宗教改革500年、聖書マラソンに参加してみた丨在独ジャーナリスト・高松平藏

朗読を終えると、聖書とともに写真撮影。

■聖書はしっくりこない本だが、朗読すると芝居がかる

聖書マラソンは近所の教会で、交代で聖書を朗読する7日間のプロジェクト。教会関係者の友人から、「日本語で朗読してほしい」と声をかけられ、「創世記」の一部を30分間朗読した。

聖書はこれまで読んだことがない。

いろいろ探して、現代文になっているものを用いた。それにしても固有名詞や聖書独特の言葉がある。また「編集」という側面からも、現代の感覚とは異なる印象を持った。

しかし、朗読の練習をしてみたところ、子供が小さい時に本を読み聞かせていた雰囲気を思い出してきた。理由はわかっている。「お話」になっているからだ。教会では複式呼吸で大きく発声。マイクもあるので、そこまでする必要ないのだが、ついそうなる。すると、より芝居がかる。

私の前後にフランス人とドイツ人の女性がそれぞれの母語で朗読。彼女たちの声は小さかったが、それでも「お話を聞かせる」ような抑揚になってくる。 キリスト教の文化と演劇は、相性が良い印象がある。なるほど聖書の物語性に依るのかもしれない。

Interlocal Journal はドイツ・エアランゲン在住のジャーナリスト・高松平藏が主宰するウエブサイトです。

前の記事高松平藏の記事一覧次の記事

宗教改革500年、聖書マラソンに参加してみた

地域の教会でのプログラム

2017年10月09日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

今年はマルテン・ルターの宗教改革500年目。教会関係を中心にあちらこちらで記念プログラムが行われている。その影響(?)はキリスト教者でもない私にまで及び、朗読プロジェクト「聖書マラソン」に参加した。個人的には筧(かけい)克彦という学者のエピソードも参加の動機の背景にある。

祭壇で朗読。この女性は私の次の当番。母語のフランス語で朗読している。

■市長も参加、言語も複数

朗読マラソンは教区の人が中心に参加している。名簿を見ると、家族ぐるみや、教会関係の若者のグループの名前がある。近所の小学校がクラス単位で参加するケースもあるが、異なる宗教の子供などはどうしているのだろうか。

言語はドイツ語が主だが、フランス語、ロシア語、ポルトガル語、中国語、ルーマニア語、アラビア語での朗読もある。私のように、それぞれの母語で朗読するのだろう。外国人比率、約15%という同市の状態が浮き彫りになったかたちだ。

朗読の1番手はエアランゲン市の市長だった。期間中、ほかにも副市長や市議も何人か行う。 こういう参加者を見ていると、プロテスタントということもあるが、間口の広さを感じる。

■世俗化してるが、社会に大きな影響

ところで私が参加を決めた理由のひとつに、法学者でもあった神道思想家の筧(かけい)克彦のエピソードがある。彼は19世紀末にドイツに留学した人で、法を学ぶには背景にあるキリスト教の理解が必要と、毎週ミサに通い、賛美歌を歌ったらしい。これはとてもよく理解できた。

年代的にいうと、当時のキリスト教はすでに世俗化していたし、今日はさらに進んでいる。それでもドイツの「社会の肌触り」のようなものを言語化して理解しようと思うと、キリスト教にぶつかることが多い。だから、筧ほどではないが、私は機会があればできるだけ、教会に足を運ぶようにしていたのだ。

教会のエントランスにはマルティン・ルター関係の本も展示されている。

世俗化したキリスト教は欧州の基本的価値、デモクラシーとも親和性が高い。以前、教会の牧師さんに取材したところ、いろんな考えを話し合うフォーラムのような場所になればとおっしゃっていた。また、私のあとに朗読したフランス人女性も、子供のとき、聖書をベースにディスカッションをする機会などがあったという。

普段の教会は、高齢者の訪問が圧倒的に多く、全体的に見れば、教会へ行くのはクリスマスだけ、という人が多数派。それにしても依然、地域単位でみると、文化活動の拠点地、人々のコミュニケーションセンターとして側面がある。朗読プロジェクトも、教会の地域における社会性がベースになっているのがうかがえる。(了)

<ひょっとして関連するかもしれない記事>

※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。

短縮URL https://goo.gl/NmChkQ