20130508sijin_sports
サッカーの練習(ドイツ エアランゲン市)
■野蛮な身体言語
体罰は管理やモチベーションアップ、さらに文字通り懲罰といった役割を課せられていたのだと思う。それはたぶん指導者側からの立場で分類すれば、一種の『身体言語』なのだ。
ところが今日、この身体言語が非常識になってきた。指導方法の研究の進展のほかに、体罰が暴力とほぼ同義になってきたため人権尊重からはずれた。おそらく、そんなことが背景にあるのだろう。加えて実際、体罰で歯が折れたなど、暴力としか言いようのない出来事なども起こり、それが報道されるようにもなってきた。体罰という身体言語は今日では野蛮なのだ。
■タコツボ型再生産
私は体育会系の経験もないし、実態もよく知らないのだが、スポーツ専門の研究者などから聞いたことをまとめると、日本の指導者は競技者時代、体罰と過剰な上下関係のもとで管理される『体育会系』に適応し、そして指導者側へとキャリアを重ねた『スーパー体育会系』の人が多いらしい。
おそらく、そういう人は体育会系という価値が標準になった『体育会系世間』の中で齢を重ね他人も多いと考える。つまり別の価値観が本人の中に入ってきにくいのではないだろうか。その結果、指導方法のタコツボ型再生産がおこっているように思える。
■基本的な人間関係の確認
数年前から私はドイツで柔道を始めた。その時に気がついたのは練習中にドイツ語で展開される面白い言語感覚だった。機会があれば日独の『スポーツ言語空間』の比較などしてみたいのだが、まあ、これについてはまたの機会に譲る。
そんな中で、何よりも日本との違いと思われたのが技の指導をするときに、トレーナーの説明に納得できなければ、議論をすることだった。
ドイツのスポーツが社会一般の中で成り立っていることを考えると、それは至極当然の風景であったが、よくよく考えると、たまたまトレーナーは知識や経験が多いというだけで、指導を受ける側もトレーナーも互いに人権を持った人間なのだ。
トレーナーによっては人としての魅力からカリスマ性や権威のようなものが備わる者もいるが、基本的に平等な関係にある。納得がいかねば、言葉でもって議論するのは当然の方法だろう。
■詩人のワークショップなどいかが?
改めて『体育会系』で育った指導者と、社会の中の『スポーツ』の指導者をコントラスト大きくして比べると、言語能力の違いが大きいのではないかと思える。言い換えれば、体育会系指導者は言語能力を磨いていくと、違った形で組織(チーム)管理、モチベーションアップ、技術指導ができる可能性があると思う。
具体的には、状況を言語化することや他者に自分の意見を言葉で伝えることが重要だ。技術指導については身体感覚の言語化も大切になってくるので、詩人やダンスアーティストの手をかりてもいいかもしれない。特に日本の前衛ダンスとして知られる『舞踏』のアーティストの身体と言語に対する感覚は参考になるような気がする。例えば詩人やダンスアーティストによるスポーツ指導者へのワークショップなんてやってみてもいいかもしれない。
一方現場で、特に小中高校生を指導している人にとっては『そんな、言葉、言葉と言っても子供はいうことなんか聞かないよ』と考える方もおられるかもしれないが、体罰という『身体言語』は今日の社会ではあわなくなっている。それを考えると言語能力アップを検討してみる価値はあると思うのだが、どうだろう。(了)
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※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。