新聞を教材に-ドイツの学校カリキュラム丨在独ジャーナリスト・高松平藏

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新聞を教材に-ドイツの学校カリキュラム

情報化時代の授業

2019年8月6日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

【蔵出し記事】「表現の自由(ドイツでは意見の自由)」を担保するには、他者のどんな意見も阻まないことが原則だ。同時にその意見がどういう背景のものかを推測する能力が大切。そういう力をつけるひとつの方法が新聞を使った教育といえるだろう。1998年4月にドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州の教師を取材した記事を蔵出ししてお送りする。90年代のドイツのメディア教育の一端が見えると思う。

社会科や国語など複数の教科にわたって新聞を取り入れた授業が以前からドイツで行われている。ねらいは情報の収集力や分析力を養うことだ。マルチメディア時代を迎え、情報の渦にわれわれはその身を置く。そこで必要となってくるのが情報に対する選択眼だ。3名のドイツ人教師に話を聞いた。

■新聞を使った授業

ドイツ国内では州によって教育システムが異なる。授業内容についても教師の裁量に任される部分は大きい。大枠の教育制度についても職人になる進路を前提にしたハウプトシューレ、大学進学を前提にしたギムナジウムと呼ばれる学校など日本とはかなり違う。その中で新聞に焦点を当てた授業は8年生から10年生(中学2年生から高校1年生に相当)のあいだ、延べ約1カ月程度行われる。

授業の大きな流れとして、最初に論理的な観点から新聞について教える。

報道の文章のスタイル、主観やバイアス(偏見)を入れずに中立の立場にたった表現など、国語の観点から新聞を扱ったもので言語に対して感性を養う。ときには複数の新聞の編集方針を比較したり議論を行うケースもある。

次に実際、複数の新聞を生徒自身で収集し、同一の出来事の記事について比較を行う。スポーツ紙、地方紙、全国規模のクオリティペーパーなど編集方針やスタイルの違いによって扱い方が異なる。比較することで、情報の加工したあとの伝えかたの違いが見えてくるというわけだ

授業は複数の科目の中、「メディア」というテーマで新聞は扱われる。 バーデン=ヴュルデンベルク州、バート・メルゲントハイム市内の学校で校長を努めるペーター・モルナーさんは「新聞は歴史や社会、国語、初歩の経済学、コンピューターといった複数との関連性がある。本来は教科を超えた教諭同志、横のつながりを持ったプロジェクト的な授業が進められたらいい」という。

歴史では新聞などで行われる情報操作の危うさを、社会科では社会の中で新聞が担う役割や影響などを学んでいく。新聞だけではなく、雑誌やテレビなどのメディアが行う情報の扱い方も比較する。

論理的な面と情報加工の比較のあとは実際にテーマを決めて短い記事を生徒に書いてもらう。モルナーさんと同じ学校に勤務するゲルリンデ・ヘルシュラインさんは「村の歴史やクラスの出来事をテーマにするなど生徒が関心を持ちやすいようにしている」と、実際の授業で生徒の集中が続くように工夫している。

ゲルリンデ・ヘルシュラインさん(左)とクラウス・ディーター・ブルノッテさん(右)

■新聞作りを体験する

記事を書いたあとは実際に新聞社を訪ねるという。その場合、前もって新聞社の記者や編集者が学校に来てもらうことも少なくない。来校した記者・編集者には日々の仕事などを話してもらう。いわば新聞制作のオリエンテーションだ。 そしていよいよ生徒たちは新聞社を訪れる。現場の空気を感じながら新聞ができるまでの工程などを学習する。学校によっては広告、部数、新聞社の損益分岐点など新聞社の経営構造についても学ぶことがあるという。

その後、実際にレイアウトやデザインなどを勘案しながら新聞作りを行う。前もって書いた記事などを元に編集作業を行うわけだ。ときには、スポーツ新聞や一般紙、クオリティペーパーなどそれぞれのスタイルに沿って同一の情報を加工してみる。それぞれの仕上がりで表現の多様性が浮き彫りになる。

社会・政治の科目を受け持つクラウス・ディーター・ブルノッテさんの勤務する大学進学を前提にした学校「ギムナジウム」では、新聞づくりにインターネットの活用を最近始めたという。通信社や新聞社の記事をインターネットを通じて入手。本番さながらの新聞を作るという。体験授業の要素も大きい。

新聞制作は記者、編集者を中心に複数のスタッフによる共同作業で成り立っているといっても過言ではない。授業での新聞作りを通して、共同作業の方法を獲得するということにも一役買っているようだ。

■情報化と自己責任の時代

ドイツは戦後、独裁政治について反省を行い、教育カリキュラムにもその教訓をきっちりと盛り込んだ。情報操作を行う国家と情報を鵜呑みにする国民という組み合わせは危険だ。新聞を用いた授業は、情報に対する分析力など適切な姿勢や能力を学びとることが目的だ。それだけに政治や経済など社会問題に関して関心の高い生徒が日本に比べて多い。

しかし最近すこし様子が変わってきた。 「以前に比べて最近の生徒は批判精神が少なくなった」と口をそろえて3人のドイツ人教師が言う。以前は倫理的な問題に抵触しそうな扱いをしているメディアがあれば、「そもそもなぜこんな新聞を発行するのか」といった議論がクラスで巻き起こった。しかしここ数年間、このての議論は生じないという。

「快適な暮らしを」というコンセンサスのもと構築された福祉国家、ドイツは東西の統一後、それまで保っていた福祉予算と税収入のバランスが一挙に崩れた。現在ドイツ人が築いた福祉システムは揺れている。失業者も多い。生徒は将来にむけて、生き残るためにややもすれば安直ともいえる選択をしてしまうことが増える。自分の興味や好奇心を優先するよりも「資格になるようなこと」を勉強すべきだと考えがちだ。マルチメディア時代を迎えた今、情報量も増えている。こういった環境ではとにかく余計な情報を吟味するよりも目的である学科をこなしたり、成績の向上に腐心することにつながる。日本の受験システムに対する批判を彷彿とさせる。

人間にとって競争心とは生き残るためのエネルギーになる。しかし生き残り策に効率性と合理性のみを判断基準に傾注すると、人の営みの中で重要なことを置き去りにしてしまう傾向がある。 「ギムナジウム」では、新聞授業の成績評価を生徒の分析力を対象にするという。情報に対する分析力を高めるにはさまざまな回り道で得た体験や知識の量は重要だ。そこから情報の選択眼や分析力につながる。自己責任の時代に突入する中、情報に振り回されるのではなく、自分にとって必要な情報を選び、活用していくことが肝要だ。そんなことをこの授業では教えている。(了)

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※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。