ゆるゆるシンドローム 戦後から21世紀のドイツ社会の変化
執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)
先日、50代はなぜ元気なのかという視点からドイツ社会の変化について考察したが、今回はその続編。ドイツ社会は他者への敬意などを失い、エゴイスティックな面が強くなったような気がしてならない。
日本社会からみると、欧米は自由で鷹揚。━━少なくとも私が10代のころ(20-30年ぐらい前)はそんなイメージはあったと思う。ドイツに来た頃、耳についた言葉のひとつが『ストレス』だったが、些細なこととも思える問題でもすぐに『ストレスだ』という不平をきくたびに、自由を重視する社会像(=ノー・ストレス)と表裏一体になってる印象を持った。
子供が小学校へ行きだして、見えてきたのは子供たちの奔放ぶりだった。私が住むバイエルン州などはまだまだマシな部類であるようだが、授業中は机の上に水筒をおき、喉がかわいたからと水を飲んだりする。そして私語も多い。
たまたまそんな学校の授業を見た妻が、『これはいけない』と思わず囁いた。すると、隣にいた若いお母さんが『あなた、厳しいこというのね』。
学校の出来事はひとつの象徴的なエピソードだが、ドイツ社会はストレスのない状態を求める傾向を感じる事が多い。名付けて『ゆるゆるシンドローム』だ。
■ストレスと自由
ゆるゆるシンドロームの発端は反権威主義にあると考える。
ドイツには学生運動を展開した『68年世代』と呼ばれる世代がある。現在の60代がそうで、日本の団塊世代をイメージするとわかりやすい。が、日本にくらべるとこの世代の社会的影響はかなり大きい。『もっと民主主義を』求め、人権と自由を求めた。そして、ここには反権威主義がまとわりついた。
こういう潮流は反原発運動など社会運動が盛んになり、『緑の党』の興隆につながった。また『万人に文化を』『万人にスポーツを』『万人に教育を』というスローガンによって、市民社会的な文脈を残しながらもある種の生活の質の高い大衆社会を実現した。
■反権威
ただ、『反権威』的な思考はふたつの問題をもたらしたと思う。
そのひとつが『ゆるゆる』化だ。反権威と自由は結局のところ、ストレスの少ない、つまり厳しいルールなどのない『ゆるゆる』の状態を目指すように思えるのだ。
もうひとつが『ノー・リスペクト』だ。
ドイツで『権威』と『リスペクト』はセットだ。権威に対してリスペクトをもたねばならないという考え方が本来的にある。つまり理屈でいえば反権威が強くなると同時に、それは『リスペクト』も消失してしまうことになる。
『ノー・ストレス』と『ノー・リスペクト』の志向性はエゴイスティックな行動につながる。
それはおそらく自動車の運転などにわかりやすく表れているように思う。数年前からルール違反の自動車がかなリ増えてきており、ADAC(日本のJAFのような組織)でもそれを問題視している。
実際、私が初めてドイツに来た時、それは旅行であったが、ルールに几帳面なドイツのドライバーたちに驚いたことがあった。エゴイスティックなドライバーもいたが、それはどういうわけか、たいていはベンツのドライバーだった。ところが昨今はスピードの出しすぎ、危険な割り込みなど、エゴイスティックなドライバーは車種を問わず増えた。
■『ゆるゆる』と『ノー・リスペクト』
■反動があるのが救い
ひるがえって、冒頭で書いたように、私が10代のころ『欧米は自由で鷹揚』というイメージを持っていたが、今から思うと、アメリカもヨーロッパもごっちゃにしたかなり大雑把なものだ。
それにしてもそのイメージの源泉は、60年代、70年代にいわゆる先進国で盛んになっていた学生運動などの影響で変化した社会象にあるのだろう。ドイツの場合は68年世代によって変化した反権威的で自由な社会で、卑近な例をあげれば会社員でもジーンズでノーネクタイといったような、そういうイメージだ。
しかし21世紀初頭、ドイツの『反権威』という振り子は『ゆるゆるシンドローム』まで振り切っているように見える。
ただ、これに対して反動もある。数年前に権威の必要性を教育分野から指摘した本が出て話題になった。もちろん『権威が必要とはなんたることだ』という拒否感もあったが、賛成意見も多かった。
反動がある分、まだまだ社会の健全性がある。これは救いだと思う。(了)
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