国立国分寺支部山行会 P大島昌二 2017.3.28
いつの頃からかカタクリの花が人気を集めるようになった。
国立国分寺支部山行会でも旧来のメンバーは5年前(12年4月7日)に埼玉県小川町のカタクリの里を訪れている。ただし、その時はカタクリは念頭になく仙元山を歩いたついでに偶然に出くわしたのであった。
その日は土曜で人出も多かったが歩くのに苦労した記憶はない。
今回(17年3月24日)は栃木県佐野市の三毳山(みかもやま)。
人出を避ける意味で金曜の遠征でしたが群生地の遊歩道が狭く、斜面の傾斜も大きいので週末の混雑が思いやられた。
花の見栄えは年によって違うのはもとよりですが毎年来ているという人の話すところを聞くと今年は天候不順のせいでイマイチということらしかった。同じ斜面の傍らにはアズマイチゲの群落もあったのであわせてご覧に入れます。
今回は小川町の場合とは逆でカタクリよりは三毳山と岩船山の走破(?)が記憶に残りました。
三毳山へは公園の「管理センター」からカタクリの群落を囲む遊歩道にしたがって花を鑑賞し、そのまま山頂へ向かう山道に入ります。
頂上の青龍ケ岳(229m)への道は低山とはいえそれなりの険しさがありました。
そこからいったん下って東山道の三毳の関跡、ついで中岳(210m)を経て三毳神社に至ります。三毳神社からは石段を伝って下山、山裾をほぼ半周して「とちぎ花センター」に出ました。
次に向かった岩船山は山全体が一艘の船の形をしており、山頂近くには775年開山と伝えられ、鐘楼、三重の塔を備えた天台宗高勝寺があります。
かつて岩舟町(現栃木市)はこの山から掘り出される軟らかくて加工に適した岩舟石の産出で賑わったとのことですが今その面影はなく、岩舟駅(両毛線)は無人駅。バスの便もないのでわれわれも駅から管理センターまで、そして三毳山から岩船山までは例外的にタクシーを利用しました。
岩船山で特徴的なことは砕石後の荒々しい山肌もさることながらその東端に佐渡の金山を思わせる、くさび型の断裂があることでした。それも3・11の東日本大震災で崩れ落ちたもので、それまではそこから大平山(栃木市)へのトレッキング・ルートが通じていたとのことです。
ぽっかり空いた空間を見上げるとそこに吊り橋を架けたくなる衝動に駆られます。下にネットから借用した大震災以前と以後の岩船山の写真を添付しました。山は崩れたが人家の被害はなかったという。
三毳の関、高勝寺など古い歴史を伝えるこの地は万葉集の東歌にも歌われています。
下毛野(しもつけの) 三毳の山の 小楢のす
まぐはし児ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ(笥を持つは妻になるの意。)
「ゆうゆう山歩き 太平山・晃石山・馬不入山 縦走コース」より借用。同じブログの「岩船山2」では震災の傷跡に より接近した写真レポートがあります。
大島昌二撮影 iPhone作品 8点…+1点小川町のカタクリ 2012.4.7
① 三毳山カタクリの里の人出。
②カタクリの群落。
③
一隅にアズマイチゲの群落。イチリンソウと見まぎらはしい。
④この犬石は三毳の関の役人(威奴、イヌ)が往来を見張っていたことから命名されたという。
彼方の山は通ってきた青龍ケ岳。三毳の関跡はそことの間にある。
⑤中岳を過ぎたあたりのハング・グライダーの発進点。関東平野の彼方の山は筑波山。
⑥高勝寺の奥の院から先は通行止め。眼前に東日本大震災の崩落した岩壁が見える。
⑦高勝寺からの急な石段の一部。約700段と教えられたがこのセクションを同行者は585段と数えた。ほかに奥の院へもさらに上るからほぼ700段になるだろう。四国の金毘羅宮の石段数は「悩む786」と覚えるらしい。これは本殿までで奥宮へは1368段あるという。これらはまた785段とも1365段ともいう。私がかつて見損なった丸山応挙や若冲の障壁画についてネットは何も教えてくれない。
⑧岩船山(の石段)からの三毳山の全容。四囲に遮るものない三毳山からは日光、上信越の山々がよく見える。この日も雪を頂いた男体山、白根山などがよく見えた。
⑨最後に小川町で写したカタクリの写真を添付します。これは今回のようなiphone の写真ではありませんが色艶がよかったことは確かだと思う。
10時過ぎにカタクリの里の散策を開始、2つの山を経て再び岩舟駅に戻ったのは午後3時半、所要時間は昼食やタクシーの待ち時間を含めて5時間+であった。
⑨2012年4月7日小川町のカタクリ
昼食は関跡に至る前に、虫害のために伐採された松の幹に坐って摂った。
植樹に奉仕している同行の士の言を待つまでもなく赤松の木は至るところ無惨な様相を呈している。
まだ春になり切っていない山林は色彩に乏しかったが日溜りのヤマツツジと街道に降りてからのシュゼンジ・ヤマザクラ、河津ザクラが僅かに暖色を添えていた。
最後に西国分寺駅近くのS屋で総員7名で打ち上げ会。例になく談論風発して解散したのは9時過ぎだった。あの店でまじめな話題(アベノミックスの行く末やトランプの病気など)にのめり込んでいたのはわが老人のグループだけだったろう。
【追記】
1)三毳の関跡(伝承)は標識と道標が建っているだけで写真を撮りそこないましたが、山の鞍部の峠にあり、強い北風が吹き抜けていました。
東山道は東海道と並んで東国の経営と奥羽の開拓に重要な交通路だった。
東山道は険阻な山道が多く交通の障害が少なくなかったが、それでも古代においては幾つもの河川を河口付近で渡河しなければならない東海道にまさっていた。
東海道の交通事情が改善し東山道に対して優位に立ったのは天禄2年(971年)の頃からであることが文献によって示されている。
東山道がその痕跡すら見失われているのに対して東海道はますます隆盛を極めている。
1960年代初頭に、ロンドン・エコノミスト誌のノーマン・マクレーがただ一本の路線が列島の端から端までをカバーする日本の交通輸送網の効率に着目して日本経済を論じた(”Consider Japan”)ことを記憶する人もいるだろう。
延喜式には下野に7つの駅があり三毳はその1つで三鴨(みかほ)と表示されている。
2)三毳の関跡を見下ろす小高い丘に「犬石」があり、そこに次のような説明があった。
「三毳の関の役人(威(い)奴(ぬ))がこの石の上で往来する人の見張りをしていたので、威奴石といっていたものが犬石となったのだと言われている。
詠野石(えいのいし)ともいわれている。」
犬、とりわけ「狗」は「権力の走狗」などと使われ、軽蔑の対象とされることが多い。ここで使われている威奴がそのような意味合いを持たされていたかどうかは不明である。
ここでよそ道にそれるが、調査の過程で日本国語大辞典で「いぬが星をまもる(見る)」という古い諺があることを教えられた。
「高望みをする。物欲しそうなことのたとえ。」とのことである。しかしまさに「犬も歩けば棒に当る」で、私ははっと思い当たることがあった。
かつて『犬が星見た―ロシア旅行』という本を感心して読んだことがあったがこのタイトルは、詩的とは思いながらなおしっくりと来なかった。ところがこれを見て長年の疑問が氷解した。著者は武田泰淳の夫人である武田百合子。『犬が星見た』は、こんな旅行記があるのかと思わせる素晴らしい本だった。異郷の旅でまるで役立たずの夫君は彼女に向って「おいポチ、楽しいか」などと声をかける。中央アジアの都市を後に振り返って著者は「前世というものがあるなら、そのとき、ここで暮らしていたのではないかという気がした」という。
大島昌二