東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題(2008)

東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題(2008)

伊達美徳

1.東京中央郵便局の改築計画が出てきた

『今日、東京駅前に寄ってきましたが、またいちだんと超高層ビルが増えて、もう息が詰まるよう

でした。東京中央郵便局もそうなっては困ります』

多児貞子さんはこのようにおっしゃった。

2008年6月30日のシンポジウム「日本における近代建築運動の原点ー吉田鉄郎の作品を通してー」の壇上からである。多児さんは、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」の事務局長であり、「東京中央郵便局を重要文化財にする会」の事務局長でもある。

まさに仰せの通りなのであるが、実は皮肉なことにその愛する会の運動によって保全することになった赤レンガの東京駅舎が、それらの超高層群を生み出した 大きな原因でもあるのだ。

東京駅赤レンガ駅舎を低層のままで保全するために、その上空の開発権をそれらの超高層群に移転した結果、ますます巨大な超高層群になったのである。

東京の真ん中、東京駅赤レンガ駅舎のすぐそばにある東京中央郵便局の建物の改築計画を、2008年6月に日本郵政会社が発表した。そこにある完成予想図を見ると、今のファサードで広場側1~2スパンくらいを再現もしくは 保全して、上部に超高層建築を載せるという常套手段の墓石型デザインである。

今、現郵便局舎を保存する運動を、建築関係者と東京駅保存運動の市民たち、そして一部の国会議員有志も加わって起こしている。実はそのような運動があることは、6月30日の建築学会でのシンポジウムでわたしは知ったのであった。

そのシンポジウムは「日本における近代建築運動の原点ー吉田鉄郎の作品を通してー」と題して、大学の学術系として南一誠さん、鈴木博之さん、田所辰之助さん、建築家として兼松紘一郎さん、市民として多児貞子さん、そして吉田鉄郎のTV番組を制作した東亜希子さんによるパネルディスカッションだった。

シンポジウムは東京中央郵便局舎の改築保存問題がテーマではなかったが、パネル発言者は「そうもいかない」とて、そちらの話となった。

その話と当日配布資料(以下「資料」、「参考資料」という)によれば、保存運動をしている人たちの戦術は、現建築を国指定重要文化財とすることと、特例容積率適用区域制度の改定であるようだ。

前者は、東京駅の赤れんが駅舎で成功した戦術であるが、後者は特例容積率適用区域内における文化財建築の保存を伴う容積飛び移転の場合は、容積率 の割り増し措置を設けて保存による経済的利益の逸失機会を防止しようとするものである。

2.中央郵便局は国指定重要文化財に値するか

東京中央郵便局舎が国指定重要文化財の資格があるかどうかについては、シンポ会場に来た河村たかし代議士が、政治の場での動きを報告した。

2007年12月13日に衆議院決算行政監視委員会で河村委員の質問に高塩至文化庁次長が答えて、「この局舎につきましては、戦前の我が国の近代建築のすぐれた作品の一つと考えておりまして、国の重要文化財として指定を検討する価値を有しているものと認識をいたしているところでございます」と言ったと委員会議事録にある(参考資料3)。

そこでこの答弁を引き出した河村さんの会場での発言は、これで錦の御旗を得たように思われていて、「だから国が一方的に重文指定せよ」とのことであった。

指定の資格の是非はともかく、国家権力を行使して国指定という行政処分行為を一方的にせよ、との 政治家の考えはどうもひっかかる。

国指定の重要文化財に値するから保存せよという言い方にも抵抗を感ずる。その重要さについて、国指定だから県や市指定よりも重要だとか、世界遺産だから 国宝より優位にある文化財だとの考えが一般にあるが、そこにはそれぞれの文化への差別感がその裏に潜んでいることに気づくべきである。

しかし、良いものは良いのだ、だから文化遺産としてみんなで保存しようよ、というのならわかるのだが、国家に頼もうとする姿勢にはひっかかる。たしかに保存戦術としては大衆的にわかりやすいだろう が、作戦であると割り切りたいものだ。

ただし、東京駅のように戦中戦後の文化を否定するような国の文化財保護政策や復原派の人々の感覚には、わたしは賛成できない。

文化財には時間軸が重要な役割を持っているのだ。どの時代も文化を背負ってきていることを忘れてはならない。(参照→東京駅復元反対論

今の丸の内にはもう文化財の建物はないと兼松さんは資料で言っておられるが、そのうちに東京海上ビルの保存問題が出るかもしれない。

いや改築 したばかりの丸ビルや新丸ビルだって、そうなるときが来るだろう。霞ヶ関ビルは、最近全館の大改修をしているが、やはりこれも日本で最初の超高層ビルとして重要文化財として保存しようとするときが来るにちがいない。

かつて東京海上ビルで丸の内美観論争が起きたとき、丸の内には保存に値するビルはないと書いた建築評論家がいたし、多くの建築家もそう思っていたに違いない。

あれから40年であるから、旧東京都庁舎のように30年で壊される日本では、記念的建造物は30年くらいで文化財として保存せよと唱えなければならないともいえる。

19世紀末から始まった丸の内の近代建築群は、その町並みを時代の要請にこたえて常にリニューアルしてきた。 それが丸の内の地位を保持してきたのだ。

だから、ある時代に「地」として軒を連ねる 景観の中に、それらより高層の建築が「図」として登場すると、同じような高さの建築群が次第に多くなってやがてそれらが「図」となり、それまでの「地」であった建築がところどころに残っていて「図」としてみえるようになる。

推測だが、2階建ての赤レンガ建築の時代から高さ20mのオフィスビルへ、20mの時代から31mの時代へ、31m時代から45m時代へ、45m時代から超高層時代へと、少なくとも4回はそんなことを繰り返しているであろう。

あるタイミングでは、近代から現代への移行状況を、いくつもの重層する時間のパースペクティブとして見わたすことができたのである。

今は超高層建築群が「地」となり、「図」として東京駅赤れんが駅舎、中央郵便局舎、明治生命館、第1生命ビル、工業倶楽部会館が視覚に入るのである。それはかなり時間の大きなクレバスを抱える風景であり、パースペクティブとはならないのである。

そういえば今、三菱一号館を復元して建てているが、そばに特定街区による割り増しと東京駅からの飛び移転容積を加算した巨大超高層建築が建ちつつあるが、これらも見た目は現代と前近代との大ギャップであり、どちらも新築であるだけにその時間のクレバスの演出がどこか居心地悪い奇妙さをもたらすのではないかと、ひそかに期待と不安を持っているところだ。

3.歴史的建造物保存のための容積移転に功罪あり

保存運動をされている兼松さんの資料に、2008年5月27日に衆院議員会館で国会議員と国交省住宅局と都市地域整備局の課長と会合があり、容積移転に関する法改正提言の検討をしたとある(資料6-2)。

その内容は、特例容積率適用区域内ならば、重要文化財保存のための容積移転の場合は、移転先の飛び地街区に割り増し容積を載せる措置をせよということである(参考資料2)。

これに対して国交省課長は、「この制度は高さの限度を決めたもので容積割り増しが法の趣旨でない。割り増しを制度化することによってさらに容積が増え、都市景観が損なわれる」と反対したそうである(資料6-2)。ここは「高さの限度」ではなく「容積率の限度」 のはずだ。

これに対して兼松さんは、「もう保存に値する建築は中央郵便局舎しかないのだから、それはおかしい」と反論されたそうである(資料6-2)。 しかし、たった一つ建築のために制度を変えよとなるが、法制度は普遍性を持つから、この反論は成り立ちにくいとわたしは思う。

もっとも、容積率を移転したり割り増ししてまで大規模開発をしたいところは、もう日本では丸の内くらいしかないのも現実かもれないから、兼松さんは一面の真実をついているともいえる。

そのうちに孫や子の代で霞ヶ関ビルや東京海上ビルの改築問題がおきて、重要文化財指定して保存せよという運動が起きる可能性も、十分にありうる世の中である。もしもその保存建築の床面積分を容積緩和するとなると、とてつもない割り増し容積率となる。あちこちにばら撒いて飛び地移転しても、移転先によっては環境阻害要因となるおそれは十分にある。

その前に、今の東京中央郵便局舎を他の敷地に容積を飛び移転するとして、一体その床をどこに持って行こうとするのか。とにかくどこかのビルにもって行けばよい、中央郵便局舎の保存さえできればよいと、言ってしまってはミモフタもないことは、保存運動の人たちも十分にお分かりであろうとは思う。

特例容積率適用区域では容積の飛び移転を行うことができるとしているだけで、どこからどこに飛び移転するかは移転元と移転先の土地権利者間での取引行為であり、それを特定行政庁がひとつひとつ審査して許認可するのだから、事は簡単ではない。

この制度の元になった東京駅赤レンガ駅舎では、まだ移転していない容積率があるそうだ。あの広大な土地を持つJRと三菱地所が組んでもそうなのだ。

本当にその移転先があるならば、大丸有地区のマスタープランとして組み込んで策定して、地区計画に盛り込まれているべきなのである。都市計画制度と建築保存制度を結びつけるならば、都市像を持つべきである。

しかし問題は、そんな悠長なことをしていたら肝心の郵便局舎が建替えられてしまうという事態だろう。

そこで考えられるのは、「容積率信託銀行」とでもいうべき仕組みがあればよいのにと思う。

歴史的建造物を保存する敷地の権利者は、このバンクに他に移転したい容積を預けあるいは売って、相当する融資なり売却金を受領して保存のための費用あるいは他の敷地に開発する資金を得るのである。

この銀行はその容積をほしい他の敷地を一定期間内に見つけて、預かった容積をそこに斡旋するのである。下世話に言えば「容積不動産屋」である。そのような仕組みはアメリカにはあると聞いたことがある。法制度等をどうするべきか分からないが、検討してはいかがであろうか。

4.特例容積率適区域における飛ばし割り増し容積の問題

特例容積率適用区域における飛び地移転先での容積緩和のことを考えると、どうも問題がありそうだ。そもそも容積移転や形態緩和措置は、その建築を建てることによって社会的貢献をしたこと(歴史鉄建贓物の保存、広場や緑地の提供など)に対して行うものである 。

つまり「よいこと」をした「よいこ」の建築に、床面積割増なる「もうけしろ」の「ごほうび」なのである。その制度としては建築基準法による総合設計や都市計画法による 高度利用地区、特定街区、特定地区計画など多種多様にある。

基本的には同一あるいは隣接敷地内で行うものであり、その建築の「よいこと」と「ごほうび」とが隣り合わせにセットになって誰の目にも見えるようになっていてこそ 、社会的認知される仕組みのはずであ る。

ところが、特定容積率適用域内でありさえすれば、ある「よいこ」敷地の「ごほうび」をとんでもない遠くの敷地に飛び移転できるから、 そこに自前容積に加えて通常移転分容積そして「ごほうび」分容積までも飛び移転したら、見たところでは移転先の特例敷地には「よいこと」がないままに 特例巨大開発となってしまう。

逆説的に言えば、「ごほうび」による割増容積が周辺地区へ悪影響を及ぼす「わるいこと」になる(かもしれない)ので、広場や緑などの「よいこと」で 補完あるいは補償する仕組みである。

しかるに、その 「ごほうび」を他所に飛び移転してしまっては、「ごほうび」(「わるいこと」かも)と「よいこと」が現場での 補完関係が失われ、あるところには「よいこと」だけ、そして関係ない別のところにその「ごほうび」だけ存在するとなると、合理的な環境形成という都市計画の根幹に関わる問題と思う。

都市計画にも建築にも、法制度上は容積移転なる用語は存在しない。ある敷地から他の敷地に容積移転したら、都市計画としては移転後のそれぞれの容積率を 特例として指定するだけである。

これが数多くなるともうどこからどこに飛び移転したか都市計画決定文書を見ただけでは、普通の人ではわからなくなるだろう。わかるのは担当者だけとなるかもしれない。

ましてや現場ではなにが「ごほうび」やら見えはしない。つまり容積率移転による 特例指定という行政処分の内容の明示性が希薄になるおそれがある。

移転元の文化財が災害等で滅失したら移転先の割り増し分は取り壊すのか。

移転先の建物をとりこわしたら、先に移転した容積率が移転元に自動的に戻るのか。

これらの問題は、それらの間の土地権利者たちの契約変更、特定行政庁の変更許認可、そして都市計画の変更など複雑な事態が予想される。

特例容積率適用区域が広くなると、ある特定の場所で超巨大建築を生み出して、景観や環境に悪影響をもたらすことが起きないとも限らない。特定行政庁の許認可においてそれをチェックして防ぐことができる仕組みは担保されているが、許認可に政治的力学も働く可能性もあるから、単純に制度からいえば問題を含んでいる。

東京駅赤レンガ駅舎や今回の東京中央郵便局舎の保存のための特例法ならば、それなりに意味があるが、これを一般に適用するとなると問題が大きいのである。

5.20年前の東京中央郵便局改築構想

東京中央郵便局の改築は急に出てきたわけではない。

シンポ出演の南さんは、「国の機関であったために不動産運用を行うことができなかった郵政省の資産が、民営化によって不動産活用の道が開けてきたから」このような改築計画が出てきた」と書いておられる(資料2-2)。

しかし、 国有財産でも普通財産にすれば多様な活用は可能だから、改築はできなことはないし、実は今から20年も前の郵政省時代に既に改築構想はあったのである。

1988年3月の日付で「東京駅周辺地区総合整備基礎調査」(国土庁、運輸省、建設省)という報告書がある。これは東京駅赤レンガ駅舎の現地で形態保全を決めたレポートであると同時に、中央郵便局のその後の方向についても記述している。

当時の委員会の作業班のひとりだったわたしの記憶では、東京駅丸の内赤れんが駅舎の保存が話題の中心にあって、東京中央郵便局については保存のホの字も出なかったし、委員だった村松貞次郎さんからも聞いた覚えがない。

では1988年当時はこの局舎についてどう考えていたか、報告書をもとに書いておこう。

なお、このときは報告書には調査主体としての郵政省の名はないが、調査の協力委員として郵政省大臣官房から企画課長と建築部設計課長が入っているので、省としての考えが盛り込まれている。 当時は国鉄民営化化はその進行の真っ最中であったが、郵政民営化についてはまったくなかった。

この報告書のなかで東京中央郵便局については、報告書本文には具体的に触れてはいなくて、「高度情報通信ネットワーク、高度情報通信サービスセンターを導入し」との一文がそれらしいのみであるが、資料編にかなり詳しいのでその概要を記す。

1987年当時の東京中央郵便局舎は、集配郵便局、都内郵便局の統括、特殊切手の通信販売等を業務としており、約2600人の職員が働き、来局者数は取り扱い郵便物数は到着が約100万通、差出約176万通であった。

現局舎をなんらかの形で保全することもしないことも特に考えずに改築を前提として、東京中央郵便局に導入するべき役割と機能についておよそ次の通りとしている。

(1)郵便局 情報通信・金融・保険等の総合サービス、都心地区メールサービス拠点

(2)情報通信施設 情報通信中枢センター、衛星通信地球局、共同利用型データベース センター、情報通信関連研修センター、ハイビジョン推進センター、情報通信コンサ ルセンター

(3)業務施設 情報通信関連企業貸事務所、貸会議室、テレ会議施設

(4)都市基盤施設 ネットワーク総合監理センター、丸の内LANセンター

(5)文化施設 ハイビジョン文化センター、アスレチックセンター

ここにあるように高度情報通信の重要性については、当時もかなりのウェイトがおかれてその拠点としようとしていたことがわかる。ただし、今では情報通信技術に関しては大きく変わっているのでこのようなものを整備する必要がなくなったのか、郵政会社の発表では郵便局、商業施設、貸事務所、貢献施設(容積率割増のための屋内型公開空地か)程度しか書いてない。

このように1988年の段階においてすでに改築を構想していたのであり、民営化に伴って突然に出てきたものではない。むしろ民営化のごたごたのために、改築が延び延びになってきたのが実情であるように、わたしは推測している。

6.平凡なるものの保存

シンポジウムで最も面白く興味深かったのは、東さんの富山TV制作になる「平凡なるもの~建築家吉田鉄郎物語~」という1時間余のTV映像である。すでに富山で放送されたそうだ。

富山出身の吉田を丹念に追って、ドイツまで行って新資料を発見までしてくるのである。これには近代建築史家たちは面子をつぶされただろう。

ドイツの片田舎のチュービンゲンの出版社ヴァスムートを訪問して、吉田がドイツ語でそこから出版したときの原稿を見つけ出す。

それは晩年は病床にあった吉田が心血を注いだもので、震える手で書いたらしい郵便物の宛名が痛々しい。

ヴァスムートと吉田に関して、山口文象がこんな発言をしている。

「吉田先生は、いわゆるトラを積んでおかないとデザインしない人で、デザインするときはいつも『ワスムート』やいろいろなものを積んでおいて、ディテールを書くのですよ」(「近代建築の目撃者」佐々木宏との対談1977)

建築家としての吉田に焦点を当てたこの映像は、期してか期せずしてか、中央郵便局の保存を訴えるものとなっている。

だが、吉田がこの設計の前にストックホルムの市庁舎を訪ねて、建築家エストベリーのその造形にうたれて中央郵便局の設計に生かしたと映像は訴えるのだが、かの教会建築ともいえそうな装飾性と、この豆腐に目鼻といわれた無装飾性「モダニズム」との間に共通性を見出すのは、わたしには難しい。

たしかにストックホルムの市庁舎は、わたしもその昔にあこがれて1972年だったか初めてストックホルムを訪れて、よく写真にあるように湖の対岸から眺めて感激したものだ。

そのように海外名建築を引き合いに出さずとも、中央郵便局は十分に建築として美しいとわたしは思うのだ。ただし、東京駅のような素人わかりする装飾性がないことが、多児さんが発言していたように、この建築の保存を世に伝えにくいようだ。

映像の題名にある「平凡なるもの」は、死の前日に吉田が言ったという「日本中に、平凡な建築をいっぱい建てましたよ」(資料3-1)から採られたのである。

それは吉田が日本の木造建築の木割りをもとにしたのであろう、平面ができると自動的にできあがるとする建築設計手法を、逓信建築にも持ち込もうとして、それなりに成功したことを物語っている。装飾ではなくプロポーションに、職人仕事ではなく生産手法を追求する、吉田流のモダニズムであった。

そしてその「平凡なる建築」は、山田守、小坂英雄、国方秀雄などの逓信建築家のプロポーションの美しい建築へと結実していく。それは建築家の世界では非凡であるのだが、「平凡なる」が故に建築文化の浅い日本では一般には伝わりにくい。

東京中央郵便局は白眉と言ってもよいくらいの吉田流の「平凡な建築」であると、わたしも思う。吉田は当時の建築の紹介文に、「正面は周辺の諸建築と広場との調和上、自ら多少の記念性を帯び」としている。

その頃に記念性やランドマーク的なデザインならば、当時の三菱村の建築の作り方の作法らしきものを踏襲して、丸ビル側の角に時計塔をそれこそストックホルム市庁舎のように建てるのが普通だろう。実際にこの直後に向かいに建った八重洲ビル(2007年撤去)には、角の時計塔が建っている。

ところが、中央郵便局のその記念性とは、東京駅赤れんが駅舎のような大仰な構えではなく、せいぜい大時計が窓をひとつつぶしただけの壁面についているくらいな 「多少の」のもので、実に「平凡なる建築」なのである。

むかしむかし1960年代に、わたしはある地方都市の電話局の設計にちょっと関わったことがある。その設計の標準化の度合いはその当時としても非常にレベルが高いものであり、そのほかの設計にも使わせてもらったものである。それはまさに自動的に設計できる建築をねらったものであったと、思い出したのである。

吉田のいた頃に逓信建築の製図工だった山口文象が、プロポーションの美しい建築を得意としていたのも、もとは吉田のあたりから来ているのかもしれない。

7.現東京中央郵便局の最初のデザインはだれか

その山口文象は中央郵便局の設計者について、もとは武富栄一の担当で既にできていたものを、震災後に担当が吉田に変わってデザインを変更したのだと言っている。

この武富オリジナル説についての公刊された初出は、1965年出版の「日本建築家山脈」(村松貞次郎著 鹿島出版会)の「山口文象が出会った人びと」の章に書いてあるので、村松が山口から聞いたのだろう。

今、それを引用するよりも、同じ内容のことを山口の口ぶりのままに読むこととができるので、こちらを引用しよう。


山口 「中央郵便局の設計をするように武富先生がヨーロッパに行ったっていうことは明らかで、戻ってきてから中央郵便局の設計を始めたんだけど、デザインそのものがルネッサンスを、すこし、いろんなオーナメントを取り去った、セゼッションに相当近い、しかし、クラシックなプロポーションで設計されたんですよ。

これには私は全然関係していませんが、見たりなんかして、ああこんなもんかなあと思っていたんだ。

それがほとんど設計ができ上がっていて、工事にさしかかっていたんですけれど、いたと思うんだけれど、そのときに震災になった。

それでどういう内部的事情があったんだか忘れましたけれど、12年の未頃からかな、震災の年の末頃からかな、13年にかけて設計変更をしましてね、担当である中央郵便局が吉田先生の方に移ったわけです。武富先生で、吉田先生がアシスタントとしてやられた、と。

しかしもう図面ができて工事にかかっちゃっているから.本体を変更するわけにいかないので、緒局単純にできるだけ吉田先生のアイデアで解決したわけですね。

ですから現在中央郵便局のできているのをご覧になれはわかるように、ルネッサンスで言うと、オーダーが立って、柱が建ってその上にエンターアラチュアーがある。真直ぐに壁がずっといくんじゃなくてね。そしてバラペットから下の方に 、だいたい建物の1/5くらいの所がエンターアラチュアーですから、一階分くらいエンタープラチュアーです。その下に柱がずっとある。

だから、いま目をつぶってみると武富先生のデザインでいろんな細かにものが付いているたが無くなって、タイル張りになった。それから部分的に吉田先生の新しいシンプルなデザインか加えられてきている、というのが現在のものだと思うんですがね 。

だから吉田先生のものの考え方、造形の考え方からいうと、恐らくもっていられた吉田先生から言うともっと直したかったところがあったんぢゃやないか、外観などね。それを止むを待ず途中からなので、クラシックなプロポーションそのままにつくられた。

偶然とは言いながらいわゆるプロポーションは非常に良いんですが、そのクラシックの良さと近代的感覚の、その当時の吉田先生の感覚をちょうどコンバインさせて,ああいう良い建築ができたとね。

だから何て言いますかね、まあすこし飛躍しますけれどクラシックのプロポーションてものも決して古いもんじゃなくて、それをマスターしてやれば、やはり近代的にも通用する良い建築ができるというふうに、その当時考えたわけです」

(1972年1月2日開催「歴史の会記録」テープ起こしから:「竹村文庫だより6号 1992.10」掲載)

同じようなことをもう、別の機会にも話をしているが、こちらは少し整理してある。


山口「逓信省の技師で武富英一さんという人がおりました。武富さんは大正十一年にヨーロッパへ留学して帰ってこられました。ちょうどホフマンだとかオットー・ワグナーだとか、ウィーン派のセセッションがやかましくいわれていたころです。そちらのほうの建物を見、その図集を買ってこられました。

東京駅前の中央郵便局の設計を武富先生が担当することになりまして、それで行かれたわけです。そして帰国後設計に着手し、私も一部手伝いました。手伝ったというのはトレースのことでございますが、そういうふうないきさつがありました。

そのときのデザインは、ウィーン・セセッションのワグナーのあの有名な郵便貯金局に非常によく似ているプロポーションです。ご存知のように、ワグナーの論理からいいますともっと飛躍していなければいけないのですが、まだまだそこまでいかないで、ルネッサンスの威風ふんぷんとしておるプロポーションの建物ですね。それを武富先生が、そのままでもないんですけれども、つい手がすべって-笑い、そういうふうにかいてしまった。それで大体できて工事に着手いたしました。

そこへ大地震がぐらぐらっとまいりまして、世の中が一変してしまった。そこで、逓信省の建設計画も予算もすべて編成変えになりまして、東京中央郵便局はまた違ったスタッフでやろう、予算も削らなければならないというような、いろんな変化が起きまして、そうしてそのあとを引き受けたのが吉田鉄郎先生なんです。

しかしこれは一番初めのオリジンから考えますと、図面もできておりますしディテールもできたし、コンククートもだんだん上がってきておりますし、大変更というわけにはいかないんです。そこでオーナメントを取ったりキャピタルを取ったり、そういう要らざるものを全部取り除きました。しかし柱形や窓の高さ、階高などの変更はありません。大体プロポーションはそのまんまです。ただ凹凸を取ってしまった。それが中央郵便局なんですよ。予算がなくなっちゃって、国が貧乏しているからというのででき上がったのが、中央郵便局の傑作なんです-笑い。

私は、むしろ吉田先生の傑作は大阪駅前の中央郵便局だと思うのです。あれはプロポーションは全然違います。ルネッサンスのプロポーションじゃありません。

今度もしお暇がありましたならば、東京中央郵便局をようく正面からごらんください。あのプロポーションは完全にルネッサンスです。しかし、そのルネッサンスのプロポーションを吉田先生は造形的な繊細さ加減から、柱形の出方をタイル半枚だけ薄くするとか厚くするとか、それからスチールサッシの格子の割り方を変えていくとか、そういう非常に細かいところを先生が整理された。それで見られるようになっていると私は思います。上部のエンタブラチュアと下部五分の四との割合など、明らかにルネッサンスのオーダーといえましょう」

(「建築をめぐる回想と思想」 聞き手 長谷川尭 1976 新建築社)

つまり、中央郵便局は武富デザインを吉田が直したというのであるが、その武富案かもしれないアーチのついた窓の模型写真がある(「吉田鉄郎建築作品集」東海大学出版会 1968)。

一方、わたしが竹村新太郎氏から聞いた次のような話では、最初から吉田の設計であったという。竹村は、山口たちと一緒の逓信省営繕課で製図工であり、創宇社建築会メンバーとな る。


「東京中央郵便局のデザインは吉田鉄郎だが、はじめの設計では、最上階はアーチ状のデザインだった。大震災までに図面はほとんど完成していた。逓信省に別室をつくって、そこで担当スタッフが集まって設計をしていたが、そこに創宇社の広木が居て、私も見に行ったことがある。

アーチは表現派的なものではなくて、もっとスタイリッシュな形だった。この案が震災で破棄されて、現在みられる様な四角な窓になったが、これも吉田のデザインである」

(『竹村新太郎氏のお話を伺う会』記録1976年 伊達記録 竹村チェック済み)

また 逓信建築に詳しい向井覺は当時の前後の状況を調べて、次のように武富オリジナル説を否定している。

山口文象の記憶は東京中央郵便局にの設計のいきさつなどについても事実と相違する部分が多くて、しばしば当惑させられるのであるが、一般に山口説は話としては筋も通っており非常にわかりやすく、しかもドラマチックな場面もでてくるので、この方が伝説として残りがちである。しかし、現時点では東京中央郵便局の現局舎は、当初から吉田鉄郎が中心となって設計を担当したと考えるべきであろう。

(「建築家吉田鉄郎とその周辺」向井 覺著 1981年 相模書房 116ページ)

ちなみに、1923年10月頃、まだ大震災の煙のおさまりきらない中で、このまだできていない中央郵便局の裏手の空き地に建てられた逓信省営繕課の仮事務所で、山口文象を中心として若い製図工たちが「創宇社建築会」 を発足させたことが、1972年1月2日開催「歴史の会記録」にある。

8.建築家の建築評価と大衆の建築評価

ところで、郵政会社が発表した改築計画の絵をみると、現在の局舎のファサー ドの上に、縦に斜め中折れしたガラスカーテンウォールの超高層ビルがのっている。

設計は三菱地所とて、このあたりの大地主で事情をよく知った不動産会社の設計部門にさせて、そのデザイン監修は アメリカの建築家ヘルムート・ヤーンだそうである。

日本郵政会社には逓信建築の流れをくむ力量ある設計陣を擁していると思っていたのだが、今やそうではなくなっているらしい。逓信建築の流れをくむNTTファシリティーズは、コンストラクションマネージメント(CM)を担当するのだそうだ。

この三菱地所・ヤーン・NTTの取り合わせは何を意味するのだろうか。もしかしたら三菱地所の用地のどこかに容積移転もするかもしれない含みだろうか。ヘルムートヤーンは八重洲側 のJRの二つの超高層を含む再開発のデザイン監修もしているが、丸の内側についても保全や景観デザインについての世のうるささへの煙幕役だろうか。NTTファシリティーズは、逓信建築の流れを汲んで「平凡なるもの」に両者をコントロールする役割だろうか。

ところで郵政会社内に「日本郵政歴史検討委員会」(伊藤滋委員長)があって、保存と改築のあり方を専門家が集まって検討したのだそうだ。

上のシンポジウムのメンバーの鈴木さんもその委員であり、委員会は結論をひとつにまとめない方針ですでに3案を答申したのだそうだ。日本郵政が発表したのは、その中のひとつであるようだ。

鈴木さん、兼松さん、多児さんは、全面完全保全派だから残念な様子ながらも、まだまだこれからの活動が重要なのだとの意気込みでもあった。

1988年に上記の東京駅周辺総合整備構想を作っている頃は、赤レンガの東京駅を愛する会が立ちあがって、大衆的な保存運動の広がりを見せていた。

それは建築家たちが辰野金吾の設計だからと、業界内部的な口ぶりで言うよりも、あの東京駅はほとんどの日本人がなんらかの感慨を持って一度は通った経験を持つという普遍性と、あの赤レンガ色の洋風建築の特異さの大衆性とが、一般の人々の心に保存を訴える力を有していたからだ。

今、中央郵便局にそれの広がりがないのは、あの郵便局に入ったことのある人は、建築家か、あのあたりで仕事をしていた人か、郵便切手マニアのほかにあまりいないだろうし、普通の人が見ても何ほども感慨をもたらさない「平凡なるもの」であるからだ。

吉田鉄郎の設計だからと建築家がいっても、辰野金吾よりも人口に膾炙することは難しい。それよりも人々の日常生活に入り込んでいる郵便局という機能を手繰っていった先に、その総元締めとしての位置にいるものとして中央郵便局を訴えるほうが、人々にはわかりやすい。

まさに郵政民営化過程において、日常生活圏の郵便局の役割が民営化反対論として出てきたのと同じである。

わたしは辰野金吾の東京駅と吉田鉄郎の郵便局を比べると、それらのスタンスは異なるので一概には言えないが、デザインの美しさだけから見れば、後者のほうが格段に設計は上手であると思っている。

9.重層する時代の体現者の表現としての建築保全

今回のシンポジウムに登場した方々は、全員が現在の郵便局者は吉田鉄郎の設計だからそのままに保存せよとする全面保存派であった。TVディレクターの東さんは壇上でそうとはおっしゃらなかったが、映像から受ける印象では多分そうだろう。

赤レンガの東京駅丸の内駅舎が、辰野金吾の設計だからとて保存することになったが、中央郵便局も同じ論点であろう。わたしは東京駅丸の内駅舎は現状による保全をするべきとする立場にいるのだが、奇妙にも中央郵便局での完全保存派と一致して聞こえる。

しかし、その間の思想は大違いである。東京駅や中央郵便局の保存派の人たちは、その設計者の意図を忠実に保存もしくは再現することを目的としており、それがその時代層を伝える歴史的建造物の意義であるとする立場にいるのだ。だから東京駅も戦前に復さなければならないとするのだ。

わたしは建築保全(保存とは言わない)は、その建築が生きてきた重層する時代層を伝える歴史的体現者として身につけた表現、つまり時代による増築や改造にも歴史の有意性を見出すべきとする立場である。だから戦中戦後史の表現を失わせる東京駅の復原に反対なのである。

いまの保存派のかたがたは、モダニズムのマイルストーンとなる吉田鉄郎の作品だから完全保存せよ、との一点にその保存の意義をみとめるという立場のようである 。東京駅を戦前に形に復原するように、中央郵便局舎についても1931年から後の増築改造部分は元に戻せとおっしゃるかもしれない。

それはまるで後世に加筆された泰西名画を修復保存するようであるが、建築保存とはそのようなものだろうか疑問を持つのである。

人間の活動する器として未来の歴史をも含みながら生きていくのが建築であるなら、時代に応じた改築改装の中でいかにしてそれまでの歴史をも伝えて重層する時代層を表現できるか、それが 常に建築家には問われているのだ。それは新建築による町並みに形成においても同様なのである。

保存と改築の表現でわたしがもっとも目を見張るのは、ベルリンの元ドイツ帝国議事堂である。数奇な運命にもてあそばれて時代の変転を背負うこの建物は、かつてクリストが布で覆うことでその時代性を暴露したことがあるが、建築家ノーマン・フォスターの意図であるのか現代ドイツ議会の意思なのか知らないが、建築の修復改造をもってみごとに建築批評ばかりか歴史批評をしている。誰にでもわかるその時代層の表現には舌を巻くばかりで、これこそ建築保全の真髄である。

それは丸の内にもあるような木に竹を接ぐおざなり保存デザインよりもはるかに難しいが、保存の意味を明確に表現する建築家の時代精神の表現でもある。日本でそのレベルにまで達した保全デザインは知らないが、東京上野にある旧帝国図書館を改造した国際子供図書館がそれに近いだろう。建築家安藤忠雄のデザインである。

ヘルムート・ヤーンにはどれほどの歴史的保全の力量があるのか知らないが、せっかくの外人有名建築家起用だから、中央郵便局の改築においても重層する時代層の建築的表現を あっと驚くような時間のパースペクティブにして見せてほしい。その力量がないなら退場してほしい。

完全保存か否かという二者択一ではないのだ。歴史は幾重にも重層するのである。

10.文明批評としての建築デザインは可能か(080728追記、070830一部追加訂正)

中央郵便局舎改築計画案のビル(「JP タワー」というそうだ)の絵は、現在の中央郵便局舎の5階建ての形態はそのままに下層階に保全し、その上にガラス張りの超高層建築が立ち上がっている。

全部で地下4階・地上38階にするそうである。これは丸ビルよりも一層多い新丸ビルと同じで、丸の内では最高の高さになるのだろう。

その絵をしげしげと見ていて、はっと気がついたのだが、この上部構造の超高層建築のデザインは、折り紙飛行機なのである。ガラス板で折ったヒコーキは今、下部構造たる中央郵便局舎に突っ込んできて、まっさかさまにブスリと突き刺さったのだ。

次の瞬間、、、なにもおこりはしないが、ある幻惑にかられるのだ。超高層部は立ち上がっているのではなく、天から舞い降り突入してきたのだ。21世紀幕開けの都市にニューヨークで起こったあの9.11事件、これはそのパロディにちがいない。

かの地の業務中枢のマンハッタンとこの地の丸の内、最高に高いWTCとJPタワー、そしてガラスに託したヒコーキのメタファー、これはパロディであるかも しれないが、むしろ真正面からの文明批評と言わねばなるまい。

地球の裏側の9.11事件は、日本も巻き込む地球全体の事件となった。WTCのあのあまりにも無残な崩壊は、20世紀工業主義建築の行き着いた先を見せたのであった。だが、かの国はそれを承知できずに、超・超高層建築を拡大再生産している。そして、こちらの地においても、。

そうしたところに、かの地の建築家ヘルムート・ヤーンが示した(のだろう)デザインは、9.11事件後の世界の危うさを、この地の象徴的な場所において、ガラスと折り紙ヒコーキというもろく儚ない象徴で表現して見せてくれたのである。これを文明批評と言わずしてなんであろうか。

日本の建築界は今や、西欧から移入した技術を素朴に表現する赤レンガ東京駅舎(1914年)と中央郵便局(1931年)を従え、その克服を超えて文明批評にまで昇華する段階に至ったのである。慶賀すべし。

とは言っても、このようなパロディも文明批評も、かの地ではなりたつまい。それは、そのような批評を受け入れる土壌がないだろうし、折り紙ヒコーキなるこちらでは誰もが知る遊びの知識の素地が、かの地にはないからだ。

こうしてかの地からは地球の裏側のこの地にさえも、9.11の深い影が刻まれていることを隠喩するには、この地だからこそ成立する文明批評となるのである。

さて、これはヘルムート・ヤーンの意図するところなのだろうか。

調べてみたら計画発表時の報道の一部には 『6階以上は、折り紙を意識した「切れ込み」が入ったガラス張りの外観とする 』(共同通信)との記載もあるから、そのように記者会見で日本郵政は言ったのだろう。

とすれば、これは折り紙ヒコーキの突入姿、つまりひねればパロディに、まじめなら文明批評であることは分かっているのだろう。新聞記者の独自の記載なら、その記者は当然分かっているのだろう。

文明批評として建築については、もう少し考えてみたい。

(080711、080722追記、080728追記)