ドイツでのフクシマ体験記丨在独ジャーナリスト・高松平藏

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ドイツでのフクシマ体験記

人々が私を「個人大使館」にした理由

2018年3 月12日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

「フクシマ」のインパクトは大きく、そのため私はエアランゲンで日本代表の「個人大使館」ような役回りになった。だがこの体験には、一抹の奇妙な感じもあった。震災や原発事故について私はとやかく語る資格はないのだが、私的体験と所感を書き留めておきたい。

■白い花を届けに来た人もいた

原発事故発生の翌日あたりから、私の家族安否の確認とセットに「日本に対するお見舞い」の電話がよくかかってきた。こういう電話には家人も、お礼とともに、知り得た情報をもとにした状況説明などをすることになった。なかには白い花を持って、突然拙宅に来てくださった人もいた。

それから、「もし、日本から避難してくる友達や家族がいれば、わが家の一部屋をお貸しする用意がある」と連絡してきた人もいた。そういう申し出をしてくれたのは親しい友人もいたが、面識のない人から電話を頂くケースもあった。もっとも私のみならず在独の日本人の方も、そういう申し出を受けた人は多かったようだし、ミュンヘンの日本領事館にも同様の申し出がかなりあったと聞く。

さらにエアランゲンの行政の知人から、「市としてフクシマに募金したいが、どうすればいいか?」という相談も受けた。震災とは無関係の記者会見会場に行くと、普段は挨拶をする程度の市議の方が、歩み寄り、そしてお見舞いの言葉をかけてくださった。地元紙の編集長からコメントの依頼もきた。そんなことが重なると、ちょっとした「個人大使館」のような役回りになっているように感じられた。

■無関係だが、増幅されるインパクト

ところで1986年のチェルノブイリ原発事故の時を思い起こすと、私は盛んに報道されているのは知っていた。しかし、それまで聞いたこともなかった「チェルノブイリ」は、あまりにも遠く、ネットもない時代の地方在住の16歳には、「無関係」に等しかった。それにしても報道の大きさにによるインパクトだけは大きかった。

それを考えると、「フクシマ」のインパクトの大きさはドイツに確実に届いている。そこへメディアは分析や予想を加える。理性と感情が混ざった批判や批評、追悼集会や社会運動なども加わる。ネットが発達しているので、「インパクト」は増幅される。確かにこれが契機になってドイツのエネルギー政策にも影響したが、多くの人にとって実際は「無関係」だ。そんな状況で、被災者でもなく、救助活動をしに行ったわけでもない私に声をかけてくる人々がいたわけだ。

■「個人大使館化」になぜ奇妙な感じを覚えたのか

これらの人々は悪意はなく、むしろ「良い人」だ。それにしても日本の「フクシマ」は聞いたこともない地名であり、それゆえ、日本人の私を、生の正しい情報が集積してる「情報装置」として見た人も多いと思う。同時に人々は無意識のうちに、「生身の日本人=日本」という記号で捉え、被災者への連帯や哀悼の意思表示の「受付」と見なしたのだとも思う。これが「個人の大使館化」の正体なのだろう。

「家族の安否」という私個人のことをセットに、フクシマの現状を尋ねる人がほとんどだが、中には「野次馬根性で尋ねたのではない」「私は『高松さん』という個人と話している」という社交上の礼儀を意識した人もわりといたのかもしれない。

ともあれ一般化すると、個人を記号化するということがたぶんおこった。これは人種や国籍などの属性を根拠に、差別や憎悪の念をぶつけるのとよく似た構造ではないだろうか。だから「一抹の奇妙な感じ」があったのだと思う。

■罪のない偽善

ところで震災から1年ちょっとたった頃、私は地元の人が参加する集まりに参加。「顔見知り程度」の女性3人が神妙な表情で、お決まりの質問をはじめる。

しかし場も和んできたあたりで、一人が「もちろん、フクシマは大変な出来事ではあるが、好奇心もあった」とはにかみながら本音をもらした。すると他の2人も「実は私も・・・」と続いたのだった。彼女たちの本音、つまり罪のない偽善を語ってくれたとき、私から「日本」という記号がはずれた瞬間なんだと思う。(了)

※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。

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