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対人コミュニケーションのグローバルリテラシーについて

夏目漱石も失敗した!?

2013年1月25日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

日常生活で邦人か外国人かという識別をすることはありがちだが、国際結婚やグローバル化で世の中なかなか複雑になっている。個人が持つ国や人種などの背景に敬意を持って社交できるようにしたいものだが、対人コミュニケーションのグローバルリテラシーとでもいうものについて考えてみたい。

■知性と品性、そして経験たとえばパーティで人と会ったときに、『この人は外国人かそうではないか』という識別をすることがある。それは容姿や服装、言葉といったもので無意識のうちに識別しようとする。もっともそれ自体は良い悪いという話ではない。

問題は容姿などの情報だけで『○○人だ』と決めつけて対応することである。私は間違われたからといって、いちいち目くじらをたてるわけではないが、対人コミュニケーションのグローバルリテラシーとでもいったような点で、その人の『知性』『品性』『経験』のようなことがあらわれているように感じる。

■いきなり『ニイハオ』

個人的な体験をいくつかの書こう。

狭義のドイツ人と思われる男性から、いきなり『ニイハオ』と挨拶されたことがある。その男性は嬉しそうにニコニコしている。まるで外国人とはじめて交流を持った子供のように。しかし私は、男性とは面識もないので面食らっていると、『え、中国人じゃないの?』ときた。

子供の学校の保護者会に出かけたとき、ある男性教師から『○○のお父さんでしょ』とベトナム系の生徒の親と決めつけて話してきた。

いずれもエアランゲンでの話で、この町は外国人比率は14 -15%ぐらい。日本でいうところの『ハーフ』や、移民の子孫など『外国のルーツ』を背景に持つ人もかなりいる。外国人と接触する『経験』はかなり生じる環境だ。それだけに思い込みをストレートにぶつけてくるというのは知性と品性に疑問を持つ。

オバマ氏が大統領になったころのこと、日本のある小学校で、校舎のそばをアフリカ系の男性が通りかかった。それを見かけた子供たちが窓から体をのりだして、『オバマ大統領!』といっせいに手をふり、先生までも一緒になってやっていた、という話を読んだことがある。日本はまだまだ『経験』が少ないとはいえ、すくなくともその先生の知性と品性にやはり疑問を持つ。

真逆のこともある。何年か前にオーストリアのチロル地方の小さな幼稚園を訪ねた。ここは外国人の少ないところで、アジア系やアフリカ系はほぼ皆無だろう。娘と日本語で話していると、そばにいた先生が遠慮気味に話しかけてきた。『あのう、質問してもいいですか?』『はい、もちろん』『あなたたちは何語を話されているのか教えてもらえませんか?』。この先生、好奇心が強く、同時に知性と品性が際立ち、まったく嫌な感じはしなかった。

■気持ちのいい誤解

年明けに息子のクラスの有志でロッククライミングの施設へ遊びに行った。クラスメイトの妹(9歳)とそのお母さんと3人で椅子にすわって話すことがあったが、日本のことなどいろいろ話しているうちに9歳の彼女が私に言った。『あなたは中国人なのかなかあって考えてた』と言ってニコリと笑った。

彼女は私がアジアのどこの国の出身かずっと興味があったのだろう。しかし、話のなかでようやく疑問が晴れ、それを吐露したという感じだった。思い込みを前提に話しかけてくる大人に比べると気持ちのよい誤解だった。(ちなみに実は何年か前に同じような内容である少年と接したことがある。彼には『説教』をしたのだが、結果的に気持ちのいい交流ができた)

彼女の振る舞いを個人に帰すると『子は親の鏡』によるものなのかもしれないが、ある意味、世代的に外国人との接触する経験が増えていて、対人コミュニケーションのグローバルリテラシーが備わってきているのかなという印象も持った。10年以上前のことだが、旅行でドイツにきたとき、観光客の来ないようなところを一人で歩いていると幼稚園児たちが私を見て『中国人だ~!』とはやし立てたことがあったが、ドイツ社会も変わってきたのかなと実感する。

私は9歳の彼女に話を続けた。『アジアの国はたくさんあるから、そりゃわかんないよね。逆のことをいえば、僕にとってヨーロッパ系の人は皆同じに見える。たとえば君は僕から見るとフランス人だかドイツ人だかわからないということも出てくるわけやね』というと、『あ、考えたらそりゃそうだ』という感じでぱっと表情がかわり、そして頷いた。お母さんはもっと大きく頷いて『確かに中央ヨーロッパ系は国籍関係なしに見かけが皆よく似てるしね』と言葉を足した。

■漱石のしくじり

日本を見ると、アフリカ系の人に『オバマ大統領!』と手をふる子供や(主に欧州系との)『ハーフ』に注目がいったりというのは、これまでの同質性幻想が支配的だった日本社会の文脈でいえば仕方がない部分もある。また私も理解できないわけでもない。私の体験でいえば少し前のドイツだってどっこいどっこいだし、今をもって知性と品性に疑問を持つ大人もいる。(余談だが、オバマ大統領の母親はヨーロッパ系。もしDNAのいたずらで容姿がヨーロッパ系に近かったら、世界はどんなふうに反応したか、大変興味がある。)

それにしても、個人がもつ背景を個性の一部として尊重しつつ、歪んだ強調をせずに社交できるようにしていくべきなんだろうと思う。

ところで、かの夏目漱石もその昔、おもしろい体験をしている。

『漱石日記』(平岡敏夫編、岩波文庫)によると、漱石は横浜から船でヨーロッパで向かうが、船を見回すと漱石一行以外は皆異人だった。<その中に一人日本人がいたから、これは面白いと思って話をしかけて見たら驚いた。香港生の葡萄牙(ポルトガル)人であった。神戸からも一人日本人が乗た(のった)と思って喜んでおったら、これも豈計(あにはか)らんや組で、支那の女にイギリスの男がつがって出来た合のこであった。>

そんな体験をした漱石は続けてこう記している。<これから先も気をつけないと妙な間違をしてしくじることがある。注意々々>。

思い込みで接し、しくじった漱石が自らの知性と品性を恥じてると考えるのは深読みかもしすぎかもしれないが、体験をもとに対人コミュニケーションのあり方について反省しているのが面白い。それにしても日本人だと勘違いして話しかけた人の背景を書いているということは、なんらかの対話があったから知り得たはずだ。どんなふうに、どんな話をしたのかが興味深い。明治33年(1900年)、今から100年以上前のエピソードだ。(了)

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※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。