ドキュメンタリー映画『ハーフ』を見て

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ドキュメンタリー映画『ハーフ』を見て

2014年2月17日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

日本人と外国人のあいだに生まれた子供、いわゆる『ハーフ』が増えている。5人のハーフを追ったドキュメンタリー映画を見たが、この映画に触れつつ『ハーフ』の親として考えたことなどを記しておきたい。

上映会場にて。(2014年2月8日)

■当事者として気になるよね

私はいわゆる『ハーフ』の親である。そんなわけでこのドキュメンタリー映画『ハーフ』(2013年)には関心があった。最近ドイツでも上映会が行われており、ベルリンでずいぶん盛況だったという。シュトゥットガルトでこのほど上映会が行われると聞いて、我が家からは少々遠いが家人と見に行った。100席あまりの会場はほぼ満席。ざっと客席を見渡したところ私達のような日独夫婦や、容姿からいえば『日独ハーフ』と思われる人たちがけっこう目についた。

同作品に登場する『ハーフ』は5人。父親か母親のいずれかが外国人(オーストラリア、ガーナ、メキシコ、ベネズエラ、韓国)。それぞれがどんな苦労をして、どのように自分のアイデンティティや『居場所』を探したかといったことに焦点があたった内容だ。上映会場をみると、ハーフやその親という『当事者』たちにはやはり気になる映画なのだろう。いや、私達夫婦にとってもやはり見ておきたい映画だった。ちなみに監督たち『作り手』もハーフである。

映画『ハーフ』の予告編

■『HAFU』に凝縮されているのは日本社会の文脈

ハーフという言い方は半分外国人という意味からきている。2つの要素があるのだから、『ダブル』とすべきだという議論もあるが、一般的によく使われる『ハーフ』は和製英語として日本語化したものといえる。映画タイトルでも『ハーフ』を音写した『HAFU』と表記されているが、これは重要なことだと思う。

というのも、外国人や外国にルーツを持った人がどのように扱われ、定義されるかはその国や地域によって異なるからだ。つまり日本語化した『HAFU』という独自の言葉は、国際結婚の夫婦の子弟に関する日本での歴史や価値観によって編み上がった社会的文脈が凝縮したものにほかならない。

この社会的文脈がどのようなものかを論じるのは別の機会にするが、例えば映画に登場した韓国とのハーフの女性の場合を見ると、長い間父親が韓国人(帰化しているが)であることは知らされず、あくまでも日本人として育てられた。これは日本社会における朝鮮半島系の人に対するイメージや扱いを鑑みた親の判断だった。もし彼女がドイツで生まれ育っていたら、親の判断は全く異なっていたかもしれない。彼女の人生は日本の社会的文脈が強く影響していることがよくわかる。

■違いを判断するのは正常

人間は自己防衛本能として仲間か敵かを知るために、他人の外見を判断するということを聞いたことがある。それに準じると、外見の判断そのものは『正常』なことだが、肝心なのは判断したあとの態度だ。個人に帰するとそれは知識や経験、そして自分とは異なる背景や環境の人と最適な関係を作るようなスキル(社会的スキル)をどの程度身につけているかによって随分異なる。

これは外国人としての私も実感している。私と接触した狭義のドイツ人の多くは気持ちの良い人たちだが、中には外国人と接触の経験、知識、社会的スキルの不足のせいか、その態度に違和感を覚える人もいる。それから考えると、『ハーフ』の人たちがよく持つ悩みや違和感も、狭義の日本人の多くが『ハーフは自分たちとは違う』という判断し、そのあとの態度に問題があるからおこりうるのだろう。

映画『ハーフ』のホームページ

■ハーフの親として

知識・経験・社会的スキルが必要なのは、狭義のドイツ人や日本人だけではない。『ハーフ』の人たちも必要なことである。欲をいえばさらにユーモアもあれば完璧だ。ユーモアは品性のひとつである。これによってハーフに接することに慣れていない人とも適切な関係を作っていける(かもしれない)。

そのためには親としては、両方のルーツに対して興味、肯定、誇りが持てるようにするべきなのだろうとも思う。映画の登場人物たちは、育ち方や環境もまちまちだが、どのように2つのルーツを肯定的に自分自身の一部にしてきたかということを見せてくれる。そこに至るまでのサポートは親としてはしていきたいものだ。

『すごいヤツだなあ』と思ったのが、映画に登場するガーナとのハーフの男性だ。日常的にハーフは何度も自己紹介しなければならないことがおこるが、何度でも喜んで自己紹介するよ、といったことを述べている。その理由は自己紹介をされた側にとって、その時点でハーフが特別なことではなくなり、これを繰り返すことで次の世代ではハーフという存在が普通のことになるからだ。

■100年単位で考えた映画の位置付け

ドイツでは定住外国人や外国の背景を持った人たちについて、どのように社会的統合を果たしていくかという議論が行われて久しい。それにしても想定される『外国系市民』とはイスラム教やトルコという属性の人ということがけっこう多い。というのもドイツは高度経済成長期の労働者不足に対応すべく、トルコを中心に『一時的な労働力』を迎え入れたが、そのままトルコに帰ることなく定住した経緯があるからだ。

興味深いのは近年になって移民の子供が映画監督としてデビュー。トルコ移民の物語をユーモラスに描いた『アルマニヤ ドイツへようこそ』(2011年)といった映画がヒットしたことだ。ドイツ社会である種の『問題』とされている属性の人の中から、映画を作る能力と社会的器量をもち、自分の属性について堂々と表現できる人が登場してきているのだ。そして商業映画として社会も受け入れられる状況になっている。社会的統合は未だに継続的な課題だが、100年単位で考えると、こういう映画の誕生はトルコ系移民そのものの変化と、トルコ系移民の社会的受容の変化の一つの象徴と見てもよいだろう。

日本をみるとHAFUは長きにわたり少数派だった。しかし20世紀の終わりごろから『国際化』のせいか、国際結婚が増加。いわば、その子どもたちが日本社会という文脈のなかで自らの存在を示し、それによって議論がおこり、さらにハーフの当事者たちも社会的アイデンティティを模索する時代になった。映画作品はそのひとつの象徴なのだろう。100年単位で考えると、日本社会でHAFUがマイノリティではなくなる最初の段階に入り始めたといってもよい。(了)

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※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。