に
まちづくりの方向として「土地利用の純化をはかり、、」とあるが、地場産業都市は実は家内工業による生産と生活の一体となった工場兼住居が広い地域を占めていることが多い。
その構造が地域産業を支えているので、用途純化型の古典的都市計画はむしろ地場産業発展の阻害となる場合もある。
例えば、家内工業を拡大しようとすると、用途地域制限で、地場から外に出ざるを得ないことが起きるのである。
用途純化が必要なところがあることはたしかだろうが、産業政策側からの対応はどうなっているのだろうか。むしろ地域特性にに応じた「特別用途地区」の制度活用が検討されるべきであろう。
同じところの続きに「、、幹線道路沿道などにおいては生活利便施設が立地するように誘導する。」と記されている。
生活圏の地域ごとに生活利便施設が必要なことはいうまでもないが、全国各地で沿道商業店舗(安売り店、パチンコ店、飲食店など)の立地によって、中心市街地商店の崩壊と幹線道路沿いの景観破壊を招くようになっているが、高山ではそれに対する方策が一方でなされているのだろうか。
美しい伝統的建造物群保存地区に入ってくる幹線道路の景観が、醜い郊外沿道型店舗群であっては、高山のイメージを損ねる。
実は、今回は帰りに高速バスを使ったのだが、ちょっと郊外にでると、まことにどうも乱雑きわまる沿道店舗群の看板と幟ひらめく街並みを通り抜けて、あの美しい山並みの道に分け入った。高山よお前もかと思いつつ、あの美しい街のこの汚れた玄関口を後にしたのだった。
将来用途地域の考え方において、「工業出荷額の視点からは工業用地の拡大は不要」としているが、工業に対する考え方の基礎として出荷額よりも、収益額を視点に置くべきであろう。大量生産方の産業よりも付加価値の高い産業へシフトする時代における産業の時代となれば、土地利用の考え方も変わると思うのである。
全国の地方都市で、これまで純化型の工業団地づくりをしてきたが、その団地から中国などに出て行くことも起きて空洞化しているところも多い。産業ビジョンづくりとも関係が深いが、団地型工業振興政策の見直しも必要である。
●市民による住宅マスタープランの実行
高山市民の将来生活像を描くことにもっとも肉薄しているのは、「高山住宅マスタープラン」(1999)と「推進事業の手引き」であろう。
この内容もさることながら、策定にあたっての1999年から始まった、市民と行政が協働する組織の「高山市まちづくり・住まいづくり研究会」の意気込みがすごい。
市民参画の多様な活動があり、この活動から更に次の活動団体を生み出して、高山に新たな息吹を吹き込んでいるようだ。
2008年を目標としている「中心市街地活性化基本計画」もある。
中心市街地の人口は10年ほどで12パーセント減少し高齢化率は23パーセント、年少人口は14パーセントであるから、空洞化と高齢化が進んでいる。空き地・空き家・空き店が増えている。
中心市街地とは、活性化とは、いったいなんだろうか。
中心市街地とは、そこがその街のもっとも長い歴史を持った生活圏として、これまでに長期にわたってその都市で最も社会基盤づくりに投資がなされてたところである。高山では、まさにその姿が目の当たりに見える。
活性化とは、ただ街があるだけでなく、そこに生活する(暮らすこと、働くこと、楽しむこと、学ぶこと等)人々が、活き活きしていることだろう。だから、活性化とは商業を盛んにすることばかりではない。
ところが、全国の中心市街地活性化計画を見ると、中心商店街活性化計画としか見られない内容のものが多い。
中心市街地活性化とは、生活街づくりである。その中のひとつに商業環境づくりもあるのだが、基本は生活の最もベースとなる居住環境づくりであると、私は考えている。
人々が街に暮らしていれば、商業は嫌でも活性化するはずである。昔の中心商店街はそうやって基礎人口でまずは成立していて、それに加えて広域からのお客で繁盛していたのである。
高山の中心市街地活性化基本計画でも、その生活街としての中心市街地の視点を強めたものでありたいと思う。ここではむしろ「高山住宅マスタープラン」の実行のほうが活性化に力を発揮しそうである。
●街並み保存と活性化の狭間
中心市街地と東山の寺町をくまなく歩いたら、わが万歩計は二万歩を数えた。雪の降りしきる東山の森と寺社の風景は、あまりにも美しく心の奥まで染みた。
三町伝統的建造物群保存地区とそのまわりの街並み保存地区、保存地区になっていないところも歩いていて、少なくとも高山の中心市街地では、どこでも街並み保存地区になりうると思った。
保存という言葉が適切ではないが、ある緩やかながらも規範の中に入るように街並みをつくる矜持が、市民の一人一人にあるのをひしひしと感じた。
逆に現在の伝建保存地区では、その風景保存というか復元への対応について、もう少し緩やかでもよいだろうに、と思ったこともある。
街並みの中の伝統デザインから外れる建築を伝統意匠に建てかえ、あるいは伝統意匠ファサードをつけたりしている。その努力に敬意を表しつつも、やはり伝統意匠で建て替えた建築は、どこかマニュアルデザインとなっていて書割のようにも見得るし、ファサードだけ付加するとその後ろとの違和感を免れない。
美しいデザイン・良い意匠は、時代を超えるものであるはずだ。下手なものが混じりこんでも
飛騨家具といえば、日進木工のショールームに行った。家具はすばらしいデザインで驚嘆したが、場所が殺風景な町外れにあるのが不思議だった。もっと街に中にあればよいのに。
すばらしいデザインですねエ、産地直売で少しは安く買えますかと、感心しながら聞いたが、売らない、いや売れませんとおっしゃる。いろいろと業界事情はあるのは分かるが、ここまでやって来て、コンセプトの通った展示を見せられて、買いたいといっても応じられまっせんとは、まことにつれないじゃありませんか。惜しい。
街の中の「匠の舘」にも飛騨の木工家具が並んでいるが、日進木工のそれと比べてどうもコンセプトがもひとつ分からない展示だった。
街に中のどこかに、古い伝統建築の空家があるだろうから、そこに生活提案型の飛騨家具展示をしてはどうか。もちろん家具だけではなく、飛騨名産をコーディネートして入れるのである。このときに、業界に配慮してなんでも横並びで入れてはいけない。明確な生活提案であってほしい。
大好きな盆地の高山の街はこれから、豊かな生活のためのものは何でもそろっている「生活街」としての視点から、居住環境まちづくりをおおいに期待している。
そろそろ引っ越したいと思っている私の、終の棲家を持ちたい街となることを。そして若い人たちには、未来をいっぱい詰め込んだ街に、。 (20020128 20020129修)