「地味なものに注目」元年にしてみれば?┃高松平藏/在独ジャーナリスト

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「地味なものに注目」元年にしてみれば?

ケーキに例えて地域社会を考える

2017年1月1日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

「スピード感をもって」「役に立つ」といった言葉が飛び交う日本。短期で成果を求める考え方が支配的なのだろう。そういう思考は必要だが、すべてに適用してはよくない。地味で役にたっていなさそうなものと両立してこそ、安定性とダイナミズムを備え持った社会ができるのではないか。

■地域の安定性とグローバリゼーション

昨年秋、新著の出版にあわせ、学芸出版さんが東京・京都で対談イベント企画してくださった。

お相手いただいたのが小門裕幸さん(法政大学キャリアデザイン学部教授) と広井良典さん(京都大学こころの未来研究センター教授)。それぞれ刺激を受けた対談になったのだが、共通して浮かび上がったのが、ドイツの社会的安定性と、それを実現する地域のメカニズムの存在。私の言葉でいえば「自治の力」ということになろうか。

一方、グローバリゼーションは世界のヒト・モノ・カネのダイナミズムを促進する。これにうまく同調できるとよいが、膨張指向の資本の論理と絡み合い、必要以上の緊張や競争、格差が生じやすい。そんな中でドイツの地域社会は健闘し、社会の安定性を維持する力が働く。

■経営技術に傾注する日本

日本はといえば明治以降、中央に権限を集め、富国(+強兵)開発主義で走ってきたが、1990年代にうまくいかなくなる。その代わりに成果主義や新自由主義といったものと歩調を合わせるかのように、経営技術を駆使しすぎるようになった。自治体をはじめ、教育や研究といった分野などはそういう尺度で評価されるようになってきていることや、労働市場での使い捨て型雇用などはわかりやすい例だろう。余談めくが社会の寛容性の低下とも無関係ではあるまい。

経営技術の基本的な枠組みは、ヒト・モノ・カネ・情報といった資源を効率的に組み合わせ、比較的短い期間で、最大の成果を上げることだ。これ自体素晴らしいことだが、資源の醸成に経営技術を適用しすぎると危険だ。

■資源は長い時間かけてできる

なぜ危険なのか?それは、これらの資源は、文化や好奇心にもとづいた試行錯誤など、長時間かけてできあがっているものが多く、経営技術の時間感覚とは基本的に異なるからだ。「ムダ」に見えるのも経営技術の時間感覚で見るためだ。

研究でいえば基礎研究。教育でいえば、いわゆる文系科目に多く含まれる、知的態度・体力をつける部分だ。

地域でいえば、自治の範囲内での多様で無数の社交がそうだろう。 中央集権で開発型国家の日本は、国富を優先させる経済地理政策を打つ。結果的に村落にあったコミュニティの衰退につながるわけだが、かといって地方で、青臭いほど自由・平等・連帯といった原理を念頭におきながら、行政や企業、市民たちが有機的に関係をつくるような、都市型の社交を成り立たせる手立てもほとんど行わなかった。

こういう地方の様子を見たとき、全体像としてはドイツのほうが「自治の力」を維持しているように思えるのだ。

ラウ大統領の例えにそって分類してみた。ラウ・マトリックスとでも呼ぼうか。

■文化はケーキの上の生クリームではない

ヨハネス・ラウ大統領(任期1999-2004)の演説に「文化はケーキの上の生クリームではなく、生地の中の酵母である」という一節がある。

この言葉になぞらえるならば、経営技術への傾注は見栄えのよい生クリームに気を取られているようなものだ。かたや地味で「役立たず」に見えるものは、実はケーキそのものを膨らます酵母のような役割をなしているのではないか。いくら生クリームがあってもケーキそのものを膨らませる酵母がなければ、どうしようもない。

今日、社会に求められるのは、自由や社会的公正が維持される安定性と、問題を創造的に解決していくダイナミズムの両方だ。そういう社会は自治の範囲で作っていくべきだし、これには生クリームも酵母も必要だ。

酵母も大切にする地域が集積した国はムダが多そうに見えるが、結果的に他国から敬意も得られ、長持ちすると思う。こういう国を成熟国家とか文化大国と呼ぶのではないか。(了)

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