あいちトリエンナーレの件から見える3つの「日本の残念」丨在独ジャーナリスト・高松平藏

Interlocal Journal はドイツ・エアランゲン在住のジャーナリスト・高松平藏が主宰するウエブサイトです。

前の記事高松平藏の記事一覧次の記事

あいちトリエンナーレの件から見える3つの「日本の残念」

輸入型デモクラシーの国に必要な努力とは?

2019年8月5日

執筆者 高松平藏(ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)

名古屋で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像などの展示に批判が噴出。この企画展の中止が発表された(中国新聞電子版 2019年8月4日付)。この一件には輸入型デモクラシーの国の「残念」が見えるように思う。

実は個人的には日本の芸術祭の類には食指が動かないのだが、この一件を知った時、「またか」「やっぱり」といった言葉が重なるような気持ちになった。私は日本の実際の雰囲気はわからないし、トリエンナーレに足を運んだわけではない。だが、日本から離れたところから見たときに、そこにはいくつかの「日本の残念」が見いだせる。とりあえず3つ挙げたい。

残念1 芸術の意義を語れる政治家がいない

ドイツで同様のことが起こればどうなるか考えてみた。おそらく文化政策に取り組んでいる政治家からかなりいろんな言葉が出てくるだろう。

実際、もう10年以上前になるが、私が住むエアランゲン市でも政治(具体的にはユダヤ人問題)と芸術がぶつかる案件があった。しかし市の文化大臣に相当するポストの人物が中心にになって、市議、専門家、市民らが慎重かつ幅広い議論を行い、芸術側の正当性を明らかにした。(拙著「ドイツの地方都市はなぜ元気なのか」でも触れている)。この時の主催者は市であるが、これがデモクラシーの国の自治体であり、政治家であり、そして芸術なのかと思った。

1990年代から日本国内でも学術界やNPOなどが中心になって、文化政策を考える動きがある。しかし日本で芸術の意義を語れる政治家はほとんどいない。本来、こういう問題が出てくると、政治家も交えて幅広い議論ができる機会といえる。 また、この件の最初のころ出てきた津田大介氏の発言 <日本が自国の現在、または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会になっていること。それをこうやって内外に示すことの意味を、よくお考えいただき...>( ハフポスト日本版 8月3日付)には同感だ。国益とか国のブランディングということに主眼を置く人にとっても説得力があるはずだが、そういう考え方はどうも出てきにくいらしい。むしろ安全確保さえままならない状況になるのは残念極まりない。

残念2 表現の自由を制限すると何がまずいかがわかっていない

拙稿はSNSに限定公開した所感をもとに書いている。コメント欄に、すでに報道の自由がなくなりつつあるなか、表現の自由の危機に対峙する時がついに来たかと思った。という趣旨の書き込みをして下さった方がいた。

表現の自由(ドイツでは「意見の自由」という言い方になる)をなくすことを決定した権力側の人間も、その自由を失うことを意味する。権力構造がくずれるたとき、そのまずさを体験するだろう。昨今、憲法から人権を削除を主張をする政治家もいると聞くが、これも同様。難解な政治哲学を持ち出さなくともわかりそうなことだ。

余談だが、検閲に対する感覚も日本は鈍い。戦時中に行われた焚書(本を焼くこと)に対するメモリアルデーがエアランゲンで行われたことがある。この話を在独の日本の方にしたところ「なぜ本を焼いてはいけないのか」という返事がかえってきた。デモクラシーの文脈では、焚書は権力側にとって、都合の悪い思想を統制することであるが、ピンとこないのだ。

参考:インスタ映えだけじゃない現代アートの役割 日本とドイツで芸術イベントはこんなに違う

残念3 輸入型デモクラシーという事情

ドイツはデモクラシーをベースにした国で、地方をその中核としている。私はそんな国の地方都市を継続的に取材・調査・観察しているが、ここから見ると、日本のデモクラシーはいかにも欧米からの輸入品に見える。例えていえば、日本を訪ねた欧米人が、美しい風呂敷を買って持ち帰ったものの、文化的な文脈がわからないので、壁飾りにするなど、勝手な解釈をし、自由すぎる使い方をするのと同じである。

風呂敷を壁飾りに使う程度なら、なんら問題ない。逆に日本から見ると「外国ならではの斬新でおしゃれな使い方」だ。しかし「デモクラシー」は国の形をつくる基本だ。風呂敷とは違う。そして「輸入品」なので誤解や誤読が生じるのは当然、欧米での歴史的な文脈はさらに解りにくい。だからこそ、常にデモクラシーの理解を深め、あらゆる面から健全性を追求していく必要が私はあると思う。

たとえば、日本では選挙の投票率ばかりに注目する。それは大切なことではあるが、選挙はデモクラシーの氷山の一角だ。実はドイツの地方選挙となると、投票率はそれほど高くはない。これを問題視する意見もあるが、選挙のほかにも政治へのアクセスはたくさんあり、そのための教育もある。ここが重要だ。

参考:ドイツの小学生が「デモの手順」を学ぶ理由

そして、政治と個人のアクセスを担保するもののひとつが、表現の自由(意見の自由)である。「芸術」にひきつけると、作家は自身が感じている社会や政治を作品にする一面がある。辛辣なお笑いにする欧米のコメディなどは、より明確な形で出てくる言語芸術といえるだろう。だからこそ、作品を通じて様々な議論が生じる。意見表明のダイナミズムがなくなればデモクラシーはやせ細っていく。ドイツの特殊性をいえば、デモクラシーベースの憲法が合法的に骨抜きにされた歴史がある。それが麻生太郎氏のいう(学ぶべき)「ナチスの手口」であり、デモクラシーは思いのほか脆い。

■大統領の文化に関する見解

以上、3つの「残念」を挙げたが、「表現の自由」「芸術と政治」といったテーマについて、多くの人がこれだけ語る機会になったのは唯一の救いかもしれない。

それから、芸術は文化のなかに含まれる概念だが、ヨハネス・ラウ(ドイツ連邦共和国第8代大統領)の言葉でしめておこう。

「文化はケーキの上の生クリームではなく、生地の中の酵母である」

この言葉を理解できる政治家の方がおられたら、今回のトリエンナーレの件をどう見るか聞いてみたい。(了)

<ひょっとして関連するかもしれない記事>

新聞を教材に-ドイツの学校カリキュラム/ 情報化時代の授業

※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。