大島昌二 2017.3.1(水)
写真レポートを読んで戴いた方の中から興味深いインプットを頂いたので以下にそれをご紹介し、またその後に気づいたことも書き加えて「補遺」を作成することにしました。
一つはPクラスの小野寺京二君の友人のKさんからの1950年代の「根川」の湧水池の写真です。
根川や多摩川は少年期のKさんの遊び場だったということです。鉄管から激しくほとばしる湧水は前回送信した根川の源泉(写真6469)と同じ場所です。もう一枚はその近く(現琴帯橋付近)にあったボート小屋跡とのことです。いずれも1954年8月の撮影ということですからわれわれの入学した年の夏です。その時も今もここから湧水は変わらず湧き出ています。
もう一つはNHKのテレビ番組で神戸六甲山の湧水が赤道直下でも「腐らない水」として船乗りに重宝されていたという放送があったという話でした。昔の船乗りの苦労はビタミンの欠乏、食品の腐敗など海の男が直面した問題は数多ありますが「腐敗しない水」というのは初耳でした。ところがなんとそれを教えられた翌日、東京新聞に「インド洋に行っても腐らない」という湧水の出る「ジェラール水屋敷」が紹介されていました(添付記事参照)。
次いでの日曜2月26日には東京マラソンが新宿から下町をめぐって東京駅へとこれまでとコースを変えて挙行されましたが走路の断面図を見ると山手(新宿)から一気に坂をかけ下ればあとは平坦な低地が長く続いていることが示されていました。
先のレポートでは、最後に湧水は個別に捉えるのではなく海に流れ入るまでの全体像をとらえる必要があることに気づきますが、人びとはまずそれぞれの湧水地(谷戸)を中心にして土着したこと、今のように都心集中型の人口分布ではない生活スタイルがあったことにも気づかされます。
国立市には多摩信用金庫(通称「多摩しん」)が設立した「たましん地域文化財団」の本部があり、多摩地域の歴史・民俗・地理・自然などをテーマにした論考や情報などを掲載する季刊の『多摩のあゆみ』(A5判、毎号120頁前後、発行部数14,000部)を無料で配布しています。前回引用した小泉武英教授の谷戸(やと)についてのコメントはそれに掲載された同氏の田中正大著『東京の公園と原地形』の書評から引用したものです。同書は「谷戸」(とりあえず、湧水を抱えた窪地としておく)をキイワードとして東京の各種の公園の地形的な特徴を分かり易く、言うなれば、常識となっていない常識を説いたものといえます。
余談になりますが、同書は東京を離れたところで私の郷里に近い白河市の南湖公園についても特別に一章を割いて論じています。この公園は松平定信が開いた日本最初の公園と教えられてはいたもののそれが谷地に拓かれたものとは知らなかった!われわれのPクラスは2008年に会津へ旅行しましたがその帰途に白河の小峰城と関跡だけでなく南湖公園にも寄ることができたことを思い出します。
前回の写真レポートでは、多摩モノレールの柴崎体育館駅から府中の大國魂神社までの散策を、当初は「武蔵野の崖線に沿って歩いた」という題名で送ったのでした。国分寺崖線のことはある程度は知っていましたが途中の標示板で「府中崖線」という表示を見てから良く分からないままに「武蔵野崖線散策」という題に改めましましたが「武蔵野崖線」という固有名詞は大胆に過ぎたような気がします。(ウイキペディアの「武蔵野台地」などに崖線の詳細な説明があるのでそちらを参照して戴くとより正確な説明が得られるのではないかと思います。)
崖線という言葉に即して言えばわれわれの歩いた道筋は立川崖線の一部をなすとみられる青柳崖線(段丘とも呼ばれる)に沿って根川から矢川、ママ下湧水をたどって再び本来の立川崖線(府中近辺では府中崖線とも呼ばれる)にもどったと言えるでしょう。
最後に、国分寺崖線と立川崖線、および立川崖線と青柳崖線の位置関係、それに国分寺崖線のひろがりを添付しました。
鉄管から激しくほとばしる湧水は前回送信した根川の源泉(写真6469)と同じ場所です。
この一枚はその近く(現琴帯橋付近)にあったボート小屋跡とのことです。いずれも1954年8月の撮影ということですからわれわれの入学した年の夏です。その時も今もここから湧水は変わらず湧き出ています。
少女がこちらを見ています。
↓ 紙面をダブルクリックすると拡大できます(よく読めます)