体育会系からスポーツへ┃高松平藏/在独ジャーナリスト

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体育会系からスポーツへ

体罰にまつわるメモ

2013年2月1日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

日本のスポーツについてドイツで話すとき、『体育会系』の説明が大変難しい。それは日本社会独自の文脈のものだからだ。また体罰は体育会系を成り立たせる大きな要素だと思うが、一連の体罰にまつわる件をみていると、従来の体育会系が時代の変化に耐えられなくなってきているように見える。

■トム・ソーヤーも叩かれた

体罰そのものはおそらく、どこでもあったと思う。ドイツでも昔は革のベルトや鞭で子供はうたれた。19世紀のミシシッピ川の近くに住んでいたトム・ソーヤーも先生にムチでよく尻を叩かれていた。

体罰は絶対的な権威を背景にした指導者によって、動機付け、懲罰、統率、集団の秩序形成などの目的で行われてきたといえるだろう。そしてそれは、何十年か前まではあまり違和感のない行為だった。むしろ『なぜ先生は僕を殴ったのだろうか』と、一発のビンタから絶対権威者の先生の意図や愛情を読み取ろうという思考さえあったと思う。体罰をする側も受ける側もなんらかの目的を遂げようという了解のなかでは成り立っていた方法だったのだろう。

■理想の体罰

日本社会での体罰を考えるときに思い出すのが、日本は頭でっかちではなく、心でっかちだという言葉。これはどなたかがブログで書かれていた言葉なのだが、なかなかうまい表現だ。その指摘はいろいろな説明に使えそうだ。

たとえば戦争中に精神力で日本軍は勝るのだという思い込みがあったこときく。冷静にみるとなんとも滑稽で、今風にいえば、これでは電波系国家だ。そしてそれは心でっかちというイメージともよく合う。また、近年のアニメでも友情の力で敵をやっつけるという構造のものが散見されるが、なんとなく連続性があるような気もする。

『心ころでっかち』に着目して、体罰が適正に機能するというのはどういう状態かといえば、おそらく肉体的な行為を通じて心を強くする、活発化させるということだろう。つまりやる気を起こすという意味では動機付けであり、愛と権威のある先生からのビンタは、先生からの最大の応援なのだ。

おそらくアントニオ猪木さんのビンタなども、そういう系譜だろう。体罰は非難されるが、猪木さんのビンタに対する非難は聞いたことがないし、女性でも喜んでビンタを希望すると聞く。猪木さんは元気な心(気合)をビンタでもって伝え、ビンタを受けたほうは、それでもって心を強くする。そういう構造が了解されているからこそ非難されないのではないか。、誤解を恐れずにいえば理想の体罰がモデル化したようななもので、劇場的要素の強いプロレスという背景や猪木さん自身のキャラクターも手伝って、現代社会にうまく残った稀有な例だ。

■陳腐化した方法としての体罰

ではなぜ今日、体罰は問題とされるのだろうか。

それは長い時間をかけて、人権感覚が展開され、同時に社会的に体罰と暴力が同一のものと位置づけられるようになったということではないか。その結果、動機付け、懲罰、統率、秩序形成のための方法としての体罰は少しづつ成り立たなくなってきた。

加えて、感情と身体は密接である。指導者が未熟である場合、自身のコントロールがうまくいかず『方法としての体罰』だか『感情による暴力』だかわけがわからなくなっている人も少なくないのではないかとも思えるのだが、どうだろう。

さらに動機付けや統率などの目的実現の方法も、現代ではスポーツ科学や教育学など多くの分野での蓄積普及があり、変わってきた。換言すれば方法としての体罰は陳腐化しているのだ。私は未読だが、ドラッカーのマネジメント理論を野球部に適用した『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』の登場などもそういう変化の一端を象徴するものと解釈できるかもしれない。

■現代社会での『体育会系』

『体育会系』とはある意味、軍隊モデルの人間関係で、その中で動機付け、懲罰、統率、秩序形成のために権威とワンセットになった体罰は馴染みやすいのだろう。日本の場合、そこへ『心でっかち』な思考傾向も加わる。

また戦後の経済復興の時期に、企業を経営には『体育会系』社員がピッタリで、自衛隊で研修なんていう会社もけっこうあった。ところが今や体育会系的な思考よりもクリエイティビティが重要だという言説も大きいし、一方で『ブラック企業』といわれる企業は日本社会、日本企業が持っていた体育会系体質が発酵というより腐敗したかたちのものだという気もする。

そういう社会の変化が『体罰』に対するアレルギーを強くし、機能としての体罰ももはや理想的には機能しなくなったということなのだろう。

最後に個人的なことを書くと、若いころ、私は体育会系には嫌悪感すら持っていたので、『運動なんてまっぴらごめん派』だった。ところが、中年になって健康維持を考えたときに、ドイツでスポーツと出会った。スポーツには、これまたいろいろ問題や課題はあるが、ともあれスポーツがベースになった社会で柔道をしている。そういう立場から日本を見ると、アスリートの世界も体育会系から(西洋由来の)スポーツへ変化しようとしているように見える。(了)

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※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。