電柱がなければ美しい街になるのか?

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電柱がなければ美しい街になるのか?

都市という『大きな物語』から考える

2016年2月5日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

ドイツの市街地の景観は美しい。歴史的建造物の保護に加えて、電柱がないのは大きな理由だが、それだけではたぶん美しくはならない。

■物語を書く資格

たいていのドイツの地方都市の市街中心部には歴史的景観が残っている。景観保護の法律などがあるためだが、ぐっと視野を広げて考えると、やや抽象的だが『都市』という一種の大きな物語が共有されているということだと思う。

中世の都市はぐるりと市壁に囲まれ、これが現代の都市中心部になっていることが多い。市壁は『この範囲が都市ですよ』と宣言するようなもので、いわば物語本の表紙だ。そして中身、つまり都市の物語を自分たちで書いていくわけだが、そこで大切なのが、物語を書き進めるためのルールだ。その原則が中世の自治権や都市法といえるだろう。かつて、これがないと『都市』とは認められなかった。だから人口だけが増えても都市法を持っていない共同体は都市の物語を書く資格がなかったというわけだ。

■日本の町は『小さな物語』の集積

いくら美しくとも、都市はミュージアムではなく、その時代、その時代の『価値』をインストールしていく。しかしスクラップ・アンド・ビルドではなく、あくまでもアップデート。都市という大きな物語を崩すことはない。だから中世の『たたずまい』は残るが、よく見ると現代のテクノロジーもきちんと同居しているわけだ。ドイツの都市に電柱がないのも、電柱は物語を破壊する技術という了解が強かったのかもしれない。

一方、日本には都市という大きな物語はない。

『町』の語源からいえば道が基本になっているという説がある。国道に無造作に店ができたり、阪急モデルのように鉄道沿線に都市を開発していくのも、ある意味日本的なのかもしれない。またコンパクトシティといっても、いまひとつしっくり来ないのはこのせいだろう。

概念図:『大きな物語』に基づいた町は物語を壊さずアップデートされていく。

一方、個別の『小さな物語』の自己増殖でできた町は無秩序な全体像になる。(作成 高松平藏)

神社へ行くと御札がぺたぺた多く貼ってあるのを見かける、町の広告と同様で、これが日本の空間感覚ではないかと、景観問題のある専門家が書いてらしたのを読んだことがある。『物語』ということに引きつけていえば、日本の建物は個性的で、目立つ看板をつくる。町全体ではなく、個別の小さな物語の集積が日本の町なのだ。

無数の千住札が貼られた神社と広告でひしめくに町。これがひょっとして日本の空間感覚なのかもしれない。

■電柱を抜くだけではきれいにならない

ここにきて、『電柱を引っこ抜こうぜ』という議論が日本の自治体から出てきた。奈良県葛城市長 、山下和弥さんが会長を務める『無電柱化を推進する市区町村長の会』は 全国245人以上の首長からなる。同氏は今月1日、安倍晋三首相と面会。法案の早期成立や地方自治体への財政支援を要請し、首相も意欲を見せたという。

無電柱化には景観や防災などの大義名分があるが、美観に関して言えば、電柱を抜くだけでは町は美しくはならないだろう。ドイツを鑑みると、都市という大きな物語があり、共有されているからこそ法律なども実際に生きてくる。

■真鶴町の『美の条例』

しかし、大きな物語を書くためのルールを作った町が日本にもある。

神奈川県の真鶴町は海や林など自然資源の多いところだが、バブル時代にリゾートマンションの開発者がこぞってやってきた。しかしそれを止める根拠がなかった。そこでできたのが『美の条例』だ。(参考:『美の条例―いきづく町をつくる』1996学芸出版五十嵐敬喜、池上修一、野口 和雄 ・著)

2年前に訪問した時の印象をいえば、違和感を覚えたところもある。が、 条例は専門家と町民によって、かなりの時間と労力を使って作られた。美を何かの形でコントロールするのはデリケートなことであるが、町という『大きな物語』を書くためのルールブックになっていると思う。

ひるがえって無電柱化はおおいに賛成だ。だが、人はひどい風景も長年見ていると、親しみを覚えることもある。無造作な日本の町並みも外国には『エキサイティングな風景』と感じる人もいる。美観は実に難しい。無電柱化は町という大きな物語を作るきっかけと位置づけてみてはどうかと思う。(了)

歴史的家屋が比較的維持されているところでも、電柱が立っている。

※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。