<博多港から対馬までの海域に感じる歴史の重み>
・この9月29日から2泊3日の旅程で対馬と壱岐両島を旅した。29日博多港を高速のジェットフオイルで10:30出港。少雨のなか、 博多港出港後20分で右に玄海島を、その奥に小さな桂島を望みながら船は壱岐経由で対馬厳原港へと進む。この辺りがあの元寇の乱の戦いの海域かとの感慨に暫し耽った。
・途中、壱岐の郷の浦港着11:40。博多港から1時間10分。郷の浦港発11:55 。13:30に対馬厳原港に着く。博多港からは約4時間の船旅。
・今回は、阪急クリスタルハートのパック旅行で60歳代以上と思しき夫婦8組+添乗員1名の旅であった。
全員ほぼあちこちの旅行を終えた感じの老人会の如き旅行。聞けば最高齢は84歳と6ヶ月のお爺ちゃんながら、杖も使わず矍鑠たるご様子。どうやら老人会の如きこんな旅行でも、フレイユ到達年齢85歳以前で、かつ、杖不使用は旅行参加者が自ら守るべき条件であるように思った。
確かに今回の旅程のなかにも、5,60mの坂や100段もある階段を自力で歩き上がる観光スポットもあり、杖付きでは問題ありと感じた。日本老年医学会のフレイユ到達年齢の定義85歳説は、今回の旅でもその定義の正しさを確認し得たように思った。
<日本の外交・国交の最前線の津馬>
・対馬と朝鮮との距離は、わずかに49.5キロ。対馬は韓国という、日本にとって外国と最も近距離にある外交・国交の最前線の島である。そのために、博多港からのこの海域は、言わずもがなのことながら、歴史的にみて、元寇の乱、秀吉の朝鮮征伐、更には室町時代以降鎖国の江戸時代を通じて、この島へやって来る韓国通信使による海外情報の入手ルートともなり、明治以降は日露戦争時のバルチック艦隊との戦いで大きな勝利を収めるなど実に様々な歴史を刻んできた地域である。
それだけに、数ある観光地のなかでも、この両島への旅は、単なる風景を楽しむ以上に、両島に刻まれてきたこれらの歴史の重みを確認することも大きな楽しみとなった。
・そういえば、3年前に訪問した佐賀県唐津市の名護屋城址は、秀吉の朝鮮征伐に当たって築城されたお城であるが、その地上2,300mの高台にあるその城址には「太閤が睨みし海の霞かな」という大きな句碑(S8年:青木月斗の句)があったことを思い出した。秀吉はあの朝鮮征伐の際、ここから朝鮮へ次々に出帆するわが船団を眺めながら、自らの野望の成就を願ったのであろう、との後世の歌人の作った句である。
<今もその痕跡を両島に残す日露戦争のレガシー(遺産)>
・以上のようなことで、旅行記として書きたい、それぞれの島の風土・景色・島事情などそれぞれに感じるところは大きいのであるが、その旅行記としては、まずは、今も両島にその痕跡を共通に残す「日露戦争から敗戦時までの歴史」を優先して纏めてみたい。
<レガシーその1:対馬の「万関橋」>
・対馬の「万関橋」とは、日露戦争前後の日本海軍の戦略と大いに関わる橋である。明治後期、南下政策をとるロシアとの戦争の機運が高まるなか、日本の軍艦が上対馬と下対馬のこの狭い海路を通って津軽海峡方面に直ちに出撃できるように 、日本海軍は1905年(日露戦争勃発の前年)にこの狭い海路掘削拡張に巨費をかけた工事を実施した。「万関橋」はその海路の上に架かる朱色の橋で、今の橋はその後架け替えられた何代目かの橋である。
当時の海軍の戦略上の理由で拡張掘削されたこの海路は、当時は純然たる戦略上の必要性で掘削されたものではあるが、その効果は平時の今でも、上対馬と下対馬の海上交通の利便性を高める上で大いに役立っているのだそうである。
その意味では戦争時の遺産が今も実際に役立っている稀有な事例ではあろうと思うが、下記に記す話を考えると、戦争最優先で「費用対効果」などの観点は全く度外視された戦時の遺産であることには間違いなさそうだ。
・ガイドさんの説明によると、今の金額なら1兆円を優に超えるほどの多額の金がこの「万関橋」の下の海路拡張に投じられたのだそうである。
そしてそれが当時の対馬の住民には大きな喜びを与えると共に、対馬の国家戦略上の重要性の認識を高めることにも大いに役立ったのだそうである。
この事実は、明治政府が、この対島海峡を、中・韓・露に睨みを利かす上で如何に重要な戦略海域であるか、と考えていたことが読み取れる話である。
・日本海軍は、この「万関橋」着工の翌年に始まった日本海開戦(1906年5月)では、この海路を利用して出撃した駆逐艦がバルチック艦隊との勝利に大いに寄与したと発表していたそうである。
がしかし、ネットでその件を検索してみると、日露戦争時この海路から日本の駆逐艦が出撃した事実はないとのことである。
ということは、日露戦争の勝利に貢献したことを理由にすれば、全てがまかり通るという当時の風潮を悪用した日本海軍の過てるPR作戦 だったのであろうか、とも考えたくなるのである。
<レガシーその2:壱岐の「黒崎砲台跡」>
・2日目午後の観光の目玉の一つは、壱岐の最先端の地に津軽海峡向けに構築された黒崎砲台跡地の見物であった。
そしてそこで見た巨大な砲台跡地から得た関連事実と、一旅行者たる小生が、帰宅後様々なネット検索の結果得た関連情報に照らして考察してみた結果、小生の頭に浮かび挙がったのは、太平洋戦争時の日本海軍もまた、日露戦争時に、バルチック艦隊を津軽海峡で待ち受けて勝利したあの劇的な成功体験が、その後の作戦戦略上にも、あまりにも“抜きがたいほどの思考停止”を齎していたのではなかろうか、との軍部愚策への驚きであった。
・この砲台跡の近くにその記念館がある。そこに展示された資料によると、この砲台は昭和3年(1927年)から5年間(1932年)ごろに原型が完成され、当時東洋一砲台の跡地であったと説明されている。
更に展示のイラストによると、只今観光客が覗ける、その巨大な円筒形のコンクリートの穴の下には、当時かなり大きな地下要塞が構築されていたようである。
またここに展示されている説明資料によると、「この黒崎砲台には、長門型戦艦・土佐の主砲2門(口径41センチ、砲身18.8m*下記脚参照)が設置された」とある。更に説明には、この黒崎砲台は、完成以来試験・訓練射撃は行われてきたが敗戦まで、一度も実戦に使われることはなかった。昭和25年8月、米軍の指示により、解体撤去・・・鉄くずとして製鉄所入りした」との説明もある。
(*坂本脚注:戦艦大和装備の巨砲は口径46センチ、砲身20.7m)
・またこの砲台に関する情報を更にググってみると、その砲台の一発の砲弾の重量は1トン。更なる説明によるとこの砲台からの射程距離は35キロとある。
そこで小生は考えた。対馬と壱岐の距離は約70キロである。対馬と壱岐の両島にこのような巨砲陣地を築けば、津軽海峡を通過する敵艦隊を両島からの砲撃で迎撃できるという計算が成り立つ。
両島を“不沈戦艦”にする発想であったのでは?と考えた。
・小生は、また、この砲台が昭和3年(1927年)に着工された時期にも関心を持ち、1921年に締結されたワシントン海軍軍縮会議で決められた米英日の戦艦保有率の割合が5:5:3になったこととの関係についてもググって見た。
その検索の結果、戦艦土佐は1922年のワシントン条約の結果を受けて廃艦となった、というそのものずばりの情報にたどり着いた。
結果その検索で分ったことは、戦艦土佐そのものは廃艦として自沈されたが、その巨砲は、津軽海峡を通過する敵艦隊を砲撃するために転用されたということであるようだ。
<日本海軍戦略についての2つの不可解な疑問>
・以上の事実から小生は、当時の日本海軍の戦略について以下の2つの点で不可解に思ったのである。
その第一は、黒崎砲台の工事が着工された1927年といえば、第一次世界大戦が終結して9年目であり、次なる大戦においては飛行機が新たの兵器として大いに注目されていた時代であったにも拘らず、次なる大戦でも依然として「大鑑巨砲主義」が継続するとの前提で黒崎砲台が着工されたのであろうかという疑問である。
第二の疑問は、当時次なる日本の仮想敵国はアメリカであることが明確になっていたにも拘らず、アメリカの艦隊が、バルチック艦隊と同じように、あたかも日本の日露戦争の成功体験に合わせるかのように、日本に都合よく、津軽海峡を通過して日本本土を攻撃するとでも期待して黒崎砲台が建設されたのであろうか、との疑問である。
<上官の命令は陛下の命令であるという意思決定機構>
・あの東郷元帥は軍神として祀られていたことから考えて、当時は「バルチック艦隊撃滅の勝利は、何にも勝る“不動の勝利の方程式”であったのであろう」と感じるのである。
また思い出したのは、戦時中、子供ながらもよく聞かされた「上官の命令は陛下の命令と思え」という言葉である。そういうことから連想したことは、戦前の軍部の意思決定機構に於いては、様々な部下の意見や考察などは、たとえそれが合理的考察・判断であっても、多くの場合それが封殺されていたのではなかろうか、と考えたのである。
何しろこの戦陣訓は「上官の命令=無誤謬」を前提にしているからである。
・上記の感想の記述に「レガシー」という言葉を敢えて使った。
その言葉を「大辞泉」で確認すると、①遺産。先人の遺物。②時代遅れのもの。例示「レガシーシステム」とある。黒崎砲台は将に「時代遅れのレガシーシステム」といえるのではなかろうか。
<対馬と壱岐に関するその他の情報>
・対馬の人口は約34,000人。特に目立った地場産業もないため、高校や中学校を卒業した若者のほとんどが島を離れる構造的問題があるために人口は年々減少、その影響での高齢化の進行は本土以上に深刻である。
・しかも韓国までは49.5キロという事情から、韓国からの観光客は年間約20万人もあり、しかもそれが年々増えつづけているという。
韓国人が島の土地を取得しているようなケースも増えているようだが、土地・不動産の所有形態・名義は様々で、その実態は不明とのことであった。
・島には「韓国展望台」があるが、対馬に観光で来た多くの韓国観光人はそこに登り、夕刻時には、夕空に煌めく釜山を眺めては郷土愛を確認しているとの説明もあった。
・またこの島には、島の人口の割に学校の数が多いという特徴もある。小学校23校、中学13校、高校3校だそうだ。それは、淡路島よりも広い面積ながらもその90%が山林で、山だらけという地形から必然的に人々の住む集落は狭い海岸に散らばって点在していることが原因しているそうである。
・また島には、“対馬ヤマネコ”が代表しているように、対馬にしかいない対馬独自の生態系もあるが、その多くが只今絶滅の危機に瀕しているそうである。“対馬ヤマネコ”の場合も、島の北部の狭い一部の地域に数拾匹程度生息しているだけとのことであり、その絶滅の危機を救うべく、今福岡市の「“対馬ヤマネコ”保護センター」でその“つがい”に子供を産ませ、ある程度成長した段階で、その“子供ヤマネコ”を対馬の自然に戻す取り組みが進行中である、との説明があった。
・対馬に比べて壱岐は平野部にも恵まれ、“壱岐牛”や“壱岐米”の生産も盛んである。その米の作付面積は、九州では、佐賀平野に次ぐ広い面積であり、味も自慢の「一目惚れ」などの生産が盛んで、土産ものとしても多く売られているそうだ。
・また壱岐で宿泊したホテル「海里村上」での料理は、その料理の素晴らしさだけでも再度訪問したいと思うほどのものであった。そこで頂いた夕食の“お品書き”は21種。鮑・サザエ・イカ・壱岐牛など現地の食材は全てが美味で絶品であった。その上レストランの窓の向こうには広々とした海の風景が広がり、かつまた、眼の前では料理長の名人芸の如き包丁裁きを見ながらの、2時間たっぷりの会食であった。なお翌朝の朝食すらも11種の多彩なメニューであった。 (坂本幸雄 H28.10.4記)
壱岐対馬の風景等LINK
「対馬烏帽子岳展望台」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/847/
「対馬韓国展望台」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/51952/
「対馬和多都美神社」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/839/
「壱岐黒崎砲台」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/737/
「壱岐猿岩」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/736/
「壱岐はらぼげ地蔵」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/758/
「壱岐左京鼻」http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/757/
「壱岐ホテル海里村上」http://www.kairi-murakami.com/index.html
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坂本兄
下條 剛一 2016.10.7
何時も 一橋33Qnetでの貴兄の健筆ぶりを拝読し、その弛まぬ探求心と読書熱に敬服しております。
今回の「対馬壱岐旅行」の寄稿は、小生の祖父が偶々壱岐出身のため、一層興味深く拝読しました。
東洋一と称されている黒崎砲台が対岸の対馬の砲台と呼応して、戦略上重要拠点と見做されていたこと、よく理解できました。しかも、この砲台の建設の時期が、1927年(昭和2年)から1933年(昭和8年)だったとは、当時の軍部の時代錯誤的発想に驚かされました。さはさりながら、日本列島の防人として、時の流れにもまれながらも、逞しく生きてきた島の存在を再認識しました。
祖父の実家は、島の東南にある壱岐空港の近くの石田町印通寺(港)ですので、貴兄が泊まった郷ノ浦とは反対側ですが、壱岐は何処でも海産物に恵まれいて、それがとてつもなく美味いと、祖父が何時も言っていたのを思い出しました。
又、電力の鬼と言われた松永安左エ門氏とは同じ町内で、祖父の方が10才ぐらい若輩でしたが、しばらくの間、年賀状の交換していた模様で、「松永さんは偉くなったもんだ」と言っていたのを覚えています。
貴兄の旅行記に促されて、壱岐方面への初旅を計画したいと思います。
Qクラスの「赤とんぼ」で、貴兄が原爆で犠牲となった肉親の皆さんへの思いを綴った文章は、未だに小生の頭の片隅に健在です。
今後とも、貴兄の筆捌きに期待申し上げます。
下條 剛一 2016.10.7
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下條さん 2016.10.8
・今回の小生の拙い旅行記への返信ありがとうございます。
・壱岐が貴兄のおじいちゃんの故郷とは、「びっくりポン」ですね。
・おじいちゃんの言葉の如く、壱岐の“海里村上”で味わった素晴らしい料理のお蔭で、この島は、その自然の風景だけでなく鮑、サザエ、剣先イカ、つぶ貝、赤うに、あらがき、壱岐牛、更に様々な野菜・くだものなど、実に豊かな海と陸の幸にも恵まれたところで、2,3日滞在の旅人にも、ここは本当に天国ようなところに思えたのです。貴兄の場合、ご先祖様のルーツ探しというもう一つの意味も含めて、何がさて置き、是非訪問してください。間違いなく感激するでしょう。
・島の観光の際、九電の火力発電所の近くを通るとき、ガイドさんから、重油をメインにした島の電力事情の説明の序に、あの松永安左エ門氏がこの島の出身者であることの説明があり、この島の風土は、また凄い人材をも生み出しているのだなぁ、と感嘆しました。貴兄のメールにある如く、「日本列島の防人として、時の流れにもまれながらも、逞しく生きてきた島の存在」がかくも素晴らしき人物を生み出す壱岐の気風ともなったのでありましょう。
坂本
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